Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

職人の技が導くところ

2018-10-01 | 
季節の変わり目で声が出なくなっている人も周りにもいる。しかし、今回のミュンヘンでの記念公演での降板騒動は本当にそれだけなのだろうか?生中継などが予定されそれだけ準備されて人手も掛かっていた。そして、なるほど身体を楽器とするオペラ畠では頻繁にあることでもあるが、通常以上にその対応に関心が向かった。舞台では前日の見学で一つのコーナーで話をしたアーティストマネージャーが舞台で、最も関心ごとであった主役のハンス・ザックスを当たり役のヴォルフガンク・コッホが病気降板して、前晩に「影の無い女」のバラックをベルリンで歌ったミヒャエル・フォレが当日にミュンヘンに飛んで来て三時間ほど合わせてから出るという話しを幕前にした。予定されていたストリーミング中継には向かないのは、記録として残したいコッホやカウフマンの配役ではなくなったからだ。しかしそれ以上に技術的にどのようにそれを解決するのだろうかと関心はあらぬところへと向かった。始めから期待していたお祝いムードではとてもなくなった。

最大の関心ごとはフォレのハンス・ザックスがどのようにこのデーフィト・ベッシュ演出に組み込まれるかだった。それは演技とか役作りではなくて三時間でどのように指揮者のキリル・ペトレンコとピアノで合わせたかである。そこに尽きると思う。結果からすると舞台で役作りは最低限の情報を与えられただけだったかもしれない。どのようにするのかは分らないが、前日の見学でも感じたように専門のスタッフが様々なテクニックを用いて短期間に、恐らく化粧中も指示するのかもしれない。皆目わからない。

音楽に関しては、それこそ音楽監督のアシスタントがバイロイトの上演から必要な点をピックアップして、合わせる箇所をピアノを弾くのではなかろうか。その上でペトレンコが指揮して必要なところを確認する。そのような感じだと想像する。ザックスが歌うところを全て合わせて、どれぐらいのトータルタイムになるのか?指揮者は全体の流れの中からチェックをする。先月のヴィデオで紹介された通り、配役によってその演出が変わってくるその妙が今回の公演の全てだった。そしてそれが、ペトレンコに未だ嘗てないほどの厳しく、激しい指揮をさせた。否、もしかするとその方向での模索がコッホの降板に繋がったと邪推するのはお門違いか?完成度が高く、それだけの準備をした映像を記録しようと準備していたようにしか思えないからである。幻の歴史的名演だった。

私のようなバイロイトに批判的な者でも、あの汚らしいバリーコスキーの「マイスタージンガー」でのフォレの名唱は耳に残っている。要するに楽しみにしていたコッホのベルカントのややもすると意志薄弱で殆ど「寅さん」のような靴親方像とは正反対にある、あまりにも傲慢なドイツの職人像で、その井手達も歌声もそのものである。これがどのようにこの演出に嵌め込まれるか。一幕ではまだまだ違和感があったが、二幕三幕とその歌の力で、ややもするとバイロイトのそれと二重写しになった。隣に座った南ティロルのおばさんはティーレマンファンで、ゼンパ―オパー一番のヴァクナー狂だったが、全然違うというのは管弦楽への違和感だった。

実際にはフォレの歌はテムポ等の合わせるしかないところ以外の細かな歌は変わっていなかったのではなかろうか、そしてその歌はあのとんでもない上演ではなくてこのベッシュの演出とペトレンコの音楽にこそ本領を発揮したと思われる。そして、この演出がコッホのザックスでは、ドラマテュルギー上、辻褄の合わないところが全て解決されていた。恐らくこの演出は初演地ミュンヘンを歴史的に代表する演出だった。そのようにペトレンコは指揮した。それが到底間に合わせではないと思わせるだけの彫塑と音楽的構成力が明らかだった。

第一幕の完成度は2016年度とは比較にならなかったが、テムポはどんどん早くなって行くかに見えても、例えば後拍での過去二回の録音にはないような強いアーティキュレーションもあり、明らかに歌い込みが強くなっていたので ― ここは楽譜を確認したい ―、その彫塑が深まり、楽想間の対比が対位法的にも明白になっていた。同時に横方向にもアゴーギクが強くなる傾向が明らかで、その早いテムポの中での自由自在が大きな表現を可能にすると同時に叙唱風の歌詞のアクセントが更に精妙になっていた。これはフォレの影響も大きかったかもしれない。しかしこのような人がマンハイムで歌っていたと知るとなるほど今でも登竜門の劇場だと要らぬところに感心する。

そしてそのような音楽運びから齎せる最大の効果は、アンサムブル上の例えばフーガにおける楽想の明晰さが生む楽匠の奇跡的な筆運びと、その奏でる音の意味合いが明白に浮かび上がらせることだ。一二幕と三幕では恐らく放映での完成度も考えての楽員の入れ替えもあり、総力戦で挑み、出来るだけ多くの楽員がこの記録的な演奏に参加することを目したかのように見えた。ドイツ配置?のヴィオラ群の秀逸さには目を見張ったが、コントラバスの運弓が齎すまるでドビュシーのような浮遊する和声やヴィーナーを超えるファゴットの響き、オーボエの適格なソロ、フルート、クラリネット、トラムペットの一吹き、トロンボーンからテューバまでとても更っていた。三幕に乗って来たデングラー率いるホルン陣はまさにこの音がベルリンに欲しいもので、多くの箇所で一流交響楽団が瞠目する演奏がなされた。しかし、これも隣のおばさんなどに言わせるとシュターツカペレドレスデンとは比較にならないようだから、勿論彼女の趣向は分かっても、結局聞く耳があるかどうかだろう。しかしそうした各々の演奏技術上の要素を議論しても、どのように表現してそれがなにを意味するかを考えないとお話しにならない。(続く



参照:
記念劇場見学の日 2018-09-30 | 雑感
社会的情念の暴力と公共 2016-06-01 | 音

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