先日、ドイツワイン街道の南の外れで珍しいワイン作りをしている町シュヴァイゲンを訪れて、そこの陽当たりの良いワイン畑の斜面を歩いた。フランスとの国境にあるこの町は、小さな丘に古城が並ぶ山並みの南東の端にある。土地は、その土壌も相まって、温度が上がりやすく比重の高い葡萄ジュースが収穫されるらしい。その特徴を生かして、リースリング以外の葡萄品種も盛んに耕作されている。よって、繊細なワインは無くとも、面白いワインが見付かるかもしれない。
ここの町にあるワイン街道の凱旋門は、1936年にアルザスへと向けられて建てられて現在もバスで訪れる観光名所となっている。折からの豊作とユダヤ人ワイン商を追放したので、滞りがちなワインの消費と流通を促すためにプロパガンダとして建てられる。その年の三月には、ナチは非武装化されていたプァルツへと既に侵攻している。歴史家でもあった名門ワイン醸造所主フリードリッヒ・フォン・バッサーマンの「ドイツワイン街道」のアイデアが、こうしてナチの郡長によって実現されたと、ゲーテ・インスティテュートの説明にある。
そして、この町で飲まして貰ったワインがアルコール度17度あると聞いて呆れる。それでも飲み心地に丸みがあって強いアルコールを全く感じさせない。その感想を、小さく太った伍長のような親方に告げると、我が意を得たりと満面の笑みで喜ぶ。このようなものを作る方も飲む方も大馬鹿者である。そう言えば、ラインガウのあるワイン農家に、人を頻繁に連れて行った時期がある。安くて強くて美味かったからである。そこの親爺は、「俺はガイゼンハイム(凱旋ハイム?)の高等専門学校で学んだから」と自慢をしていた。その親爺に「もっと力強いのは無いのか」と嗾けると、「強いだけがね良いとはいえないのだが」と躊躇しながらも負けられぬとばかりに、次から次へと「強いワイン」を開けていった。当時は、実際にこちらも強いワインを求めていて、平素からカロリー摂取量も高かったので長身でもないのに体重は軽く90KGを越えていた。その親方は、昨今どんなワインを作っているのだろう?久しぶりに、運転手をつけて試飲に行ってみたいと思う今日この頃である。
ここの町にあるワイン街道の凱旋門は、1936年にアルザスへと向けられて建てられて現在もバスで訪れる観光名所となっている。折からの豊作とユダヤ人ワイン商を追放したので、滞りがちなワインの消費と流通を促すためにプロパガンダとして建てられる。その年の三月には、ナチは非武装化されていたプァルツへと既に侵攻している。歴史家でもあった名門ワイン醸造所主フリードリッヒ・フォン・バッサーマンの「ドイツワイン街道」のアイデアが、こうしてナチの郡長によって実現されたと、ゲーテ・インスティテュートの説明にある。
そして、この町で飲まして貰ったワインがアルコール度17度あると聞いて呆れる。それでも飲み心地に丸みがあって強いアルコールを全く感じさせない。その感想を、小さく太った伍長のような親方に告げると、我が意を得たりと満面の笑みで喜ぶ。このようなものを作る方も飲む方も大馬鹿者である。そう言えば、ラインガウのあるワイン農家に、人を頻繁に連れて行った時期がある。安くて強くて美味かったからである。そこの親爺は、「俺はガイゼンハイム(凱旋ハイム?)の高等専門学校で学んだから」と自慢をしていた。その親爺に「もっと力強いのは無いのか」と嗾けると、「強いだけがね良いとはいえないのだが」と躊躇しながらも負けられぬとばかりに、次から次へと「強いワイン」を開けていった。当時は、実際にこちらも強いワインを求めていて、平素からカロリー摂取量も高かったので長身でもないのに体重は軽く90KGを越えていた。その親方は、昨今どんなワインを作っているのだろう?久しぶりに、運転手をつけて試飲に行ってみたいと思う今日この頃である。