もう押し迫って、明日の新聞の一部が、来た。ちょうど外に出るというときに、ほどほどに馴染みの新聞屋さんが、「はい、と言って、だったかどうか」、そうではないが、感じでとしてそうゆう感じで、第二部からの明日の新聞を渡してくれて、また、挨拶というものもちゃんと一言あって、こうゆうところは自分ではなかなか出来ないと思う。慌てて、口ごもる感じで、こちらこそとかいった風に思うが、悪い感じは残っていない。
ラジオがあって、新聞があるが、新聞配達をされる方がいる、というところが大いに違って、またラジオは消えてゆく。新聞は、一日は残るようで、そのあとは行方不明、これっというものが、そうゆう場合も多いようだ。まったく電波の変わりに、新聞配達をされる方がおられるというのはありがたいものだ。
毎日は大体がラジオで、子守唄というパターン。それでまだ日付が変わらないときに、目が開く、開くようなリズムがあって、聴いたこともないような音が聞こえる時もあって、つまりはラジオも、眠るときは子守唄だが、それが時間がたつと、はっきりした言葉となって、よみがえってくる。いやなときもあるが、これもしょうがない。いつも聴きよい音が、リズムが、音色が波長があるとは限らない。先にラジオを消して、それから、また眠る。
ラジオの今頃のよさというのは、生放送であって、ということ。アナウンサさんも、この暮れのときに、あるいは年末年始関係なく、働かないといけない、という立場にある人は、これもなかなか経験が出来ないようで、そうゆう方が後々、こうゆうことがあって、など話されるときが来るだろう。あるいは書物にもなったりもする。
今は大体が、双方向ということになるが、放送局側に取捨選択の権利があるのは間違いないことで、これを聴いていて嫌だなと思うことは少ない。
妙な、例えば電子メールとかは、あるいはファックスとかはない。また、局のアナウンサも、適度に突っ込まれながらも、うまくさらっと流すことが上手で、なるほどこうゆう手があるか、感心する。同じ感じで、年末年始が稼ぎどきという方からのお便りもあるが、最近はというと、どっちかと言えば、きょうはお節料理作ってますとか、来年はダイエット、などというものが多かったような気がする。自分もそうゆうことを、たぶん送るとしたら、そうゆう内容になるだろう、というもの。
それにしても、12月の31日である。少しはゆっくりしたいと思うのが、人情と思うが、そうでもないらしい。こうゆうことは当然のことという最初からの決まりはあるが、それにしてもお正月くらいは、皆と一緒に遊びたいとか、うちに帰りたいとかいう考えはないのだろうか。この辺りもちょっと聴いてみたい気もする。それを話されてもいいような気もするし、しかしもうそろそろというとき、ことしは、年末が31日で、いつものとおりの放送があります、とか宣伝したりする。
なるほど、それはいかん、これはお正月だろうが、年末だろうが、ラジオを聴かないといけない、という感じが一時(いっとき)辺りに漂う。なるほどね、それに今年は、31日が水曜だと、来年の一日は木曜で、次に金曜もある。あれあれ、これだとラジオ関係の皆さんは、ことし、いや間違った、来年のお正月はというと先延ばしになるということ。なんだかやっぱり、このお正月は地元のラジオ局の番組というか、お喋りを聴かないといけないような気にもなってくる。
ラジオはなかなかいいもので、ものすごくいいときもある。本音などがチラリと出るときの、そのときの電波には感動が含まれている。こちら、聴いている側も大いにうなづき、また満足して、同感もする。
ことしの生放送、ラジオのものは、まだあるかどうか、たぶんあるだろうが、これを聴いている人も同じ思いだろう。
そして、明日もあさっても、いつもどおりの番組があるというのが、これがもっともラジオのいいところである。いつもと変わらないこと。このことが、毎年年の瀬になるといつも思うことである。
小雪の中の、小さな景色。これも軽いファイルです。
コンクリート塀の上には時間がたつと、大体、苔がある。コンクリートで生きられる生き物の代表かも。雪が溶けて、まるい水玉になって。
ちょっと、奥まったところも見てみる。小さい世界に色と形の妙がある。
枯れアジサイ。薄く白いのは雪が降っていて、ちょうど画面に入ったのだろう。
朝の瓦というと、少しだけ金色に輝いていた。
一年見ていただきまして、ありがとうございました。
ラジオがあって、新聞があるが、新聞配達をされる方がいる、というところが大いに違って、またラジオは消えてゆく。新聞は、一日は残るようで、そのあとは行方不明、これっというものが、そうゆう場合も多いようだ。まったく電波の変わりに、新聞配達をされる方がおられるというのはありがたいものだ。
毎日は大体がラジオで、子守唄というパターン。それでまだ日付が変わらないときに、目が開く、開くようなリズムがあって、聴いたこともないような音が聞こえる時もあって、つまりはラジオも、眠るときは子守唄だが、それが時間がたつと、はっきりした言葉となって、よみがえってくる。いやなときもあるが、これもしょうがない。いつも聴きよい音が、リズムが、音色が波長があるとは限らない。先にラジオを消して、それから、また眠る。
ラジオの今頃のよさというのは、生放送であって、ということ。アナウンサさんも、この暮れのときに、あるいは年末年始関係なく、働かないといけない、という立場にある人は、これもなかなか経験が出来ないようで、そうゆう方が後々、こうゆうことがあって、など話されるときが来るだろう。あるいは書物にもなったりもする。
今は大体が、双方向ということになるが、放送局側に取捨選択の権利があるのは間違いないことで、これを聴いていて嫌だなと思うことは少ない。
妙な、例えば電子メールとかは、あるいはファックスとかはない。また、局のアナウンサも、適度に突っ込まれながらも、うまくさらっと流すことが上手で、なるほどこうゆう手があるか、感心する。同じ感じで、年末年始が稼ぎどきという方からのお便りもあるが、最近はというと、どっちかと言えば、きょうはお節料理作ってますとか、来年はダイエット、などというものが多かったような気がする。自分もそうゆうことを、たぶん送るとしたら、そうゆう内容になるだろう、というもの。
それにしても、12月の31日である。少しはゆっくりしたいと思うのが、人情と思うが、そうでもないらしい。こうゆうことは当然のことという最初からの決まりはあるが、それにしてもお正月くらいは、皆と一緒に遊びたいとか、うちに帰りたいとかいう考えはないのだろうか。この辺りもちょっと聴いてみたい気もする。それを話されてもいいような気もするし、しかしもうそろそろというとき、ことしは、年末が31日で、いつものとおりの放送があります、とか宣伝したりする。
なるほど、それはいかん、これはお正月だろうが、年末だろうが、ラジオを聴かないといけない、という感じが一時(いっとき)辺りに漂う。なるほどね、それに今年は、31日が水曜だと、来年の一日は木曜で、次に金曜もある。あれあれ、これだとラジオ関係の皆さんは、ことし、いや間違った、来年のお正月はというと先延ばしになるということ。なんだかやっぱり、このお正月は地元のラジオ局の番組というか、お喋りを聴かないといけないような気にもなってくる。
ラジオはなかなかいいもので、ものすごくいいときもある。本音などがチラリと出るときの、そのときの電波には感動が含まれている。こちら、聴いている側も大いにうなづき、また満足して、同感もする。
ことしの生放送、ラジオのものは、まだあるかどうか、たぶんあるだろうが、これを聴いている人も同じ思いだろう。
そして、明日もあさっても、いつもどおりの番組があるというのが、これがもっともラジオのいいところである。いつもと変わらないこと。このことが、毎年年の瀬になるといつも思うことである。
小雪の中の、小さな景色。これも軽いファイルです。
コンクリート塀の上には時間がたつと、大体、苔がある。コンクリートで生きられる生き物の代表かも。雪が溶けて、まるい水玉になって。
ちょっと、奥まったところも見てみる。小さい世界に色と形の妙がある。
枯れアジサイ。薄く白いのは雪が降っていて、ちょうど画面に入ったのだろう。
朝の瓦というと、少しだけ金色に輝いていた。
一年見ていただきまして、ありがとうございました。