Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

シュヴェツィンゲンから中継

2020-10-25 | 
最後の土曜日だった。暗闇の中をパン屋に向かう。これが最終日で夏時間が終ると一時間違うので7時には明るみが射している。だから黎明を待って車の中で待つことも無くなる。一年後にはコロナ禍も終わっていて、外に並ばないでも店内に並べるようになれば少し遅れて行っても大したことはない。
これを最後にしたい。

黎明が7時半、日の出が8時前なので、車の中で十数分待った。明るみが出て来たところでズボンを脱ぎ体操をして森の中が見えるようになるまで時間を潰した。暗いのでゆっくりと上がって、下りてきて、肉屋に寄って戻ってくると8時半に近かった。一時間は大きい。

毎年のように夏時間廃止の話題は出てくるが、オオカミの話しと同じでそれを信じる人は半数もいないだろう。例年ならばそれ程の支障はなかったが、ここ暫くの土曜日は異常だった。それでも峠から降りて来ると車がズラリと並んでいてお声が掛かるのは如何にも早起きのドイツらしい。

承前)金曜日のシュヴェンツィンゲンからの中継録音放送は良かった。最後のディスカッションの発言を前に持ってきていて、現場では聞き取り難かったポーランド、フランス英語が分かり易かった。マイクからスピーカーを通した音は矢張り距離が離れると、つまり結構デットだと思う音響でもやはり反響などがあって明瞭さを失う。その点はやはり視覚もあって、特別な音響上の欠陥が無いと楽音は後ろまでしっかりと通る。特にベルチャのような名器を思う存分にならせる四重奏団では表現の幅が小ホールを完全に満たしてしまう。

録音はセンターに、各楽器ごとに補助マイクを付けていて、チェロも可成り上から録っていた。舞台からの跳ね返りも多いのだろう。今回の演奏会がドルトムントと最も異なったことは先ずなによりもそのチェロの雄弁さとそれに合わせる第二ヴァイオリンの出来で、明らかにこの二人がいいバランスを取るようになっていたことだ。それは舞台の大きさとか音の飛び方とは別の次元で、楽曲にあったアンサムブルが出来上がってきていることを示すのだろう。

胴音にならないのは確認していたがドルトムントでは丁度同じ方向からであっても充分な音楽的主張として音が通らなかった。決して会場の関係でもないのはその他の録音でも確認している。とてもいいバスを他の曲でも押さえていて、あれだけの第一ヴァイオリンを支えていた。第二ヴァイオリンとチェロというような関係も出来ていて、どこでもプリマリウスを務めれる人のようだがポジションを固定してあるだけの第二ヴァイオリンにしていて見事だった。

その証拠は、ベートーヴェンの同曲をヴィーンのコンツェルトハウスで演奏した制作録画やまたヴァルシャワでの実況録画を比較すれば、先ずは楽器の配置、タブレット楽譜の使用、そしてその楽器間の合わせ方、バランスが刻々と変わってきている。

成程プリマリアのベルチャの言葉「大フーガを最初に聴いた時に、『これは狂っているそして一度聴いても全く分からない、もう一度良く聴かなければ』と思いました。今もそう思います。」ととてもいいことを語っている。

とても素直な言葉だと思う。逆に火曜日に録音が放送されるエベーヌ四重奏団などが全曲録音を一気に完成させてしまう姿勢は到底音楽的に信じるに足らない。

放送の後半に顕著に聞こえた雑音はよく分からない。空調の音でもあまりに小さなファンの感じでまたミキサーのプルトがあんな雑音を出すとも思わない。虫が鳴くような時期でもないが、生で聞いても分からなかったので不明である。

月曜日のお昼にはザビーネマイヤー吹くシューベルトの八重奏も放送される。シュヴェツィンゲンの音楽祭は以前の態勢からSWR局内でも変わっているようで、色々な面で芸術性は高まった印象がある。今後は再び注意して行きたいと思うようになっている。

因みにこのモーツァルトザールは、お姉さんのナンネルと一緒に演奏したとあって、当時はボヘミアグラスが使われたとあるが、一度ツアーにでも参加しないとよく分からない。(続く)



参照:
茂みに隠れたロドリーゴ 2020-10-24 | 暦
口をパクパクさせた 2020-10-21 | 雑感
コメント
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