Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

「パルシファル」動画集

2018-10-17 | 
キリル・ペトレンコ指揮バゼリッツ画オーディ演出「パルシファル」2018年7月8日生放送動画断片の纏め。

断片が大分公式公開されている。しかし編集も無くブツ切りにされているために感興を削ぐのかあまり人気が無い。そこで折角の断片なので纏めてみた。


PARSIFAL: Vorspiel | Conductor: Kirill Petrenko

先ずは有名な前奏曲、最初から劇場の空気を支配して決めてしまうようなヴァークナーの前奏曲の中でも、晩餐から信仰そして救済へと流れが示されて、如何にも聖週間のような趣が支配する。そして最後の木管の上昇による救済の澄み渡ろうとする美しさこそは、まるで日曜日の薄暗い教会に射す重い扉の向こうの明るい新緑の陽射しへの一条の光のようだ。

PARSIFAL: Christian Gerhaher sings "Enthüllet den Gral" | Conductor: Kirill Petrenko

一幕第三部のアルフォンタスの苦悩、アンフォルタスを歌ったゲルハーハ―の歌唱と芝居はこの制作で最も劇的で劇場的に成功していたとされたが、三幕での大きな動きに比較してここではより細かな演技と歌が披露されていて、映像で観ると圧倒される。自らフィッシャーディースカウの亜流と自虐的に言うが、これだけの歌唱と演技は元祖には出来なかった。演技の大きさよりも歌唱の細やかさとその表現の大きさに驚くばかりだ。そのゲルハーハ―自体がペトレンコの指揮だからこそ引き受けて、可能だというのも、なにも他の指揮者をバカにしているのではなく、そこまで合わせた抑えた指揮は前人未踏という事でしかない ― タンホイザーでのヴォルフラムの歌然りである。しかしあの腰に巻いているものは家にある敷布のケルトである。出血で汚れているのはリアルだが、炬燵布団でなくてよかった。

PARSIFAL: "Amfortas, die Wunde" | Conductor: Kirill Petrenko

二幕のクライマックスである接吻の場である。ここでのカウフマンの熱唱は特筆されても良いと思う。ヴァークナーには向かないとか言われても、これほどセンシティヴな歌唱を知らない。それほど丁寧な管弦楽があるからだが、べルリナーフィルハーモニカーで演奏されてもこれに匹敵する歌声を誰から聞くことが可能だろうかと思う。クンドリーのそこまでのシュテムメの歌唱も見事だったが、それ以上にこの役には女性的な母性的なものと動物的な悲鳴に見られる幅の広さと、度量の良さというか受け身の、歌唱を超えた役で存在感はピカイチだったかもしれない。

PARSIFAL: Vorspiel 3. Aufzug | Conductor: Kirill Petrenko

三幕への前奏曲、「マイスタージンガー」での同じ位置の前奏曲と同じで、遅いテムポでもったいぶって演奏されると、ただ単に重苦しくなにがなんだかわからなくなるのだが、ここでも早めのテムポながら十二分に歌い込みながらその音楽構造がくっきりと浮かび上がる。まさに楽匠が呟いたように、その複雑な心象風景は劇場の皆が思い描く風景なのだ。思い描くのは決して指揮者の心象風景などではない。

PARSIFAL: Karfreitagszauber | Conductor: Kirill Petrenko

三幕の山場となる聖金曜日の音楽、ここでのシュテムメ扮するクンドリーのうつ伏せ姿勢とカウフマンのもっこりパンツでの立ち姿、そこに後ろから重なってくる麻のような服を着たグルネマンツ、そして起き上がって今度はパルシファルによる洗礼である。その傷ついた血糊のある手は中々劇場では分かり難いが、映像であるとそれなりの印象があり、オーボエによる信仰の動機へと繋がる。当代随一のグルネマンツを歌うパーペのその手慣れていながら更に細かに注意を払った歌唱には引きこまれる。

PARSIFAL: Final scene | Conductor: Kirill Petrenko

フィナーレのパルシファルによる救済である。先ずはなによりもこの管弦楽の立派なバランスに驚く。正しく楽譜を演奏すればこれだけ清澄な響きが浮かび上がるという事でしかないが、ブーレーズ指揮のバイロイトの楽団でもなせなかった響きの美しさである。なるほどバーデンバーデンでの演奏に比較すると圧倒的な響きではないのだが、その声との得も言われぬ混ざり合いは合唱においてもフィルハーモニカーには難しいかと思われる。しかし、これほどの演奏をしても10月に合席したゼムパーオパーファンのおばさんは「この座付き管弦楽団は話しにならない」と言えるのだろうか?とても不思議である。ペトレンコ監督になってから劇場特有のあのジンタから完全に決別してしまったという違和感の方が強いのだろう。まさにあれだから高度な音楽ファンは通常のオペラ劇場などからは益々足が遠ざかるのである。

こうしてこの制作の断片だけをしても、如何にこの舞台神聖劇における主題でもある「共感」無しにこの音楽が成立しないかが分る。楽匠におけるその社会性というのはとても興味深い一面である。それにしてもこの演奏の素晴らしさは、共感せずにはいられないベートーヴェン流に言えば心に入ってくる音の芸術でしかないところだ。抹香臭さや宗教的なドグマを極力排した演奏と、なにもしなかったと評判の良くなかった演出が、各々の歌手の演技や歌をこうしたヴィデオ撮影によって光を当てて、格別なハイライト集となっている。



参照:
見所をストリーミング 2018-07-09 | 音
興奮醒めぬ中継映像 2018-07-10 | 文化一般
コメント
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