あちこちに、邪魔だなと思えるものが増えて、結局のところ、身の安全というかその限度というものもある。箱の中の大きさは変わらないので、それまでは身の軽さで何とか凌いでいたものが、邪魔になったり、事故のもとにもなったりする。そうゆうことはわかっているが、溜め込んでしまって外に出せない。ゴミだとわかっていながら、面倒になって、ついにゴミのほうが優位に立つ。これはいけない。本末転倒。
そう思ったかどうか、知らないが、たしかに身のこなしというものはいかにもそのバランスは悪く、ツッカケを履くのにその位置を間違える。だから、そこは昔なら土間だろうが、今はタイル?だが、変わりはない。うまく着地できなくて、おっとっととなってしまうので、笑えないのである。ツッカケとか、サンダルとの相性もある。
「ドッカーーン」という感じでものを倒すことは何度もあった。ちょっと高めのミカン箱の上に、PCの箱(ケース)を置いて、それで何かの拍子に、そのミカンの段ボール箱からPCの組み合わせ中のものが落っこちたときがあるが、その痕はちゃんとフローリング、板のそれに残っている。板は無数の傷が付いている。その形から、大きさから、無数ということはいえなく、有界であることは自明だが、無数のと形容したくなる、傷である。色々そうゆうものはある。カメさんに、双眼鏡に、それになにがあるか。書いてもいいが、格好が悪くて書けないものも多く、その傷を見ると自分でやったものだが胸がつまる。さらに私は昔から「あわてんぼう」というか、オッチョコチョイの代名詞のように言われて、滑って転んでということが多い。これさえなければ、もう少しまともになったようだが、これは直らない。
最近は、雑誌を書店で購入するということもやっているが、この雑誌というのは結構に重い。軽い紙を使ったものも多いが、写真が多いとどうしてもアート紙のようなもので出来ていて、値段よりも雑誌のほうの重さが、堪えるものがある。その点は、PR誌は、まずは大きさも手ごろで、軽い。しかしこれも、1年がたち、10年がたつとなると、まだ大丈夫そうで、収集家の皆さんも最後はそれをどうするかで悩みに悩んで処分するようだ。やっぱりなー、最後というものが何ものにもあるようで、
しかし今の私の問題は、自分の身の安全という観点からのもので、新しく買ったのだから、それ故その辺りに積んである雑誌を外に持ち出すしかない。今頃気が付いたというか、これも、小掃除をしているから、その延長線上にこの「ものを捨てる」、というかものを外にとりあえずは出す、ということが出来るようになったようだ。
実際、軽いっ雑誌はというと、結構軽い。10冊は大丈夫だ。10年前だとこの雑誌の厚さも、今の5倍はあった。それで、重いものも出す。これが真ん中を大きめの金属の爪で留めてあるような、そうゆう創りの雑誌でも10冊集まるとやたら重い。それで、階段を上り下りするのは、きつい。いかに、軟弱な生活をしているか、わかろうというものだが、事実だから重いのである。3往復して、どうにか、危険性もあると思う、邪魔になるところの雑誌、特に新しいもの、写真関係のものを外に出した。これで、お腹はへこまない。返って空腹を覚えたりもする。
この種の運搬のコツは、急がず、少量主義で、休まずというのが鉄則のようだが、最後の休まずがだめ。この次はいつか、小掃除で、習慣が出来て、さてどうなるか。でも、新しい雑誌だけにもったいない気もするが、だが、もう見ることはやはりないのである。
今日のお天気は、これまたパッとしないものだった。海までは行った。このときは、たまたま好天といってよかったが、その後は日も沈むのが早いから、いいお天気といってもすぐに暗くなってしまう。これは寂しいもので、侘しくもある。
似たり寄ったりのものしか出ない。でも、普段登場することがないものが、注目されるのもこの季節。
春を待つだけの、ドウダンツツジ。
いくらかの枝は雪の重みに耐え切れず、折れてしまうだろう。このものは意外と、隙間がある。
アオキだろうか。一本、昔はなかった、どこかからかタネが飛んで来て、この地点で芽を出して、この大きさになった。
そう思ったかどうか、知らないが、たしかに身のこなしというものはいかにもそのバランスは悪く、ツッカケを履くのにその位置を間違える。だから、そこは昔なら土間だろうが、今はタイル?だが、変わりはない。うまく着地できなくて、おっとっととなってしまうので、笑えないのである。ツッカケとか、サンダルとの相性もある。
「ドッカーーン」という感じでものを倒すことは何度もあった。ちょっと高めのミカン箱の上に、PCの箱(ケース)を置いて、それで何かの拍子に、そのミカンの段ボール箱からPCの組み合わせ中のものが落っこちたときがあるが、その痕はちゃんとフローリング、板のそれに残っている。板は無数の傷が付いている。その形から、大きさから、無数ということはいえなく、有界であることは自明だが、無数のと形容したくなる、傷である。色々そうゆうものはある。カメさんに、双眼鏡に、それになにがあるか。書いてもいいが、格好が悪くて書けないものも多く、その傷を見ると自分でやったものだが胸がつまる。さらに私は昔から「あわてんぼう」というか、オッチョコチョイの代名詞のように言われて、滑って転んでということが多い。これさえなければ、もう少しまともになったようだが、これは直らない。
最近は、雑誌を書店で購入するということもやっているが、この雑誌というのは結構に重い。軽い紙を使ったものも多いが、写真が多いとどうしてもアート紙のようなもので出来ていて、値段よりも雑誌のほうの重さが、堪えるものがある。その点は、PR誌は、まずは大きさも手ごろで、軽い。しかしこれも、1年がたち、10年がたつとなると、まだ大丈夫そうで、収集家の皆さんも最後はそれをどうするかで悩みに悩んで処分するようだ。やっぱりなー、最後というものが何ものにもあるようで、
しかし今の私の問題は、自分の身の安全という観点からのもので、新しく買ったのだから、それ故その辺りに積んである雑誌を外に持ち出すしかない。今頃気が付いたというか、これも、小掃除をしているから、その延長線上にこの「ものを捨てる」、というかものを外にとりあえずは出す、ということが出来るようになったようだ。
実際、軽いっ雑誌はというと、結構軽い。10冊は大丈夫だ。10年前だとこの雑誌の厚さも、今の5倍はあった。それで、重いものも出す。これが真ん中を大きめの金属の爪で留めてあるような、そうゆう創りの雑誌でも10冊集まるとやたら重い。それで、階段を上り下りするのは、きつい。いかに、軟弱な生活をしているか、わかろうというものだが、事実だから重いのである。3往復して、どうにか、危険性もあると思う、邪魔になるところの雑誌、特に新しいもの、写真関係のものを外に出した。これで、お腹はへこまない。返って空腹を覚えたりもする。
この種の運搬のコツは、急がず、少量主義で、休まずというのが鉄則のようだが、最後の休まずがだめ。この次はいつか、小掃除で、習慣が出来て、さてどうなるか。でも、新しい雑誌だけにもったいない気もするが、だが、もう見ることはやはりないのである。
今日のお天気は、これまたパッとしないものだった。海までは行った。このときは、たまたま好天といってよかったが、その後は日も沈むのが早いから、いいお天気といってもすぐに暗くなってしまう。これは寂しいもので、侘しくもある。
似たり寄ったりのものしか出ない。でも、普段登場することがないものが、注目されるのもこの季節。
春を待つだけの、ドウダンツツジ。
いくらかの枝は雪の重みに耐え切れず、折れてしまうだろう。このものは意外と、隙間がある。
アオキだろうか。一本、昔はなかった、どこかからかタネが飛んで来て、この地点で芽を出して、この大きさになった。