Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

白髪のマゼッパのこい

2021-11-14 | 
(承前)「マゼッパ」の演奏から振り返える。初日には燃料の補給などで道を間違ってガイダンスに遅れてしまった。それも予定されていた女性ではなくいつものポーランドのおやじが話していたので前半を聞き逃したのが痛い。其れでも重要な部分であるロマンツェを繋ぐようにオペラが構成されていて、基本のテーマであるお尻につけられる下降動機で特徴づけられていて、それが全てチャイコフスキーの声であるというのは分かりやすかった。恐らく前半はその動機の扱いについての話だったのだろう。

つまりロマンツェンを繋ぐのは合唱や民族音楽の舞踊や凱旋の1812年であったりする。そのように見ると至極単純な構造になっていて、三幕六景の小さなオペラでしかない。しかし楽器編成は大きくダイナミックスレンジも速度記号の振幅も大きい。

そのドラマ的な意味合いは金曜日にドラマテュルギーの女性から話されたのだが、核はプログラム冊子にあったケルスティング氏の文章をして自分が書いたものでないのが悔しいという落ちになっていて、結局はペトレンコのアドヴァイザーとそのコンセプトに従っていることになる。つまり、運命の動機で有名なそれはチャイコフスキーの同性愛からの社会的な取り繕いであったりで、彼女に言わせると作曲家がせめて偽装でも妻帯していたら仮の社会的な姿で安定していただろうとしていた。勿論その運命は作曲家を自殺へと追いやるわけで、これまたショスタコーヴィッチにおける仮面の社会的存在が連想される。

一幕のコサックの駐留大将マゼッパが大家の娘マリアを父親に請う時の音楽とセリフがこのオペラでの聴きどころとなっていて、父親が白髪男に純な娘をやれないとするだけでこの大ドラマが生じている。ここでのオーボエをはじめの木管の絡みなどもとても絶妙なのである。

二幕のマゼッパとマリアのデュオにおいても三十歳差の男女の心理がとても面白いのだが、ここでも二回目の上演では楽団に熱が入るようになっていた。残念ながら歌手が全てを引っ張るほどの力はなかったのだが、そういう時に特に声が出ない時のペトレンコのバックアップぶりもミュンヘンでのお馴染みのものだった。こういう本場を重ねることで座付き楽団の味を身に着けていくのだろうか。三幕の凱旋での演奏は初日の方が熱が入っていたのだが、最終日には既に二幕までで十分に盛り上がっていたのですんなりと通り過ぎていた。因みに舞台裏のバンダを振った女流のアシスタントは両日とも指揮には精彩がなくて、リニヴなどとは比較にならない。そしてフィナーレでは最後に敢えて高く枯らし声を初日に出していたのだが二日目には抑えていたのだろうと思う。声を潰してはどうしようもない。(続く



参照:
スーパーオペラへの道程 2021-11-10 | 文化一般
「ありの侭の私」にスポット 2021-11-05 | マスメディア批評

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