公共放送を巡る音楽文化政策のスキャンダルを屡取上げなければならないのは甚だ遺憾である。
今回も交響楽団がらみである。ケント・ナガノ氏が音楽監督をするベルリンの放送交響楽団のことである。官僚主義を貫く公共放送の幹部からは、決して解散や放棄の声は上がらないが、伝えられる事はそれと変わらない。だから、その事に気が付く音楽愛好家も少ない。非経済的でグロテスクな組織を形成する交響楽団は、母体である放送局の経営の健全化の大きな改革要素となっている。具体的な経済状況は知らないが、既にプログラムの自己制作断念へと傾く公共放送局にとって、このような資産を維持する口実は消えた。何処も彼処の民営化の風潮に経済性を求めるならばさっさと分割統合すべきである。
さて、今回の処方は、先ずは人気のない目立たぬ現代管弦楽曲のシリーズを中止して、事実上この高価な楽器の首(頭)を真綿で閉めて息の根(粋の音)を止めるようなものだ。実際このシリーズでの初演は、2000年の新曲が最後であったから作曲家アリベルト・リーマンが言うように、既に他の交響楽団活動同様に創造的な意味合いも芸術的な価値も朽ちていた。アシュケナージ氏が去り、ナガノ氏によるツアー優先の戦略にこれが呼応する。これまでリゲッティのチェロ協奏曲やシュトックハウゼンの「星の響き」、リームのビオラ協奏曲、リーマンの「イナーネ」のみならず多くの価値のある、さらには棒にも箸にも引っかからぬ失敗作までが初演されて楽団生存への養分となって来た。
時代の推移や趣味を語る前に、このような初演曲が無ければ大交響楽団という形態が終わりを迎えることを明白にしなければならない。現在のシカゴ交響楽団が半世紀ほど前の曲を見事に演奏するのとヴィーナー・フィルハーモニカーが一世紀程前の曲を主要レパートリーとしている事にそれが示されている。それよりも速いペースで時代は推移して、レパートリーの枯渇は免れない。交響楽の歴史の終焉である。
それを示すかのように、代わりに新しい予算を計上してミュンヘンのそれを真似て、電子音楽などのフェスティヴァルを開くと言う。決してこの処方箋は間違っていないのだろうだが、民営化で近所の郵便局が無くなり不便になるほどにも誰にも気づかれない内にひっそりと事は進められる。既に黄昏を過ぎて、終末にある証拠である。
本日、育ち過ごしたチロルのボルツァーノで埋葬されたアプリ地方出身の指揮者カルロ・マリア・ジュリーニは、イタリアオペラの世界から脱出して独墺の調的交響の世界で生きた。享年91歳であった。世界中で愛された好事家音楽家の存在自体が既にこの交響楽文化の「過去」を示しており、その指揮活動の思い出とともに感慨深い。それでも、やはり先日亡くなって戦後ドイツ音楽界における存在を再確認された「モダーンなチェリスト」のジーグフリード・パルム氏よりは遥かに有名であった。
今回も交響楽団がらみである。ケント・ナガノ氏が音楽監督をするベルリンの放送交響楽団のことである。官僚主義を貫く公共放送の幹部からは、決して解散や放棄の声は上がらないが、伝えられる事はそれと変わらない。だから、その事に気が付く音楽愛好家も少ない。非経済的でグロテスクな組織を形成する交響楽団は、母体である放送局の経営の健全化の大きな改革要素となっている。具体的な経済状況は知らないが、既にプログラムの自己制作断念へと傾く公共放送局にとって、このような資産を維持する口実は消えた。何処も彼処の民営化の風潮に経済性を求めるならばさっさと分割統合すべきである。
さて、今回の処方は、先ずは人気のない目立たぬ現代管弦楽曲のシリーズを中止して、事実上この高価な楽器の首(頭)を真綿で閉めて息の根(粋の音)を止めるようなものだ。実際このシリーズでの初演は、2000年の新曲が最後であったから作曲家アリベルト・リーマンが言うように、既に他の交響楽団活動同様に創造的な意味合いも芸術的な価値も朽ちていた。アシュケナージ氏が去り、ナガノ氏によるツアー優先の戦略にこれが呼応する。これまでリゲッティのチェロ協奏曲やシュトックハウゼンの「星の響き」、リームのビオラ協奏曲、リーマンの「イナーネ」のみならず多くの価値のある、さらには棒にも箸にも引っかからぬ失敗作までが初演されて楽団生存への養分となって来た。
時代の推移や趣味を語る前に、このような初演曲が無ければ大交響楽団という形態が終わりを迎えることを明白にしなければならない。現在のシカゴ交響楽団が半世紀ほど前の曲を見事に演奏するのとヴィーナー・フィルハーモニカーが一世紀程前の曲を主要レパートリーとしている事にそれが示されている。それよりも速いペースで時代は推移して、レパートリーの枯渇は免れない。交響楽の歴史の終焉である。
それを示すかのように、代わりに新しい予算を計上してミュンヘンのそれを真似て、電子音楽などのフェスティヴァルを開くと言う。決してこの処方箋は間違っていないのだろうだが、民営化で近所の郵便局が無くなり不便になるほどにも誰にも気づかれない内にひっそりと事は進められる。既に黄昏を過ぎて、終末にある証拠である。
本日、育ち過ごしたチロルのボルツァーノで埋葬されたアプリ地方出身の指揮者カルロ・マリア・ジュリーニは、イタリアオペラの世界から脱出して独墺の調的交響の世界で生きた。享年91歳であった。世界中で愛された好事家音楽家の存在自体が既にこの交響楽文化の「過去」を示しており、その指揮活動の思い出とともに感慨深い。それでも、やはり先日亡くなって戦後ドイツ音楽界における存在を再確認された「モダーンなチェリスト」のジーグフリード・パルム氏よりは遥かに有名であった。