Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ブラームスはお嫌い?

2024-03-18 | 
ブラームスはお嫌い?婆さんが、ゲルハーハーの歌曲の夕べの中休みにお友達らに素晴らしいでしょうと尋ねられて「ブラームスだから、昨晩も来たけど、よくない。」と答えていて、「今回のテーマでしょうが、」と言われても、「それは仕方ない。」ということだった。

まさしく先日言及したブラームスへの従来の印象を強化する。婆さん自体は顔を見たことがあるような常連さんには間違いないので、音楽愛好家には違いない。だからこそメランコリックなブラームス像から逃げられないのだと思った。

ブラームスの新古典的なその作風を理解するにはシェーンベルクを理解するのと同じぐらいにその書法をみれない事にはその面白さが分かりにくい。表面上は今でも男泣きの作曲家でとなると、少し趣味が洗練されている人には毛嫌いされるかもしれない。

その為、その後の世代であったレーガーのモーツァルト愛などが決して容易に理解されないということにも通じている。

その意味とは別に当日最後のコンセルトヘボ管弦楽団員のアンサムブルでの二曲を聴いて、なるほどその前夜の演奏でも同じ様なものだったから面白くなかったのはよく分かった。

抑々セレナーデ自体は交響曲に準じるもので指揮者の下での演奏の方がコンセプトが明白になる。逆に演奏自体は指揮者無しでも合わせることは可能なのだろうが、いちいち音楽的に調整していては埒が明かない。今回の演奏でも音楽的には後ろに座っているクラリネットのオッサンが引っ張っていた。しかし、それが明白な音楽を作るだけのものではない。

前半の弦楽六重奏になると今度は映像で持っているように四重奏に二人のゲストを加えるだけならば四重奏団と一人二人が合わせればことは済む。それ程弦楽四重奏団は一挙手一投足を平素から合わせているので音楽的にも技術的にも精査されている。そしてこの曲こそがシェ-ンベルクの「浄夜」の六重奏に繋がっている。

そのようなものにたとえ同じような面子が揃っていたとしても大管弦楽団の合奏技術程度では到底室内楽にもならない。それはたとえ現在のベルリナーフィルハーモニカーが試みても変わりないのだが、そもそも平素からの合わせ方が異なり、意識が全く違う。正直あの程度の意識で営業しようとしているのが恥さらしである。それも本体の大管弦楽の方の売りの弦楽合奏からして程度が落ちていて、その首席級が集まっているとしても程度が低いことを確認した。この名門楽団は最早可也ランク落ちしている。潰れるかもしれないと思っている。

それは管を加えた時にも肝心のハーモニーが音程が悪いので浮き上がらない。バランスを辛うじてとっているにしか過ぎない演奏なのである。そのようなことで営業をしてしまうというのが可也横着で、音楽家としても程度が悪い連中が集まっているとしか思えなかった。ブラームス云々をいう以前のお話しなのである。

これならば昨年演奏したブレーメンの室内楽団やそれどころか欧州室内合奏団でも比較に為らない位見事に演奏するだろう。しかしやはりセレナードには模範となったモーツァルトの「グランパルティータ」以上に指揮者は必要であろう。



参照:
ブラームスのセレナーデ 2024-03-15 | 音
しっとりとした旧市街風景 2024-03-17 | アウトドーア・環境

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