上杉氏の後に春日山城主となった堀氏は、しばらくして平城である福島城を築きました。
しかし、1610(慶長15)年堀忠俊の改易後にこの地を治めることとなった松平忠輝は、この福島城を廃城とし、新たに高田城を築いたのでした。
松平忠輝は徳川家康の六男であったため、築城は天下普請によって行われました。
つまり、幕府の名を受け、臣下たる大名が工事を請け負い工事費を負担することによってその財力を低下させ、片や徳川家の腹は痛まないという算法です。
こうして作られた高田城はかなり大きな城だったと考えられます。
高田城の特徴の一つとして天守閣がないことが挙げられます。
そのかわりに三重櫓がシンボル的存在となっています。
残念ながら1870(明治3)年焼失してしまったので、現在の櫓は1993(平成5)年に建設された鉄筋コンクリートの建築物です。
土塀も一部復元されていました。
三重櫓から見た本城堀(内堀)
本丸跡は中学校になっていました。
建物の向こうに見えるのは春日山城跡です。
天下普請は上杉氏にも命じられ、直江兼続は陣頭指揮を執ることになりました。
はたして、どんな思いでこの景色を見たことでしょうか。
本丸西にある極楽橋
本丸跡
明治以降陸軍の入城時に3000本を超す桜が植栽され、日本三大夜桜のひとつに数えられているそうです。
高田城の二つ目の特徴として石垣がなく、すべての曲輪は土塁によって防御されていることが挙げられます。
この理由については、
1.近郊に石垣石として耐え得る石材が産出されなかった。
2.低湿地の軟弱な地盤が石垣の重量を支えられないと判断された。
3.大砲や銃器の発達など攻城法の変化により土塁の方が防御上有利であると判断された。
4.5ヶ月の突貫工事のため石垣工事を省略した。
などと言われています。
本丸跡に松平光長時代の高田城絵図が描かれていました。
こちらは現在の高田城公園現地案内図
城内は公共施設に利用されていますが、堀の大部分はまだ残されているのがわかります。
西堀
本城堀(東側)
北堀は一面の蓮の葉でおおわれていました。
これは、明治時代、失職した旧士族のための殖産策として蓮根栽培が行われたためです。
蓮研究の第一人者である大賀一郎東大教授が昭和28年に調査に訪れた際には、繁殖域の大きさ、育成の状況を「東洋一の蓮」と評価したそうです。
越後高田藩は親藩である越前福井藩と共に、加賀前田藩を挟むような形で押さえ込む配置であったため、幕府にとって重要な位置づけとされていました。
しかし、泰平の世が続き、前田家と将軍家も縁戚を重ねるなどしたため、次第にその役割は小さなものとなっていきました。
さらに、元来気候の厳しい北国であること、松平忠輝の改易、その後の越後騒動など相次ぐ事件の舞台であったことなどによって、高田藩は負のイメージを背負うこととなりました。
それゆえ、江戸中期以降はしばしば親藩、譜代大名で不始末を犯した大名の懲罰的な転封先、いわば「座敷牢」のような位置づけとなってしまいました。
高田城三重櫓
住所: 新潟県上越市本城町6-1
電話番号: 025-526-5915
開館時間: 9:00~17:00
休館日: 月曜(休日の場合は翌日),休日の翌日,12/29~1/3