Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

日常茶飯に出合う芸術祭

2022-04-17 | 文化一般
聖金曜日は朝から出かけた。先ずは11時からラウンジで「スペードの女王」のガイダンスがあり、14時からは同じクアーハウス内のヴァインブレンナーザールで室内楽演奏会があった。

復活祭中に数々のベルリナーフィルハーモニカーによる室内楽が催されているがその中の一つである。今回はただ一回だけ出かけたのがこのグリンカのトリオニ短調とコルサコフのロ長調五重奏曲の二曲を演奏する会である。パユ、フックス、ドール、シュヴァゲルト、ピアノのアイディンが演奏した。会は盛況で、当日も売れて9割ほどの入りだった。

ドールの進行も場に適ったもので、穏やかで気持ちの良い金曜日の地元と滞在客の双方で埋まった客席を和ますだけのコミュケートがあって、その響く音楽の質を期待させるだけのものであった。

この室内楽シリーズは、ラトル時代から行われていたものではあるのだが、訪問するのは初めてだった。コロナ禍でこれまた流れて仕舞ったのだった。これはフェストシュピール全体の雰囲気にも関わるものなのだが、やはり全然変わったのではないか。ラトル自体のキャラクターは決して悪いものではなかったのだが、あのオペラを演奏するフィルハーモニカーの立場を考えると、より真剣なタイトで練成会的な感じがペトレンコ体制ではあるのではないかと思う。

そうした意味合いからもこうしたラウンジや室内楽で客の入りやその反応をその期待される内容とともに知りたかった。親密な感じだけでなくて、それなりな芸術的な香りを感じる時に、歴史的にそこのクアーハウスでフルトヴェングラーが指揮した「指輪」やその昔には、ヨハン・シュトラウスやリストなどの面影を追う事になる。

そうしたサローン文化との兼ね合いがまさしく上の「スペードの女王」の中身であり、真実も偽物もごちゃまぜにされている秘宝館とされるものであった。そこで顧みられるロココは当然の事乍らネオロココとされるものであり、そこで展開される風景も復古主義的な彩から、前現代へと、即ち完成した閉じた芸術ではない開かれた芸術へと、ごちゃまぜのカオスが想像される。

それはチャイコフスキーのオペラにおいて重要な意味を持つロマンツェはどの登場人物が歌う事になっても構わないものとすらなる。それだけ登場人物のキャラクターが明確に描き切られることとはならないのである。つまり取り替え可能とさえもなる。

これらはただの美学的な見解であるかもしれないが、今日において、ロシアの帝政からの歴史、そのサローン文化、そこにおけるフェークやお膳立て、そうした日常茶飯なものに出合うようになれば芸術祭も本物ではなかろうか。確かにモルティア時代のザルツブルクにはそれがあった。バーデンバーデンももう一息ではなかろうか。



参照:
ラウンジ周辺の雰囲気 2022-04-11 | 文化一般
大向こうから掛かる声 2022-04-12 | 雑感

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