Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

痴呆化と単純化の伝統

2007-10-04 | 文化一般
このBLOGでは曲りなりにも文化について考えている。だから、日本の邦楽セッションがやって来てそれに接しての感想も認めておかなければいけない。

邦楽演奏会のプログラムに肥後一郎の名を見つけた。二十年以上前に聴いた管弦楽曲の演奏会のことを思い起こした。通常の現代音楽作品に比べて、その形式以上にその発想の理解しがたい不明瞭さに閉口した記憶があるが、今回の再会で幾らかは過去に遡ってその姿が見えた印象がある。

何よりも現代邦楽の作曲家として、こうした邦楽の演奏会で取り上げられることで、そしてそれらの創作行為が比較対象化されて叙述法が把握されることで、その発想が身近に感じられるような錯覚があるのかもしれない。

現に、ジャズセッションの音の大きさや大道芸の見世物に歓声が湧く一方、そこで鳴らされる響きになにか違うものを感じ取った聴衆がいたことは、充分にその意図が汲み取られたと言っても良いのかもしれない。

ジャズのセッションの進行の要素や伝統的十段に混ぜられて、こうした行為が明快になる背景には、伝統音楽の譜面面や五線譜とは反対から頁を捲る面白さがあるだけでなく、また弦の数が増やされた琴のアンサンブルやその現代的音色音感のための技巧が存在するだけではないのは言うまでもない。

そこには、日本の現在の生活感や世界観のようなものが見受けられる。例えば津軽三味線や沖縄民謡などの音楽や中国楽器のポピュラー化などは聞いてはいるが、そうした実態の一部として、叩きの強い津軽三味線やフルート名人パウ氏のような音の擦れない尺八の音を聞くにつけ、如何にこれらのものの発声が明快になったものかと気が付くのである。

三味線の方には、その津軽三味線の叩きの強さを尋ねた。なぜならばそれは、聴衆がたじろぎ、後退りするほどのもので、モダーンジャズなどに相当するものであったからだ。それを、ある種の音楽的な情念の表現とすると、それは極東アジアの人にしか通じないものだとの見解であった。それに対しては、「そうしたものは、どうして、文化圏を越えている」ものとしておいた。

さて、ここからはそうした文化行為を越えた一般論になるが、発声の良い主張と言うのは、ポピュリズムやステレオタイプな発言となり易い。そこで必要とされるのが駆使されるべきレトリックの妙であり、それを普遍化し洗練した様式なのだ。

そうした修辞法の洗練こそが文化であり、そこにはじめて普遍性が生じると考えられる。先のモーツァルトの「情念」も、もの心つく前から叩きこまれたクラッシックの様式感の中で表現されたものである事を素直に思い浮かべれば良い。その情念そのものを卵を孵すように「自己の妄想の中で膨らます」ような行為が、実は「ある種の発声の良さ」と裏腹にある行為であることは、少し考察すれば誰でも解るのである。

幾らかでも、伝統とか文化に携わる発言をしようとするならば、対象への批判眼から導き出された修辞法が生み出されるべきである。対象への自己投影や近親感からは、痴呆化した不明瞭さか、もしくは反対に形骸化された単純化しか生み出されないからである。

これは、文明を拓くのは、職人的な技巧や学術的な技術では全くなく、文化と言う知性がそれを担うことを指している。

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