Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

「パルシファル」動画集

2018-10-17 | 
キリル・ペトレンコ指揮バゼリッツ画オーディ演出「パルシファル」2018年7月8日生放送動画断片の纏め。

断片が大分公式公開されている。しかし編集も無くブツ切りにされているために感興を削ぐのかあまり人気が無い。そこで折角の断片なので纏めてみた。


PARSIFAL: Vorspiel | Conductor: Kirill Petrenko

先ずは有名な前奏曲、最初から劇場の空気を支配して決めてしまうようなヴァークナーの前奏曲の中でも、晩餐から信仰そして救済へと流れが示されて、如何にも聖週間のような趣が支配する。そして最後の木管の上昇による救済の澄み渡ろうとする美しさこそは、まるで日曜日の薄暗い教会に射す重い扉の向こうの明るい新緑の陽射しへの一条の光のようだ。

PARSIFAL: Christian Gerhaher sings "Enthüllet den Gral" | Conductor: Kirill Petrenko

一幕第三部のアルフォンタスの苦悩、アンフォルタスを歌ったゲルハーハ―の歌唱と芝居はこの制作で最も劇的で劇場的に成功していたとされたが、三幕での大きな動きに比較してここではより細かな演技と歌が披露されていて、映像で観ると圧倒される。自らフィッシャーディースカウの亜流と自虐的に言うが、これだけの歌唱と演技は元祖には出来なかった。演技の大きさよりも歌唱の細やかさとその表現の大きさに驚くばかりだ。そのゲルハーハ―自体がペトレンコの指揮だからこそ引き受けて、可能だというのも、なにも他の指揮者をバカにしているのではなく、そこまで合わせた抑えた指揮は前人未踏という事でしかない ― タンホイザーでのヴォルフラムの歌然りである。しかしあの腰に巻いているものは家にある敷布のケルトである。出血で汚れているのはリアルだが、炬燵布団でなくてよかった。

PARSIFAL: "Amfortas, die Wunde" | Conductor: Kirill Petrenko

二幕のクライマックスである接吻の場である。ここでのカウフマンの熱唱は特筆されても良いと思う。ヴァークナーには向かないとか言われても、これほどセンシティヴな歌唱を知らない。それほど丁寧な管弦楽があるからだが、べルリナーフィルハーモニカーで演奏されてもこれに匹敵する歌声を誰から聞くことが可能だろうかと思う。クンドリーのそこまでのシュテムメの歌唱も見事だったが、それ以上にこの役には女性的な母性的なものと動物的な悲鳴に見られる幅の広さと、度量の良さというか受け身の、歌唱を超えた役で存在感はピカイチだったかもしれない。

PARSIFAL: Vorspiel 3. Aufzug | Conductor: Kirill Petrenko

三幕への前奏曲、「マイスタージンガー」での同じ位置の前奏曲と同じで、遅いテムポでもったいぶって演奏されると、ただ単に重苦しくなにがなんだかわからなくなるのだが、ここでも早めのテムポながら十二分に歌い込みながらその音楽構造がくっきりと浮かび上がる。まさに楽匠が呟いたように、その複雑な心象風景は劇場の皆が思い描く風景なのだ。思い描くのは決して指揮者の心象風景などではない。

PARSIFAL: Karfreitagszauber | Conductor: Kirill Petrenko

三幕の山場となる聖金曜日の音楽、ここでのシュテムメ扮するクンドリーのうつ伏せ姿勢とカウフマンのもっこりパンツでの立ち姿、そこに後ろから重なってくる麻のような服を着たグルネマンツ、そして起き上がって今度はパルシファルによる洗礼である。その傷ついた血糊のある手は中々劇場では分かり難いが、映像であるとそれなりの印象があり、オーボエによる信仰の動機へと繋がる。当代随一のグルネマンツを歌うパーペのその手慣れていながら更に細かに注意を払った歌唱には引きこまれる。

PARSIFAL: Final scene | Conductor: Kirill Petrenko

フィナーレのパルシファルによる救済である。先ずはなによりもこの管弦楽の立派なバランスに驚く。正しく楽譜を演奏すればこれだけ清澄な響きが浮かび上がるという事でしかないが、ブーレーズ指揮のバイロイトの楽団でもなせなかった響きの美しさである。なるほどバーデンバーデンでの演奏に比較すると圧倒的な響きではないのだが、その声との得も言われぬ混ざり合いは合唱においてもフィルハーモニカーには難しいかと思われる。しかし、これほどの演奏をしても10月に合席したゼムパーオパーファンのおばさんは「この座付き管弦楽団は話しにならない」と言えるのだろうか?とても不思議である。ペトレンコ監督になってから劇場特有のあのジンタから完全に決別してしまったという違和感の方が強いのだろう。まさにあれだから高度な音楽ファンは通常のオペラ劇場などからは益々足が遠ざかるのである。

こうしてこの制作の断片だけをしても、如何にこの舞台神聖劇における主題でもある「共感」無しにこの音楽が成立しないかが分る。楽匠におけるその社会性というのはとても興味深い一面である。それにしてもこの演奏の素晴らしさは、共感せずにはいられないベートーヴェン流に言えば心に入ってくる音の芸術でしかないところだ。抹香臭さや宗教的なドグマを極力排した演奏と、なにもしなかったと評判の良くなかった演出が、各々の歌手の演技や歌をこうしたヴィデオ撮影によって光を当てて、格別なハイライト集となっている。



参照:
見所をストリーミング 2018-07-09 | 音
興奮醒めぬ中継映像 2018-07-10 | 文化一般
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音楽の伝道師の想い

2018-10-16 | 文化一般
相変わらず歯根の炎症が収まらないので、様子を見て、抜歯の計画を立てないといけない。こうなるとあまり事務的な仕事も捗らず、週明けでも徒然としたことになる。

指揮者ブロムシュテットの日本での音楽伝道風景が毎年のことながら興味深い。多くの聴衆を感動させるものがそこにあり、その指揮者の本望でもある。その書籍が飛ぶように売れているのも現象ではなかろうか。私自身、本を纏めたスピノラ女史のファンなので、爺の講話はネットで無料で楽しむとして、書籍を発売前からウィッシュリストに入れたまま中々高価で購入出来ていない。内容がある程度分かっていると言えるほどのご講話のファンでもある。

だから、皆思い思いにあれだこうだという気持ちとそれほど変わらない。そして読んだり聞いたり、出来れば会って話したりすれば尚の事その人のことが気になって、またあれだこうだと想像することになる ― 恋であり、しかし何処まで行っても他人であるから心中を想像するしかないのである。そこに音楽芸術が介在する。そうなのだ、何処まで言葉を尽くしても尽くし切れない感覚を音が媒介するのである。このキリスト者は、それが摂理であり、必ず伝わることを信じている。それは信仰以外のなにものでもない。それは発言にあったように、出身文化圏に拠らずゲヴァントハウスで日曜のお勤めをすればそうした真摯な気持ちに至るというものだ。

そこには五感しかなく主観しか信じるものは無いが、それでは必ず伝わると信じられている芸術の核心とは何だろう?私は、そこでどうしても江藤淳が有名な英語教師の言葉としてその告別式に弔辞として述べた言葉を思い浮かべる。「教えることは、その授けたことがどのように生徒各々の中で消化されて、如何に誤って理解されるか、それを(その歪からその人を)学ぶことだ」と大体このような意味合いだったと思う。

91歳になる老指揮者の心中を察すると ― そこまで思いを巡らす切っ掛けとなったのはあまりにも出来が悪かったバーデンバーデンでの公演とそのアンコールの贈り物があったからだ ―、一方には長年の職業的な自負もあり、一方には自身が伝えたいことが伝わっているのだろうかという懐疑もあると想像する。それ故に聴衆の反応が結果の拠り所となっていて、当然のことながら誰よりも以前以上に反応を気に掛けているに違いない。そしてその反応の中にこの老音楽の伝道師は前記の受け取る側の人を見ていると思う。まさしく、西欧キリスト教的な文化がどのように変容されるかという事への関心にも繋がる。
Saisoneröffnung - Festspielhaus Baden-Baden


嘗ては大会場において、演奏家と聴衆の間でそうした交流が可能などとは思ってもみなかったのだが、商業メディアの影響が減少したり、SNNなどの発展による社会的なコミュニケーションの可能性が変わったことから、より双方向性の影響が強くなった。そこには会場での写真撮影なども少なからず影響して来ている。なにもそれは「ご贔屓の杉様の流し目を頂く」というのではなく、対峙するという意味だろうか。その核にあるものに対峙することは、個人差を通しての纏まった反応ということでもある。

そこから考えると日本におけるフライイング問題と苦情も一つの歪みだと思っている。例えば楽章ごとに拍手する方が明らかに自然で、そんなに高尚な交響楽など判らなくて当然という大前提が欠けているのかもしれない。むしろ後者の苦情の方が特徴で、これは今月SWR2で特集された「日本の洋楽受容」で言及された虚無僧の響きが関係するのではなかろうか。つまり、そこでは勿論仏教的ではあっても、吹く尺八の音自体は音でなくて息となり、そうした音は禅の中で捉えられるとなる。これは、例えば指揮者が興奮の為に恍惚になっていようが、唯一の神に祈ろうが、ディレクターと約束の実況録音の傷を減らす努力をしていようが、日本の聴衆はそこを禅として捉えられるということになる。これは中々出来た説明だと思うが、どうだろう。

ジャーナリストが生半可に分析する必要などない。しかし、注目すべき状況を客観的に伝える使命がある。特に音楽ジャーナリストとなれば、その演奏行為で行われていることと同時にイヴェントの中身を書き録らなければいけない。これだけのことが起こっているのに何も伝えないって言う手はあり得ない。



参照:
一先ず清濁併せ呑もう 2018-09-17 | 音
至宝維納舞踏管弦楽 2018-09-29 | 音
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一寸寝かさなければ

2018-10-15 | ワイン
バイエルン州の選挙に伴って、劇場が投票を促すヴィデオクリップを出していた。若手の歌手達が声と票を掛け合わせて声を合わせて歌っているのは中々気が利いていた。向かって左から二番目の人は「三部作」に飛び入りした人で、三番目は「パルシファル」で天の声、「指輪」でヴァルキューレ、日本公演では「魔笛」の二人目の侍女を歌っていたウィルソンのようだ。一番右の人は発売初日に朝から並んでいる人のためミミを歌っていた人だ。その功績あってか2013年よりも大分投票率が上がった様だ。車中のラディオも12政党が割拠して、保守政党が過半数を割り続けて、緑の党が第二党に、社民党が五位陥落とかだった。またしばらく多数派工作で話題を提供するのだろう。

土曜日は具合が悪くて、到底走りに行けなかった。歯根の炎症が酷かった。下手をして全身に毒素を回したくない。日曜日に走ればよいので様子を見た。食欲とか全て落ち込んでいて、免疫力が弱っているので注意をする。寝坊をしたが何とかに日曜日には峠を攻めて下りてきた。木曜日は天気が良く、駐車場の下の自然の家に宿泊していた夫婦がうろうろしていた。どのハイキングルートを取るか決めかねていた。こちらも走る柔軟体操をしていたので態々声を掛けた。だから分かった。どれぐらい健脚か分からなかったが、やはり数キロは歩きたそうだった。地図を持っていたので適当なところを教えてあげた。谷に下りて向こう側の峰に上がるが高度差も少なく、それでいて静かな山歩きが出来るからだ。再び谷に戻って来て気持ちがあれば反対側の300m高度差を上がっても良し、私が走っている林道を戻って来ても良い。基本はもう反対側の谷間の宿舎まで上手く回って戻って戻れれば良いだけだ。天気も良く心配は要らない。

土曜日のリガからの放送は面白かった。ストリーミングの音質は悪くなかったがモノラルだった。折角のヴァイオリン間の掛け合いが楽しめない。モノラルだけに距離感がくっきりで気持ち良いが、この時代に最新モノラルを聞くとは思わなかった。改めてサイトを訪れるとステレオでMP3がオンデマンドで置いてあった。やはりどこかでしくじった様だ。写真を見ると古い劇場だが、録音だけはステレオで、転送のところでモノラル化していたらしい。

演奏は可成り良かったようで ― ホルンの傷などはどうでもよいのだが、いつもライヴで細かなところは変わっているようだ ―、アンドリス・ゼニーティスの「マーラ」も伏線どころかしっかりと主題を織り込んであり、バスクラリネットの終りが唐突な感じがするのはそのように浮かび上がるようになっているようだ。オポライスの歌も地元故にか熱が入っていてよかった ― それ以上にお国言葉での日本公演についても話し、ムーティの娘の名前が出てこないインタヴューの声の表情が良かった。劇場で身内の前で歌うとなると当然かもしれない。色々と批判もあった歌であるが、これはこれで立派なレパートリーになっているなと思った。それにしてもこうした楽団がしっかりと付けると楽曲の出来がよく分る。ペトレンコ指揮のべルリナーフィルハーモニカーでの演奏が待ち遠しい。

兎に角、これだけの演奏をしているのだから中央ドイツ放送は録音を都合して勿論ステレオで熱いうちに流すべきだ。そうした文化交流の価値は、たとえリガの劇場の客が楽章ごとに拍手していても、得難いものだ。その辺りの感覚がまだまだ旧東独で教育を受けた人が牛耳っているような放送局では足りないのではないか。いずれにしてもネルソンズがここで落ち着いて仕事をする限りは、独墺圏の交響楽団としてベルリンのフィルハーモニカーとライプチッヒのゲヴァントハウスはドイツ文化を代表する双璧となるに違いない。

上の放送で面白かったのはラトヴィアの放送のアナウンスメントだった。言葉は分からないでも音の感じやイントネーションがスイスドイツ語に似ているのだ。言葉に共通項は無い筈なのだが、どうしてそのように聞こえるのか?特に中央スイスの「グルツィ」や「オーヴィーダルーガ」ルツェルンなどのそれを感じさせる話し方をする人も居る。バルティック三国の差などはよく分からないが、ジとかジュとかの音があまり濁らないからやはりロシアのそれとは大分違う。

ブロムシュテット指揮ヴィーナフィルハーモニカーに出掛けた節にフランスのスーパーUで購入したブルゴーニュを開けた。有名なジヴリー2014年ものである。なによりもハーブ風味が強く、このコートシャロネーゼの中にあるものとしては驚きの味わいだ。ボーヌ以南は比較的土地勘があるのだが、なぜこの地域だけがこれだけ違うのだろう。薄くないのである。18ユーロ程度にしてはお買い得だった。調べてみると春に同じ2015年物を買って失望している。寝かさなければいけなかったという事だ。



参照:
勝負にならないもの 2018-03-10 | ワイン
東向きゃ尾は西に 2018-10-12 | 文化一般
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音響の文化的な価値

2018-10-14 | 
この二三年探していた音源が見つかった。先日、昨年急逝した歌手ホロストフスキーのオペラハイライトCDが発売になって、その中に一曲入っていた「オネーギン」が探していたものだ。そのCDを購入するか一部を買って聞いてみるかなど考えていた。しかし、欲しいのは全曲であり、それならばと探した。今度は指揮者ペトレンコではなくて歌手の名前から検索した。すると簡単にYouTubeに昨年アップされていたものが見つかった。ラディオ実況録音であるから音質は二の次である。ヴィーンの国立劇場の演奏であるからその質には期待していなかったが、さわりを聞くとその通り酷い演奏なので、指揮者情報の信憑性が疑われたが、しばらくして総奏を聞いてペトレンコ指揮を確認した。小澤時代の座付き管弦楽団だが、監督が病に倒れて客演が振ればあんな程度だったのだろう。今はもっと悪いに違いない。
Eugene Onegin : Hvorostowsky Guryakova Breslik Furlanetto


NHKホールからの生中継を聞いた。「NHKが欧州で貴重な聴視料を浪費しているのではないか」と書いた序に考えていた。日本での演奏を海外に輸出するだけの価値があるかどうかである。それも確かめたかった。指揮者のブロムシュテット爺の音楽は先日のバーデンバーデンのコンサートで昨年より大分悪くなっていることについては既に言及した。身体の元気とは裏腹に可成り脳などが老化していると思った。要するにもうお構いなしになっている。典型的な老人性の症状だと思うが、初期の頃は大らかにやらせる度量が大きくなるように思われるが、よいよいになって徐々にどうでもよくなって殆ど投げやりと変わらなくなってくる。

それでも爺のブルックナー解釈やその譜読みは今回の中継でも充分理解可能で、また間違っていることはやっていないと思った。先月聞いたハイティンクの指揮と比較すれば作為的ではあるのだが、とても分かり易くて、立派なものだと思う。その演奏を彩るのがその指揮で、そもそも大雑把なのだが、時々大きな動きを伴って何かが起こると言った塩梅で、この辺りが最も同僚のハイティンク指揮の棒とは異なるところだろう。前半のモーツァルトもいい勝負なのかもしれない。

最も苦になったのはコンサートマスターの音楽で、モーツァルトではよくもヴィーン紛いのような演奏になっていて、これだけでも到底輸出かのうなものではない。なるほど先日同じ指揮者の振った本家のヴィーナーフィルハーモニカーよりも明らかに良いところもあったのだが、偽物は偽物でしかなくGAT違反だ。これでは、廃棄処分で、価値など一切ない。

なによりも気になったのは日本を代表する交響楽団のアンサムブルで、総奏でなくても弦だけにおいても中抜けのしっかりした音が鳴らない ― 中継では奇しくも中声部のそれについてのメンションがあったが。勿論指揮者のアインザッツの問題があることは承知の上である。あの会場で演奏している限りはまるで枯れた竹藪のような音しかならないのだろうかと思った。続けて後半のブルックナーを聞いて更にこの問題が良く分かった。

なるほどコンサートマスターの弊害が捨てきれないのだが、弦楽と管楽の間の繋がりが悪く、弦楽器奏者はコンサートマスターに合わせるしかなくそれが最も容易だろうが、管楽器陣は戸惑っているような感じで、そのヴィーン風の乗りのお陰で、とても酷いリズムになっていた ― あんなヴィーンのようなボケボケのリズム取りをしていたのではプロの交響楽団として成立しない。「一害あって一利なし」の年金生活の小遣い稼ぎの老楽士さんの為に長年構築して来たアンサムブルを潰すつもりなのだろうか?私が最後に生で聞いたのMeTooのデュトワ指揮でのフランクフルト公演であるが、その時の弦楽器のアンサムブルのつまり和音の作り方の問題をヤルヴィ指揮の下で解決しているかに見えたが、こうした指揮者の下で更に弊害のあるコンサートマスターの下で演奏することで恥部まで全て曝け出されたような演奏だった。

スケルツォなどでも総奏の打ちが定まらないのは、リズムの作りが悪いからだ。そもそもモーツァルトで経過的な楽節でその方向性が定まらなくなって、まるで主題と主題の間が叙唱のようになり、嘗てスイトナーなどが振っていた時のN饗と変わらず、全く成長していない。繰り返すが、バムベルクなどの交響楽団よりも立派に正確に演奏する面がある反面、下手以前に音楽にならない面があって、同じ指揮者が同じような程度の交響楽団を振っていることには変わりない。

それにしても私のようなリズム音痴がこのようなことを芸大を出たような皆優秀な楽士さんの演奏に対して書けるなと我ながら思うのだが、そのように考えるとアウフタクトの感覚にしても以前からすると感覚的に異なっている。それはやはりまだここに来ても永続的にドイツ語の言葉のイントネーションやリズムで感覚的に習っているものがあってそれに関係しているようだ。つまりアウフタクトのリズムと言葉の出はよく似ていて、ヴィーン訛りが特に気になるのは私が吃音系のプフェルツャー方言が知らずに身について来ている事にも関係している。その身に付くものである筈の音楽におけるリズムが、あの手の指揮のみならず、コンサートマスターの雑音が邪魔になって、お里が知れるという事だろう。要するに少々留学した位では身につかないものらしい。

同じように管楽器が幾ら肺活量強化して頑張って吹いても全く凄みが出ず、また管と弦のみならず管並びに弦同士間においてもしっかりと和音を支えられる合奏が出来ないのは、音楽教育などを受けていないドイツ人兄弟が簡単に教会でハモってしまう事との大きな差である。

さて、そのドイツを代表するライプチッヒのゲヴァントハウス管弦楽団がリガの国立オペラ劇場で演奏する会が地元の局から生放送される。先日同じプログラムをフランクフルトで聞いたので失望することは無いだろうが、マイクを通した音として再びその鳴りを確かめたい。ブロムシュテット指揮では昨年とても素晴らしく、現カペルマイスター指揮よりも滔々と鳴るブルックナーの七番となった。先月のチューリッヒでのハイティンク指揮とはその楽団の質がその芸術的な価値が全く異なっていた。



参照;
東向きゃ尾は西に 2018-10-12 | 文化一般
大関昇進を目指せ 2018-10-10 | 音
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夏時間が辛くなった

2018-10-13 | 雑感
歯茎の具合が悪くなって来た。腫れてきた。歯を使わないでいても駄目かもしれない。愈々お別れが近づいている。気温の変化も免疫力が弱っている感じで辛い。今週は二回走っていて調子は崩していないのだが、気をつけないといけない。時々、早く夏時間が終わって欲しいと思うのも朝が辛いからだ。やはり一時間早まっているとそろそろ具合悪くなって来た。

CDを二枚発注した。いつぶりだか覚えていない。CDなど聞いている時間が無かったからだが、それ以上に魅力的な安売りが無かった。そして送料無料なので少しだけでも発注してあげようと思った。システムも整備されていなくて、一寸危ないかなと思ったからだ。CPOのオーナー会社で実際の店舗も北ドイツに幾つか持っている。だから長く連邦共和国では唯一信頼の措けるネットCD類販売会社だった。売り上げはアマゾンの方が大きいかもしれないがそちらは正式な卸売り業者ではなく、お卸元が裏に存在する。つまり特別な商品は出ない。この国の業界は殆ど壊滅状態にあるが、首が繋がっていればまた可能性が生まれるときがある。

発注したのは、白井光子が歌ったヴェーベルン歌曲集とアマティ四重奏団のモーツァルト曲集だ。前者はシェンベルクの一枚を昔安売りで購入したが、こちらの方は中々安売りにならなかったので、3.99ユーロなら買いだ。なによりも75%引きに誘われた。理由は知らないが、声が向いているのだろうか。白井光子と言えば昔カールツルーヘのクラス会で見かけたことがあるが、既に旦那と別れていたのは知らなかった。当時はカールツルーヘに行ってまだCDの安売りを店頭で漁っていたのだった。大野が監督をしていたころだろう。もう一つは、第一ヴァイオリンのヴィリー・ツィムマーマンに紹介された節に見本で聞かして貰ったシリーズだが、探してみると自宅にはなかく、2.99ユーロなので発注した。HRが録音しているのでフランクフルトでのスタディオ録音か。兎に角、スイスでは技術的にも最も優れた弦楽四重奏だった。彼の雰囲気と声の感じが日本の歌手で俳優の尾藤イサオに似ていて、その優れた演奏が何かリカビリー崩れの職人風の印象を強くした。今年ザルツブルクで特集になった作曲家クラウス・フーバーも来ていたと記憶する。

もう一つ買い物をした。他所からとって来たASUSUの壊れたミニノートブックを直そうと余暇に弄っていたのだがやはり上手く行かない。HDDは読み込んでいてもシステムを読み込まない。それ故に廃棄処分となったのだが、自分の壊れたHDDも認識してもそこから進まない。それならとUSBなどで動かそうと思ったが、それもシステムが読めない。CPIやメモリーなどは問題なさそうなので、やはりHDDを用意して試してみようと思った。駄目かもしれないがはっきりする。そこで今まで欲しかったSSDを発注してみた。これに使えなかった場合は、迫っているノートブック変え替え時に現在のものにこれを埋め込む。無音だからメディア専用にするのである。



参照:
あまりにも忍びない 2018-08-16 | 生活
ご奉仕品特売をあさる 2018-01-28 | 生活
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東向きゃ尾は西に

2018-10-12 | 文化一般
週末土曜日にリガからの放送がある。初めて聴く放送局だが、そこからリツイートして呉れたのでその存在を知った。まだ中継放送には呟いていなかったが、局のサイトに土曜日19時から国立オペラ劇場からの中継予定が入っていた。フランクフルトと同じプログラムであまり評判の良くないアドリウス・ズェニティス作「マラ」が楽しみだ。何回か聴けばもう少し細かく分析できる。その評判の悪さは私が書いたように二十世紀後半のモダーンの模倣となっていて、独自性は最後の管のソロなどにしかないというものなのだが、これでは聞き落としていると思う。但しハッキリしているのは、ネルソンズ指揮の功績が偉大で、これだけの大編成の曲をツアーで流していく幸運に肖っているというのは間違いない。またそれに耐えるだけの管弦楽法は、その作曲リストで示されているように書き慣れていることに矛盾しない。こうした曲に地元の放送局がしっかりとバックアップしていくことは重要であり、まさしく国を挙げての文化事業なのだ。

偶々車中のラディオでゲオギアン出身のヴァイオリン奏者リサ・バティシュヴィリが、折からのフランクフルトでの書籍見本市のテーマ国となっている故郷についても語っている。この人も12歳からドイツに移住して故郷とは離れていながら、今や間違いなく文化親善大使であり、多くの印象を我々に与えている。なるほどその国の地政的な難しさから、同情や共感無しには語れないのは分かる気がする。オーボエ奏者の旦那との家庭生活に関しても、演奏家としての面と、妻であり二児の母である三役の関係についても語っていて、家庭生活が芸術家としての幅を与え、反対に家庭生活では芸術を通しての人間的な成長がなにも教育だけでなく家庭生活をも豊かにするというとても優秀な答え方をしている。超一流になる音楽家は受け応えも流石に違う。しかしデルジェス1739年のG線が取り分け素晴らしくて、シベリウスの協奏曲二楽章がなどと言われると気になり、どうしても聴きたいとなるのではなかろうか、凄い宣伝効果だ。なるほど彼女にとってシベリウスのコンクールが登竜門だったとあるからこれまた仕方が無い。それにしても彼女からマリアカラスの名前が出て歌声のような可能性のある楽器とあったのは意外だった。

このようにかつてはあまり興味も無く東欧から出て来るセンスの無い演奏家は全てユダヤ系でイスラエル国籍か何かだと思っていたが、今は多彩な才能が北は南から西欧に来て活躍している。それだけ徐々に社会が安定してきているという傍証で、ベルリンのフィルハーモニカーが文化使節として東欧へ出向くことと、私たちが西へと向けていた視線を東側へと向けて、それこそEUの文化的な多様性を謳歌できるようになって来たことはとても幸福な現実だ。そうした文化的な交流において芸術の果たす役割は嘗て以上に大きくなって来ている。

この夏のエストニアからの管弦楽団などは従来の東欧感を覆すものではなく、所詮東欧の印象しかもたなかったが、世界的に注目され実力のある指揮者のネルソンズなどが、とても気の利いたプログラミングを組むことで、その東欧への意識は更に深まる。ネルソンズ指揮のマーラーも東欧枠のプログラミングの中に嵌められていて、新曲とあまり変わらない管弦楽のパレットが使われてことから、地元のライプチッヒなどではその相違として新曲にはマーラーのエクスタシーが無いとされていたが、あの演奏実践のどこにそれほどの恍惚があっただろうかと思った。アングロサクソンの諸国を筆頭にマーラーの欧州的な特徴がショービズ化して大きな市場となって久しいが、もう少し丁度バーンスタインのマーラールネッサンスでは脱落していった本来のボヘミア的な要素を見極める必要がある。クーベリック指揮の録音などを思い起こす向きもあると思うが、あの素朴さだけでは不十分であるのは当然であろう。今日的な視点がどうしてもそこに影響するのは間違いないとしても上の新曲などの底に流れる文化的な多様性への視座こそが期待されるところだ。一連のプログラミングにそのような意志を見た。

ライプチッヒ管弦楽団275周年の記念切手を入手した。赤色が嘗ての東独を思い起こさせるが、中々使い易そうでいい。その管弦楽団への評価もこうした指揮者を迎えたことから余計にその本質に迫られている。今回のツアーである程度示されるのは、まさしく中央ドイツが中央であったこと以上に、東欧まで領域を広げた中で観察すれば、その独自のプロテスタンティズムの文化的発展とローカリズムが浮き彫りにされることで、とても収まり易くなって来ている。ベルリンのフィルハーモニカーにおけるローカリズムなどを考えるうえでやはりこの伝統はとても重要な指標になってくると思われる。



参照:
グァルネリ・デルジェスの音 2018-08-20 | 女
需要の大きさに拘わらず 2018-10-11 | 文化一般
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需要の大きさに拘わらず

2018-10-11 | 文化一般
午前中時間があったので並んでみた。12月10日の「オテロ」公演の前売りである。気が付いた時は丁度いい時刻だと思ったが、結局ランダムで1183番しか貰えなかった。当日の件は先に入手しているので冷やかしでしかないが、色々と勉強になった。始まってから35分程で完売となった。最初のランダムの計算も三十秒以上時間が掛かっていた。約1500人ぐらいが並んでいたようだ。つまり競争率は五倍ぐらいになる。想定以上の可成りの競争率だ。

券の割り当て数とか、その実際とかある程度分かっている心算なのだが、その演目や日程による需要の差などはまだ分からないところもある。それにしても243ユーロとか143ユーロとかが飛んで行く様に売れるのには驚く。それどころか16ユーロもする楽譜席と称する何も見えない席まで完売だ。

これは「オテロ」人気なのか、ヨーナス・カウフマンか、アニヤ・ハルテロスか、キリル・ペトレンコかは分らないが、全般に注目度が高いのだろう。システムは問題なく作動しているようで、その点は安心した。30分経過後には殆どの大勢が決まっているので、泣いても笑ってもそこまでの勝負だ。以前のように前夜や早朝から試す必要が無くなっただけでも良しとすべきか。やはり初日シリーズは厳しい。2016年の「ルル」初日が発売後に、60ユーロほどの比較的良い席を分けて貰ったのと大違いである。

デアターゲスシュピーゲル紙でツェッチマン支配人が語っている。この夏のフィルハーモニカーのツアーを終えての感想である。正式就任まで一年もあるのにも拘らず、フィルハーモニカーも芸術的な限界域へと操舵を進めるまでの意識を共有するに至ったことと、それを観客も感じ取れたことが素晴らしかったと話す。またペトレンコの指導で、毎日が新たな芸術的な深化へ細部へ完成度へと、会場でのサウンドチェックで以って、既に慣れた会場もあったにせよ、新たな可能性を引き出して、ペトレンコ自身とても楽しんでいたとする。繰り返すことも無い、我々が生で、放送で追いかけた通りそのままである。

そこからが面白くて、2019年4月末に発表されるシーズンプログラムへと話題が移る。重点として、ペトレンコ自身が、ラトル時代の16年間のレパートリーに目を通して、抜け落ちが殆ど無かったが、それでもバルトルディー・メンデルスゾーンがあまり演奏されていなく、将来に亘って取り上げられるものとした。当然のことながらロシアの作品もより多く演奏されるだろうとしている。勿論メインレパートリーのモーツァルトからブラームス、シュトラウスも名が挙げられる。

その一方、とても評判の良かったベートーヴェンなどはツィクスルの予定は無く、精々交響曲年一つ位づつのようだ。七番、九番、三番ぐらいの順になるのだろうか。モーツァルトが挙げられたことに注目したい。モーツァルト指揮者ではないと自認しているようだが、ピアノ協奏曲を中心に継続的に取り上げられるのだろうか?

もう一つ重要なのは、フィルハーモニカー財団へ連邦政府から7.5ミリオンの予算へと増額されたが、ベルリン市が減額したために1.8ミリオンの増額にとどまった一方、その予算執行裁定の自由度が増したことである。これによって、ポーランドなどのように、日米の豊かな市場とは比較にならない市場で、安価にフィルハーモニカーの演奏会を行えるという。要するに二年に一度のブカレストのみならず更に多くの国で演奏会が開かれて、連邦共和国の文化大使としての位置づけが高まることになる。大変素晴らしいことだと思う ― 今日の連邦共和国を体現して貰いたい。

日曜日のゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会評がルントシャウ紙に出ている。読んだことのある書き手であるが、短い中で報告している。マーラーのゆりかごのようなヴァルツァーでうっとりして、チャイコフスキーでは柔らかな音色でと自信なさげに書いている ― 簡単には評論家に教えない企業秘密なのである。しかし何よりも新曲のアンドリス・ズェニティス作「マラ」について比較的詳しく報じている点はとても評価したい。なるほど彼女の書くようにこれだけの大編成の新曲が二つの交響楽団で演奏されるのはとても幸運であるのは間違いない。そして、あれだけの高品質で演奏されるなんて、ショットの販売力があっても、リームでさえもなかなか叶わない。この点だけでも、その舞台捌きなどはぎこちないアンドリス・ネルゾンズであるが ― それに引き換えシャイと言われるペトレンコなどはその舞台捌きは堂に入っていて、パーヴォ様どころか熱心なお客さんへの流し目も忘れない ―、その中々いいセンスと熱心さが伝わって、大関昇格推挙でもしてみようという気にさせた。やるじゃない。



参照:
„Wir können jetzt freier denken“, Andrea Zietzschmann, Der Tagesspiegel vom 9.10.2018
Großformat und Wiegemodus, Judith von Sternburg, Frankfurter Rundschau vom 10.10.2018
大関昇進を目指せ 2018-10-10 | 音
飛んで火にいる夏の虫 2018-09-16 | 雑感
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大関昇進を目指せ

2018-10-10 | 
承前)休憩後のマーラーの交響曲と最初の新曲はほとんど同じ楽器編成だった。それでも鳴りが全く異なった。勿論違うように楽譜が書かれている訳なのだが、そのように両方を正しく演奏するのはとても難しい ― その交響曲の正しい響きかどうかはとても興味深い議論である。開演前は数十分前まではこの新曲を合わせていた。初演からよくなって来ているのだろう、中々力のある作曲家である。

今回久しぶりにアルテオパーで大管弦楽団を聞いた。前回はSWRフライブルク・バーデンバーデンでマーラーの交響曲6番そしてハースのピアノ協奏曲だったと思う。後の多くはバロック音楽だった。席は似たようなものだが、今回は最初から売れていなかった価格領域へと移動していた。フランクフルトのような典型的な銀行の街となると日曜日の興業はとても寂しい。五割かどうかといった入りだったろう。皆が立ち止まって凝視するポスターはベルリナーフィルハーモニカーがアジアに飛ぶ前に立ち寄る公演の告知である。なるほどフィルハーモニカーの方が音量は出すだろうが、ホルンなどでも明らかにゲヴァントハウス管弦楽団のような響きは無い。どちらがドイツ的で文化的な響きかというとこれはまた高度な判断となる。

本拠地ゲヴァントハウスを鳴らし切るのとアルテオパーを鳴らし切るとの差は分からないが、アルテオパーとしてはなるほど鳴り切っていなかった。21代カペルマイスターとゲヴァントハウス管弦楽団の関係はまだ始まったばかりなのだが、ペトレンコとべルリナーフィルハーモニカーにおける果敢な挑戦と比較するとやはり物足りなかった。今後どのように鳴らしていけるのかは未知だった。その分とても美感は維持されていて、19代カペルマイスターがバーデンバーデンでブルックナーで鳴らしていたのとは大分異なった。勿論ブルックナーとマーラーの書法が異なることも大きいのだが、ハイティンク指揮でコンセルトヘボー管弦楽団が全奏するのともまた異なる。面白いことにやはり力の抜けた爺さんの棒の方が大きな音が素直に鳴るのである。その正反対にサイモン・ラトル指揮などがあったが、アンドリス・ネルソンズもまだまだ若過ぎるのだろうか。

グスタフ・マーラーはライプチッヒで第二カペルマイスターだった。五つ年長のニキシュが君臨していたからのようだが、劇場で振る傍ら、病気の節に代わりを務めていたようだ。26歳というからやはりこの交響曲を作曲した時は充分に若い。今回のツアーの一つにこの曲が選ばれたのはこうした背景がある。その独自の組織構成から劇場の指揮者とカペルマイスターが上手く行くかどうかも問われているようだ。それにしても四楽章のヴィオラが引っ張るところなども創作にこの管弦楽団の優秀さと響きがそこにあったのではないかと思わせた。ドイツ配置の第二ヴァイオリンの働きも、またシュヴァルツヴァルト出身のコンツェルトマイスターのブロイニンガーもとても良い仕事をしていた。その風貌から突飛なことをしそうだが、とても丁寧な仕事をしていたように思った。やはり超一流の指揮者が振れば、たとえ自由度が増す指揮をすると言っても、自らの仕事に集中できる余裕が生じるのだろう。ブロムシュテット指揮の時とは全く違う仕事ぶりだった。ホルンの良さについても語ったが、管楽器類も、兎に角、世界最大の管弦楽団なので適格なメムバーを選択すれば可成り程度が高い。

ブロムシュテットが言うように、なるほどコンツェルトマイスターを先頭に思い思いに舞台に出て来ても、座らずにこちらを向いているものだから最後の楽員が出て来るまで拍手も止められない。律儀な人達だなと思わせると同時に、コンサートの作り方だけでなく教育にもなっている。流石に教会で毎日曜のお勤めをする楽団だ。空き席があったことから観光客のような、一楽章の後で拍手をする人たちが入っていたが、それも教育の一つである。

管弦楽団の総奏に関しても、シュターツカペレドレスデンも混濁して全く駄目なので、それよりはバランスを壊すことなく透明性を保っていて、ここら辺りはカペルマイスターの腕の見せ所かもしれない。この指揮者に任せておけば決して伝統を壊すようなことはしない安心感がある。つまらない噂話のように、シュターツカペレがバーデンバーデンでフェスティヴァルをするぐらいならばゲヴァントハウス管弦楽団でフェスティヴァルをして欲しいと思った。カペルマイスターの指揮でのオペラも決して悪くないのも分った。別れた嫁んさんと握手するぐらいならば、色々なスターと興業を打つ現体制のバーデンバーデンにはお誂らい向きだった。それほどに、この組み合わせで、今回のような興味深いプログラムならば今後も聞き逃せないと思う。現在欧州で否世界でも数少ない聞き逃せない音楽的なイヴェントを打って出れる組み合わせの一つであることは間違いない。

とは言っても、指揮者も楽団もまだまだ片付けないといけない課題があって、楽団からDNAを呼び起こす一方、指揮者がここでみっちりと音楽芸術をものに出来たなら、番付で言えば一人横綱体制の大関昇進もあり得ると思う。ヴィーンがこの指揮者を必要とするときが遠からず必ず訪れるだろうが、それからでも全然遅くないのである。(終わり)



参照:
冷や汗を掻いて避暑 2018-08-07 | 生活
いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音
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企業秘密の領域へ

2018-10-09 | 
ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏を聴いた。二度目の体験である。一度目は昨年19代カペルマイスター、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ブルックナー七番ほかで、二度目の今回は現21代カペルマイスターのアンドリス・ネルソンズ指揮でマーラー一番他である。

先ず記憶にあるところから、初めての生ネルソンズ指揮を書いておこう。マーラーの交響曲では三楽章のコーダーで、再び冒頭の日本の幼稚園などでも歌われる「フレーレジャック」の短調版が「ディン・ドン・ダン」と戻ってくる。そこのテムポ運びが印象に残った。理由は最初の提示での基本テムポの遅さと、中間部での伸びやかな運びとの対照がとても強かったからだ。因みにアバドの録音を聴いてみると、そこは楽譜通りにその次の小節の急テムポのクラリネットがユダヤのクレッツマー音楽を強調している。寧ろここはバーンスタイン指揮ではあまり浮き上がらなく、その前のトラムペットの葬送の音楽と並行させている。アバドのマーラー解釈がそこで良く分かる反面、コントロールが効いていない可能性も無きにしも非ずだ。

今回は、最初の「ディンドン」のティムパニ―を倍速にしたようなのが印象に残っていて、明らかに次の小節の準備以上に、「ここからコーダですよ」というのを明白にしていた。同じような強調は二楽章スケルツォ楽章中間部トリオへの移行部で、楽譜通りならば二重線までのテムポで全休止が取られる筈なのだが、なぜかここでも次のホルンのソロに合わせたテムポ取りがされていた。先の三楽章とも合わせて和声の移り行きを上手に出すことがこの指揮者のモットーなのだろう ― まさしく新聞評の心はここにあった。

正直この辺りの指揮技術的な精査は出来ないのだが、テムポの移り変わりでの準備を丁寧にしているような印象もある。それが適切な楽譜解釈によるためか、若しくはキリル・ペトレンコまでの名人ではなくてもネゼ・セガンのような振り方が出来ないための妥協策なのかは判断がつきかねた。ペトレンコの指揮をこれだけ聞いているとそれが出来るものだとどうしても思い込んでしまっているのかもしれないが、よく分らない。

その他も色々と用心深く振っている印象があって、新聞評にもあったように、弱音域での表現の細やかさと音色的なイメージの適格さが素晴らしい。また就任演奏会での放送において良い印象を持てなかった新カペルマイスターのこの名門管弦楽団のアンサムブルや響きへの尊重も理解した。前回のブロムシュテット指揮に比較するまでもなく、細心の注意が払われていて、燻銀を超えて可成り渋い。それも楽曲様式や創作の性格によって、変わらないものもあれば、全く異なった管弦楽の性格を引き出してもいた。

見事だったのは放送でも分かっていたように、クラスターなどの入った新曲での演奏方針で、これは本当に立派で驚いた。今あの程度に現代音楽をこなす管弦楽団はドイツにどれぐらいあるだろうか?様式としては二十世紀後半でやや古めかしい部分と民族的な素材を利用する興味深い面を持ち合わせたアンドリス・ゼニティスの「マラ」と称する「交響楽団」のための作品で、先頃ライプチッヒで初演されたので、いづれ放送録音も出て来ると思う。ボストンとの共同での委嘱作品なのだが、ボストンでこれ以上に上手に演奏出来るとは限らない。それほどにシャープな響きも有機的に処理する機能性は連邦共和国のどの放送交響楽団も持ち得ていないと思う。確かにシャイ―時代に欧州屈指の指折りだったのが実感可能な機能的な交響楽団であり、座付き管弦楽団と比較などはそもそも無意味である。

その一方、それに続いてチャイコフスキー作曲のオペラピースが演奏されたが、これがまた得難いプログラミングとなっていた。要するにこの指揮者は生地の楽団でトラムペットを吹いていたというが、如何にもその思考自体が現場感覚の音楽家で、玄人に問うているようなプログラミングとなっている。先頃離婚した奥さんであるクリスティーネ・オポライスと登場する時こそ、態々この昔の旦那は第一ヴァイオリンとチェロの間を通って、それこそ主役から十歩離れて指揮台へと移ったが、指揮を振るや否や完璧に合わせて来ていた。兎に角、聞きもの見ものだったのはこの管弦楽団は奈落で演奏するように直ぐに切り替えて演奏するのだ。これには魂消た。初めてこのような状況を見聞きした。つまり、音が遅れて出て来るのだ。もうここまで来ると、企業秘密のような領域で、これ以上語れないと思う。「リサのアリオーソ」と「手紙の場」の間に挟んだポロネーズでも同じように演奏していたので、この不文律というか了解はどうなっているのだろうと思った。伝統と呼ばれるものだろうか?このプログラムでなければ、世界最大の管弦楽団ゲヴァントハウス管弦楽団の実力の真相が見えなかった。更にバッハでもアンコールすれば完璧だったかもしれない。(続く



参照:
名門管弦楽団の演奏会 2018-02-24 | 文化一般
「死ななきゃ治らない」 2018-07-08 | 歴史・時事
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今回の脱落と修理

2018-10-08 | 生活
八百屋で買い物をしたら今までの最高額を徴収された。特別高価なものは買っていない筈なので、流石におかしいと思って、直ぐにレシートを確認した。ヒラタケがシュタインピルツとして計上されていて、8ユーロを超えていた。当然最高額になる。直ぐに苦情したら、どうもそのまま引いてくれたようで、ヒラタケが只になった。それにしてもやはり高級キノコは高いなと思った。

週末の峠攻めも一日前に走っておいた。日曜日に走るとフランクフルト往復よりも音楽会で眠くなりそうで、更にお勉強する時間も無くなるからだ。そして車の錆で脱落したところを出かけるまでに直しておきたいと思ったからだ。結局一日掛かりで作業した。

作業後半は日曜日にパンを取りに行ってから、その足で走る代わりに、前日に土台を塗ったところにやすりを掛けて、また周りのこびり付いたところを落とした。そして薬品で洗浄してから、塗料を塗布した。筆の数を調整するために、細めのピンセルで塗った。最後の仕上げは無色なのでそちらで太い方を使った。お陰で、細かな所にも顔料を塗れた。顔料の塗り方だけでも周りとの境界を極力目立たないようにできる。少し絵心があったならもう少しマシに塗れるだろうと思った。

そこで急いでドライヤーで乾かした。半日も経たないうちにアウトバーンを飛ばさないといけないので早く乾かしておかないと困るからだ。大分熱を与えたので早く乾いてくれたかもしれない。朝食を摂って、交響曲をお勉強したら四時間ほど経過していた。

色合いはそれほど悪くなく。これで間に合うように透明のラッカーで固めて仕舞えればよい。前回は半乾きだったのでどうもその顔料の色に影響を与えてしまったようだ。今回は色が溶け出す感じも無かったので、前回のような色変りも無く、徹底的に上塗りした。このラッカーで剥がれ掛けているところを押さえて、アウトバーンでの強風にもバタバタしないようにするのだ。そして早速顔料以上に熱をかけた。さてフランクフルト往復でどうなるだろうか。数時間で乾いてくれるか。幸いなことに雨降るでもなく陽射しも強いので何とかなると期待している。

マーラーの第一交響曲の違う録音を聴いた。バーンスタイン指揮のデジタル録音である。安売りの二枚組で十年以上前に落穂拾いしたものだろう。しかし真面目に聞くのは初めてで、最初の音が出てきた時からどこの楽団かなと思った。つまり後年録音したヴィーナーフィルハーモニカーの演奏とは全く違うからだ。それにしてもニューヨークではない。CDのインレイを見るとコンセルトヘボー管弦楽団だった。なるほど、ヴィーナーよりも明らかに上手いが、とてもいい音を出している。なによりも驚いたのは、バーンスタイン指揮でこれほどまでに明晰に各システム間の受け渡しが上手な録音を知らない。どのシステムや楽器が浮き出ることも無く、しかし上手く合わせていて、対位法的な彩画が美しい。その前に聴いていたシカゴの演奏ではそもそも各奏者が拍を合わせることしか考えていないので、楽想が綺麗に浮かび上がったり、楽器間の合奏の心が聞こえない。シカゴとかニューヨークとか超一流の筈なのだが、この辺りの各奏者の感覚も管弦楽団のアンサムブルも大分異なるのが良く分かる。

なるほどアバドの方もあの最初の序奏部では大地の夜明け前のような歌が聞こえるように演奏しているのだが、何か一つ一つに説明がついているような歌い方しか出来ていない。如何にこの指揮者がグスタフ・マーラーの楽想を客観的に分析してそれらしい提示をしているのでしかないことが分る対象比較となっている。その点、バーンスタイン指揮の方はあまりにも動機や楽想を主観的に振っているために、全体像が歪曲した感じが否めないのだが、このコンセルトヘボー管弦楽団の演奏であるとその辺りのバランス感がとても良くて、至る所に美しい音楽が奏でられている。その結果、何もあのような実演でなくても、とても素晴らしい音楽を指揮しているバーンスタインに出合える。それどころか、細部の読み込みは無視できない箇所が多数あって、この演奏はやはりリファレンス録音ではないかと思わせる。それにしてもシカゴでの録音のとんでもないダイナミックスは録音技術上のお遊びではなくて、ショルティー指揮時代にあの管弦楽団がそれを目指していたのを逆に彷彿させた。



参照:
手作業での車の塗装 2017-09-01 | 生活
639馬力、最高時速315㎞ 2018-10-07 | 雑感
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639馬力、最高時速315㎞

2018-10-07 | 雑感
車の塗装剥がれ修理前半を行った。後半は明日だ。以前直した手前のところが剥がれて錆が露出した。反対側はドアが事故で押されたままだが、こちらの方が気になるようになった。そこで前回使った道具類や材料を点検した。一年前である。そこで剥がれ掛けた部分も落として、やすり掛けした。前回はここまででもびくびくしてやった。結果が酷いことになるかどうか皆目判らなかったからである。今は判断がつく。急いで下塗りまで終了した。日曜日にフランクフルトに出かけるときに塗れて乾いていたら良いなと思う。下塗りしただけでも一安心だ。その隣も剥がれかけてきているが瞬間接着剤で誤魔化しておく、限が無いからだ。

もう限度なので、前回マンハイム支店に行ったときに試乗の話しをしておいた。発注すると納車まで四か月ほどは掛かるそうだ。次車はハイブリッドで最後のオットーエンジンの車となると思う。そしてハイブリッドのお陰で出力が増加していて、オットーエンジンの方は今までよりも小さめで良いことになっている。今までの経験から同じ車種ならばエンジンの大きい車の方が色々な意味でお得だと思うのだが、今回上位の車を見るとV8四リッターで639馬力、時速315㎞までになっている。流石に、これは資金が有る無しに拘わらず、価格を見る前から無用な車だと判る。

こちらに来た頃はアウトバーンも今ほどに混んでおらず、追い越し車線を走る車種が限定されていた。一般的にポルシェ、メルセデス、BMWでそこにAUDIのR8が入って来て、一挙にそれらをフェラーリが抜いていくというヒラルギーがあって、それ以外はあまり邪魔をすることが少なかった。それが今はどうだろう、訳の分からない東欧産の車までが追い越し車線で200㎞を出している。だから高級車でぶいぶい言わすという状況とは遠い。つまり時速300㎞で走れる距離は数キロも行かない。直ぐに急ブレーキである。だから全く価値が無いのである。その経済的な損失や環境への影響を考えれば最高速度はそれほど役に立たない。精々250㎞で巡行可能ならば殆ど抜かれること無く、追い越し車線だけで走る抜けれる ― しかし恐らく最近の走り方からすると初期の慣らし運転を終えても、節約運転から抜けることは無いのではなかろうか。勿論馬力があった方が高速域での加速が違うだろうが、そんなに早い車だけが走っている訳ではないので、精神衛生上も良くないのである。なによりも不経済だ。

ということで、次車もエンジンの容量はほとんど変わらないだろうと思う。それでもハイブリットの為かターボ化が進められていて、その癖のある吹き方に感心したことが無いので、兎に角試乗させてもらう。なによりも昔やっていたようなブレーキとアクセルを交互にペダルするような運転はもうしたくはない。なにも得しないと気が付いたのは、今の車の前の車に乗っている時に今の車に抜かれたからだ。結局巡航速度が高いほど価値があると漸く理解した。快適に目的地に早くつくこと以上の前提条件は無い。

それでもそこまで車に投資するなら車内ノイズキャンセリングシステムまでは求めないが、静寂性が欲しい。最終的にはイヤフォーンをするとしても車の振動こそが重要になる。だから試乗する時にはイヤフォーンでテストしようと思っている。

マーラーの交響曲一番の録音を聞いた。クラウディオ・アバド指揮シカゴ交響楽団の演奏である。このシリーズはお気に入りでデジタル録音のこれを安売りで拾ったのだ。今回久しぶりに真面目に聞くと、今まで持ち続けていた印象と異なる面にも気が付いた。一部のアゴーギクとか、ダイナミックスの設定など根拠の分からない部分があった。恐らく、その指揮者が見切り発車のようにして本番で打って出る弊害が録音においても出ているのではなかろうか?プロデューサーもそれを指摘して直させるまでの制作はしていないのだろう。それは指揮者の個性としても、もう一つこうしてデジタル録音で再生してみるとテョッティーの鳴りが、今一つ明晰でないと思った。当時はまだショルティーの交響楽団だったから、その明晰さ明白さには至っていない。これは現在キリル・ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーにおけるサウンドの課題とも似ているのだが、少なくとも当時のその鳴りは芸術的に完成したものではなかったのを確認した。



参照:
手作業での車の塗装 2017-09-01 | 生活
乗り逃げ切れるように算段 2017-08-28 | 雑感
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よかった宿での食事

2018-10-06 | 料理
先日宿泊した宿はよかった。なによりもミュンヘンからの距離感も遠くは無かった。七月に「ジークフリート」上演後に宿泊したところよりも時間が掛かる筈なのだが、アウトバーンでなくて真っ直ぐに伸びる高速の国道を走り抜けれるのが素晴らしかった。我々が知っている高地バイエルンの農業地帯を真っ直ぐに走るだけだが、夕焼けにとても気持ち良かった。それでもまだまだ高地ではなくて、アルゴイなどの牧草地とはまた違うところが妙なのだ。夕方に拘わらず比較的問題なく宿に付いた。土曜日の夕暮れだ。両方向とも同じような交通量だった。

最新の地図も印字して持って行ったのだが、ナヴィのそれに従うと村に入るのに旧道を通った。これまたバイエルンらしい変に紆余曲折の道程だ。森を抜けたりして幾つかの村を通過する。その何とも道祖神のようなものにこの地方を趣を感じる。オーストリアとももちろんスイスとも違う。そのお陰で村に入ってからホテルを探したが、小さな村だ直に見つかった。

宿の前の駐車場も空いていて、きっちりと駐車してからレセプションに入る。親仁が名前を呼んで迎えてくれたが、なぜか英語を喋ったのでおかしいなと思うと、予約時に英語に印が入っていたというのだ。覚えが無いなとなった。偶々英語の画面で予約したのかもしれない。先ずはチェックアウトは10時だと断っておいた。ゆっくりしたいのだ。部屋を見せて貰って、もう車を動かすことは無いとなって、歩いていけるところに飲めるところも無く、ビールならここにあるよと教えて貰った。部屋には冷蔵庫があったので、ダルマイールで購入した特製エディションもののボックスボイテルのジルファーナーを先ず開けようと思った。

夕食は、前菜にコールラビのサラダ、そしてメインはいつものフィレウェリントン、食後はトルテである。宿の中で一番狭い部屋なので食卓は無かったが、事務机を使った。その辺りは味気なかったが、並びに流しがあって、皿も洗えるのが嬉しかった。とことん無精が出来る。

明くる日の朝食も買ってきたパンとハムを中心に、湯沸かし器で沸かしたお湯でティーバックの紅茶を煎れて、自宅から持って来ていたフランス産の野菜を添えた。ワインを冷やす為にマックスに冷やしたので凍り出していた。それが一寸残念だった。それでも朝食からもう一つのケシ入りヨーグルトトルテを平らげたので満足だった。

天気も良く、穏やかな日曜日の旅立ちだ。前夜のメールでのタイトルロールのキャンセルなど穏やかでもないことがあったが、気持ちが良い。宿の親仁と空港からのシャトルサーヴィスやその他の休暇宿の待遇との差などを話した。どうも営業努力でやっているらしく、皆の評価が高いのは分かった。シーズンを通して価格の差はあるものの中々よいオファーを出していて、連泊する時は価格は下げないでも広い部屋に入れて欲しいと言った。今後とも市内の安い部屋が見つからない時は是非使いたいと思った。




日曜日のフランクフルトに出かける。前回は「メリーウィドー」だったのでアルテオオパーへは久しぶりだ。夏に遠出してコンサートに行ったのは久しぶりだった。ミュンヘンにも一度出かけ、ルクセムブルクにも出かけた。嘗てはコンサートに遠出するとなると招待か、何か仕事絡みしかなく、精々ベルリンぐらいだった。その意味で遠出するのにも慣れると地元のフランクフルトに行くのは容易い。それでも続くと面倒になるのだが、今回は飛び込みで出かけるので気持ちが高まる。

プログラム後半のマーラーの交響曲一番だけは勉強しておきたい。前回聴いたのはバーンスタイン指揮ニューヨークフィルハーモニーだったと思う。これまた第九に続いてバーンスタインを超えて行く。奇しくも生誕百年に指揮者バーンスタインを乗り越えて行く。特に一番はこちらも十代の時の体験なのでとても強い印象を残している。それだけにこの年齢になって同じ曲がどのように響くのかと思う。五番ならば苦しいところが出て来るかも知れないが一番ならばゲヴァントハウス管弦楽団も可成りの線まで演奏するような指揮も期待される。細かな内声部の動機などもしっかり読み込んでおきたい。

昨今なにかと話題の人気ブログの言いぐさではないが、「実はもう、音楽評論も、やりたくないの」という気持ちになるのは、「マイスタージンガー」の楽匠の想いや仕事ぶりを考えてしまうからだ。マーラーの交響曲のユニークさやその才気とは別に、ああした高度な文化に根差した総合芸術がそこで展開されているのかどうかどうしても比較してしまうからだ。なるほどそこには独創的な意匠や芸術の綴り方があるのだが、匠の仕事としての円熟とかその表現方法を考えるとやはりどうしても青年音楽家の作品では到底至らないものばかりだ。奇しくも先月には第九交響曲の演奏を聴いて余計にそうした思いを強く抱く。昔日本の音楽評論家に大木正興という人がいて、いつも「深い」の表現で片づけていたのを思い出す。そこで氏のスメタナ四重奏団について綴る文章を引用すると「チェコスロヴァキアの伝統では(ウィーンあたり)…それは必ずしも後期ロマン派のドイツ音楽家たちのように、音を人間全体を支配する情緒のしたたりのように考えるのではなく、…それは人間の情緒の反映と考え…」とかあり、丁度話題の独墺音楽の核とそこから東欧文化圏への境界域について触れている。これも例えばドイツでは今でも違和感の強いグスタフ・マーラーの東欧的な性格とも言えるかもしれない。勿論その逆の西欧的な性格もそこに認識される。



参照:
杖の無い爺に導かれる 2018-09-18 | 文化一般
抑制の美の厳しい激しさ 2018-10-04 | 文学・思想
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南仏か、高地ドイツか

2018-10-05 | アウトドーア・環境
ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートツアーを一望した。プログラムは三種類ほどあって、もう一つはツィンマーマンのトラムペットをハーカンソンが吹いて、後半にマーラーの五番の交響曲が来るもので、三種類目は一番の交響曲とツィンマーマンと新曲が組み合わされている。ツィンマーマンもとは思うのだが、どちらかと言えばチァイコフスキーである。更に後半の交響曲は一番の方がゲヴァントハウスにはより期待出来る。恐らくこれがベストプログラムだが、ロンドンとリガでは両プログラムで二日間の演奏会が打たれる。ストックホルムなどは、新曲とツィンマーマンを二曲並べているのでこれはこれで意欲にあふれている。

ネルソンズのマーラーの交響曲二番の指揮はザルツブルクの名演の映像を手元に置いてあるが、ゲヴァントハウスではどの程度の事が可能なのか。就任演奏会でのインタヴューにもあったが、ゲヴァントハウスのアンサムブルを壊さずにつまりその音響を活かしての配慮が強かったようで、少なくとも放送では中以上に低い方へと音響が沈んでいて感心しなかった。巨人交響曲となると最初から低弦が高い音を響かすので、もう少し中音域を活かした演奏が聞けるのではないかなと期待している。ヴィーナーフィルハーモニカーとよりもいい相性を示せるのか、一年も経たないうちに結構早正念場ではなかろうか。

なんとマンハイムでフランクフルトと同じプログラムが演奏される。早速価格を見た。最低100ユーロだ。つまりその中から八割以上は儲けになる。そこの興行主は三大テノール興業でGEMAがポップス対応徴収をしてさらに脱税容疑で訴追された。偶然にその弟さんの裁判長と知り合いになった。サントロペーのオタクで優雅に過ごしているらしい。弟さん夫婦もそこで楽しんだようだ。まさしく興業なんて言うのはやくざな仕事で、クラシック業界こそ世界的な主にユダヤ資本の元にあるマフィア業界なのだ。

先日ミュンヘン郊外に宿泊した際は、連邦共和国で最も高級住宅街のシュタルンベルク湖の近くの湖を走った。宿でそちらの方を知っているかと言われたので前回宿泊の時に使ったと言ったが、結局天気が良いのでその湖畔でマイスタージンガー三幕を勉強したいと思った。昼飯もと思ったが時間がなかった。それでも湖畔を走るとシュタルンベルクとはまた異なる広大な敷地の土地が並んでいた。安い時に購入した人たちが湖畔に建てた家なのだろう。古い家も大きな屋敷になっていた。アウトバーンから離れることなく湖畔に停めるところが無かったので、レジャー用にそこから歩いて下りる高台の駐車場に停めた。誰も来ないところで二時間ほどゆっくりした。

樹間から湖が見えて、対岸のヨットハーバーから湖の真ん中の方へとヨットが沢山出てきた。日曜日のお昼時である。コートダジュールのような地中海ではないが、穏やかな湖の雰囲気も悪くは無い。夏も涼しいのだろうが、嘗ては湖畔の家に憧れた時もあったのだが、最近はまた一寸感覚が変わって来た。なによりも気候で、あまり湿気のある空気は落ち着かないなというのがある。冬も夏もやはり乾いた空気の方が体が楽で、精神生活も軽みを帯びる。こちらに移り住んだ当時はシュヴァルツヴァルトの湿気とかそこの人々の気風に馴染みがあったのだが、こうしてワイン街道に長く住むと、空気も気風も乾いて軽い方がいいと思うようになって来た。日本からこちらへは夏の暑気を避けてが一番の目的だったが、今後はそこに湿気の有無が新たな条件になる。



参照:
固定観念を越えた感応 2006-02-10 | 文化一般
テューン湖畔の薫煙 2006-01-19 | 文学・思想
地中海の海岸に遊ぶ 2012-04-09 | アウトドーア・環境
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抑制の美の厳しい激しさ

2018-10-04 | 文学・思想
寒くなって来た。まだ暖房は要らないが夏のような井手達では風邪をひきそうになる。上手く移行したい。朝の森は霜こそ降りていなかったが、もうそこであった。いつまで裸で走れるだろうか。そろそろ身体を追い込んでいきたい。

「マイスタージンガー」のことを走りながら考えていた。動揺と書いたが未だにその漣が収まっていない。演奏実践による表現手段として明らかに新たな所へと関心が移った。この夏のルツェルンでのハックマン氏が言及したコムパクトネスへの言及が大きな転機となった。もしかするとそれを読んで指揮者キリル・ペトレンコもより意識するようになったかもしれない。良い批評とはそういう言語定着化にある。

今回の公演の特徴は、既に書いたが、その激しさがどのように表現されたかが重要で、その典型がミヒャエル・フォレの歌唱だった。殆どぶっつけ本番であったが、とてもいいところを示した。その歌唱が声量も圧倒的ながら基本的にはコムパクトネスによる節度ある歌が基本になっていて、そこに付ける音楽はペトレンコ指揮の座付き管弦楽しかありえないと思わせた。バイロイトでの楽団が絶対にジョルダンの指揮からは出せないコムパクトネスである。しかし2014年の「指輪」上演でペトレンコがどこまでそこで聞かせていたかというと、やはり今とは大分違う。それどころかこの夏のベルリナーフィルハーモニカーとのツアーがある前の「ジークフリート」では今回「マイスタージンガー」で示された程にはそれが意識されていなかったと思う。しかし今こうやって振り返って見れば、二月に試みていたあれほどのドライな演奏実践が今はこうして別な認識の下で捉えられるようになって、そこで初めてあれだけの激しい表現が可能になったと思う。まさしくバイロイトにおいてその表現方法が今回ほど確立していなかったと思っても間違いない。

技術的には、楽員が細かなところまで箸の上げ下ろしではないが、弓の上げ下ろしまで細かく検討して更っていたからに違いない。もしかすると確かコンツェルトマイスターを務めていたアルバン・シュパーイに腕があるのかもしれない。コントラバスまでとても素晴らしい仕事をしていて、これならばヴィーナーフィルハーモニカーより上だと思った。そうしたきっちりと固く振られるところと、激しく振られるところとの差も然ることながら、決して逸脱することなく矜持を正した表現によってこそ、途轍もない効果が生じるという技術的な面と、それと同じぐらいにその厳しさが自己抑制によってこそ初めて生じる ― またまた出ましたブロムシュテット氏のお言葉が。そうした抑制ゆえに、はち切れんばかりの情動的な音楽表現がドイツ音楽の深みのある美的表現へ昇華されるという美学がある。抑制の美である。

まさしくキリル・ペトレンコの音楽が激しさや厳しさ、そして同時に深みや端正さに彩られるようになって来たとすれば ― 勿論彼がベートーヴェンの音楽とより深く対峙するように成ったからでもあるかもしれないが -、その特性を示す表現とされるものであるだろうか。そうした美的表現の深化を目の辺りにするようなことが無かったので、普通ならば継続して観察していては少しの変化にはあまり気が付かなくなるものなので、驚いているのだ。そしてその情動的ともいえる厳しさの漣がひたひたと繰り返しおし寄せる。

旅行に出かける予定が変わったので、近々のコンサートカレンダーなどを覗いてみた。予定が空けてあるので、都合が良さそうなものを探してみた。チューリッヒでのヤルヴィ指揮のコンサートもあるが、今回は近場で更にいいのを見つけた。初めてのアンドリス・ネルソンズの指揮の会だ。カペルマイスターを務めるゲヴァントハウス管弦楽団が小欧州ツアーをする。指揮者の離婚した歌手のオプラウスがチャイコフスキーのオペラから二三曲歌う。これは座付き管弦楽団としての腕前を聞けるので価値がある。新曲で始めて、この楽団に合うかどうかというところのマーラーの第一交響曲が演奏される。プログラムが考えられていて、このネルソンズ指揮のヴィーナーフィルハーモニカーのようには期待出来ないが、大分いいところを突いて来ているのではないかなと思った。昨年の就任コンサートなどを放送で聞いて失望したが、生で体験して確かめられるだろう。勿論良くなっている可能性も大いに有る。

何時ものように金の事を書くが、どうしても市場を把握しておくことは芸術的にとても重要なのだ。本拠地では5ユーロの次が21ユーロで、まあ劇場価格だ。一晩のギャラは安めなのだろう。アルテオパーでも29ユーロと先日のヴィーナーフィルハーモニカーの22ユーロよりは高価であるが、2016年のミュンヘンの座付き管弦楽団よりは安い。あの時は36ユーロほど掛かったので断念したが、今回は手数料込みで31ユーロしない。ライプチッヒまでは遠いのでこの価格で充分嬉しい。兎に角、ザルツブルクで断然素晴らしかったネルソンズの指揮が楽しみである。



参照:
19世紀管弦楽の芸術 2018-09-04 | マスメディア批評
「憎悪され、愛されて」 2018-10-02 | 文化一般
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釈然としないネット記事

2018-10-03 | マスメディア批評
もはや指揮者ティーレマンについて語ろうとは思わなかった。それがたまたま隣席に座った北イタリアの女性に話しかけて、ゼムパーオーパーファンと話すことになってしまった。バイロイトの話しから、私の訪問がブーレーズの「パルシファル」とペトレンコの「指輪」で、その趣味が分るだろうと言っておいたのだが、あの人たちはその意味が分からない可能性もある。共通に良かったというのがラトルの「パルシファル」で、「トリスタン」は喧し過ぎたと言ったのは理解したが、満足した様子だった。それがペトレンコのミュンヘンの座付きではお話しにならないというので、ああ、ラトル指揮のバルリナーフィルハーモニカーは市場ではそういう位置づけだったのかと改めて習った。勿論彼女はバーデンバーデンでのペトレンコのヴァークナーに期待していて、カウフマンはヴァ―クナー向きではなくて、明らかにフロリアンフォークト派だったようだ。

九月の中旬にザルツブルクの復活祭にミュンヘンの現支配人バッハラーが2020年からの支配人に推挙された。同時にバーデンバーデンの退任する支配人メーリッヒズェップハウザ―が応募していたというからクロスしている ― この情報はにわかに信じられない、なぜならばバーデンバーデンで金蔓を管理すると表明していたからで、その方が悠々自適となる。後者を焚き付けたのは音楽監督ティーレマンで、それでも誰がどうしてザルツブルクにバッハラーを呼んで再びべルリナーフィルハーモニカーをバーデンバーデンから奪い返す画策をしたのか?これが不思議だ。勿論ティーレマンは、「それなら辞める」と言い出した ― この言葉を皆が待っていたのだ。少なくとも2019年は楽劇「マイスタージンガー」上演となっているが、その先は怪しい。そこでこの10日にザルツブルクの関係者がティーレマン詣をする。機嫌を取ることが目的だが、なにかそこにまるでヴィーンでのような得体の知れない陰謀を見てしまう。それどころか指揮者とシュターツカペレの契約も一年ごとの延長となっているので、あまり安定していないらしい ― 次は東京に行くのだろうか。そして何よりも不思議なことにバッハラーの意向について触れている記事は一つも無い。つまり電話一本の取材もしていない。どうも、おかしい。

バッハラーがオーストリア人でその関係からよりよい発展をザルツブルクは目指しているとしても、よほどティーレマンが邪魔になっているようで ― 「トスカ」の演出家変更でゼムパーオパーとの共同制作を没にしたことが恨まれているようだ ―、指揮としても一つのコンサートプログラムを一度しか指揮しないようになるなど、やはりこちらもおかしい。そしてこのようなおかしな情報が北ドイツのメディアにまで流されているのも不思議である。この状況を整理して、テーレマン・シュターツカペレとペトレンコ・ベルリナーでスワッピングしろというのまである。それらの情報のいい加減さは、「2020年にザルツブルクへペトレンコと戻ってくる」としていて、ベルリナーフィルハーモニカ―が新たに締結したバーデンバーデンでの五年間の契約の存在のみならず、ベルリンのツェッチマン女史の対応などが全く無視されていることで分かる。

恐らく画策しているのはザルツブルクのフォンカラヤン財団だと思う。この積み木崩しのリセットを見ると序にここでティーレマンを切ってしまおうという魂胆ではないか。今から考えるとカラヤン財団が再びザルツブルクに戻ってしまったのもペトレンコがベルリンを継承することが決まってからであるから、何かそこに政治があり、またここで新たな動きがあったとみるのが正しい。その裏にはソニーなどのメディアの戦略などもあるかもしれない。強引にペトレンコをものにしたいのだろう。ティーレマンではやはり具合が悪いようだ。ヴィーンでのノイヤースコンツェルトもそろそろメディアの準備に入るので、この10日辺りに何かあるかもしれない。ブロムシュテットという強い助っ人がいて、来年以降のスケデュールにフィルハーモニカーの支配人が言及していたのはただの偶然だろうか?

隣のおばさんのその「趣向は理解しているよ」と言ったが、やはりオペラにはああしたジンタみたいな楽団の方が手回しオルガンで歌うみたいなのが気持ちが良いのかもしれない。その意味からは今回ツェッペンフェルトがポーグナーを一幕で歌った声などはマイクで拾ったものよりも些か弱く感じた。三幕の高台での声が通ったのとは対照的だった。バルコンの視角は悪くは無かったが最初に貰った席の券も返して貰いながらも譲ることも無く試しもしなかったが、指揮者を横から見る形だった。音響は真ん中横はサイドからの反射があって最高ではなかった。但し管弦楽は、特に今回の場合はヴァイオリンが左右に別れて壁の向こうで、ヴィオラとチェロが右左に見えるのは悪くなかった。もう少し上の方がやはり楽しいかもしれない。視角も悪くなかったが一寸遠いかもしれない。今後の参考にしたい。王のロージュも少し遠いかなという気もする。隣のおばさんも普段は上階にいるらしく、カメラ設置で私と同じように移動したので、お互いに笑った。



参照:
職人の技が導くところ 2018-10-01 | 音
解klassisch gegen rechts 2018-09-14 | マスメディア批評
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