Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

杖無しに立たせる指揮棒

2018-09-21 | 
とても良かった。昨年のゲヴァントハウス管弦楽団の完成度やブロムシュテットの読み込みの明晰さは無いが、チューリッヒのトーンハーレ管弦楽団の演奏もハイテインクの指揮もブルックナーのある面をしっかりと聞かせてくれた。どちらかと言えばメローな歌い口と美しい和声を聞かせるのがこの指揮者の本望だが、マーラーの創作とは違い飽く迄もそのロマンの和声からの枠組みが聞かせ所だ ― その対極にあったのが12音語法的なブルックナー九番を聞かせたギーレン指揮とかだろうが、何度も書いているように作曲家の居た環境からその創造を追体験する方が創作の真に迫れる。

前半のモーツァルトは指揮もピアノも程度が低かった。ハイティンク指揮の悪い面が強調されたような大雑把さとメローさが目立って、なによりもピアニストのティル・フェルナーはチューリッヒで教えているようだが、如何にも教授程度で、クララハスキルコンクールの優勝者という事で、その程度が知れる。タッチもモーツァルトを弾くにはあまりにも雑で、ブレンデルの名前を出されて迷惑に思う。そして指揮もその程度で、仕方ないなと思い始めた。

ブルックナー七番の一番長い主題へのそのトレモロの冒頭からなかなか聞かせた。それは会場のアーコースティックが大きく貢献しているが、管弦楽団というのは入れ物あってのものである。まさにこの臨時の会場こそが今回の訪問の主目的だった。その主題の歌わせ方もヴァークナーの上昇旋律を想起させるような歌い口であり、その後の主題の特徴付け方も周知のようにこの指揮者では最小のコントラストしか付けられない。しかしそのお陰で見え聞こえるものが中々精妙であったり、ブルックナーの創作の本質でもあり得るのだ。そうしたブルックナー解釈であり、そのような指揮を観察した。

若干メローな歌い口もセンチメンタルとはならない節度と大雑把さが混ざり合っているようなところがあり、丁度宇野功芳の謂わんとする「森羅万象」や「寂寥感」には事欠かない。それが逆に上手いこと流れる。しかしカラヤン指揮のような流麗さで流されることはなかった。一つには管弦楽団がそれほど手馴れてはおらず、あの如何にも不親切そうな弦のポジション取りなどがとてもいい感じでコントラストを与えていた。一楽章のコーダはその特徴が良く表れており、アラブラーヴェの「落ち着いて始まり」が本当に落ち着いている。これがブロムシュテットの「滑走路待機でそろそろ離陸ですよ」の感じと違い、最後まであまり早くもならないのに典型的に表れている。そもそもここでテイクオフすべきかどうかは解釈の問題ではなかろうか。二楽章の第二主題や、三楽章主題また三十二分音の連桁などの扱いが四楽章最後まで活きる ― これも到底ヴィーナーフィルハーモニカーなどでは聞けなかったものだ。これらだけで適当な主題間の対峙が導かれ、勿論その和声的な緊張感は各システム間で対位法的な鋭さとして表れる。これは見事であり、この響きが表現されないことには精々「ジークフリート」や「神々の黄昏」の亜流でしかない。その意味からその大きな枠組みを超える緊張も十分に表現されていた。

勿論被り付きに座ったのだからそうした表現をどのようにあの指揮で引き出すのかを注視していた。やはり永い間の指揮技術の熟練と凝縮は私にも判ったが ― 特に棒のはねの使い方が面白かった ―、必ずしもヴィーナーフィルハーモニカーを振っては、こうした結果にはならないのは、コンセルトヘボーを振っても同じだろう。あまりに手慣れた管弦楽団であるとそのリズムとテムポを与えるだけでしかない、するとある種のぎこちなさから生まれる主題間の対立が生じないのだ。この指揮者はああした超一流の管弦楽団を振る人ではないのだろう。そしてブルックナーの楽譜はそうしたものが内包されているという事なのだ。それが最大の功績だった。昨年の七番と甲乙つけがたい価値があった。

トーンハーレはスイスを代表する管弦楽団であるが、管などは事故の起きやすい管弦楽団でそれほどの名手が集まっている訳ではなさそうで、弦の精度もN饗などの方が上なのかも知れない。それでも若い人も多く、ゴリゴリ弾けるだけの弦楽奏者を採用していて、恐らく日本などの奏法とは違う ― 昔からこの楽団やミュンヘンフィルなどにブルックナーの名演奏録音が多いのは偶然ではないだろう。例えば次期監督パーヴォ・ヤルヴィのHRなどの方が弱々しい。管楽器奏者は凸凹だが、やはり座付きの楽団とは違う。なによりもいいホールで合わせていればいいアンサムブルになるだろう。先月もNZZの人が「ベルリンのように古典的ドイツ配置だったらな」という意味もなんとなく分かった。そうした個性が出来ればもう一つ格が上がるだろうが、ヤルヴィ監督ではそれは難しいだろう。

クライマックスの後盛んな拍手の後で舞台の奥から立ちだした。結局いつものようにスタンディングオヴェーションになったが、今回は一切杖を突いていなかった。手にしていたのは指揮棒だけだった。それだけでも誉めてあげたい。結局年寄りも自宅から出てくれば元気という事ではないのだろうか。(続く



参照:
いぶし銀のブルックナー音響 2017-10-31 | 音
騙された心算で行こう 2018-09-19 | 音
コメント
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