今の気温はというと、目の前の温度計は、18℃に近い。これは暖かい。それしかない。それで、アメダスのものだと、4時の気温は16.7℃で、5時だと15.2℃。まったくいつの気温かと思うが、これが冬至の日のある時間の気温なのである。午後3時までの最高気温は19.0℃。これだと、ごろり横になりたくもなる気温で、大体そのような一日で終わった。まだ終わっていないが、まだ冬至点に太陽は達していないが、ダラリンで終わる日曜。欠伸が出る。あーこれくらいの雨で終わるなら、もう少し歩くのだったと思うがときすでに遅し。
でもダラダラで過ごす時間も必要という考え方もある。いつもギラギラしていてはいけないようで、たまにダラッとなる。景気みたいなものかも知れない。そうゆうことにして、おしまいというのもよさそうだが、
午前はあまり気が進まない、年賀状書きをやる。一応、自分のメモみたいなものを書いて、これで字を書く練習は終わった、と思う。また多少最近は自分の名やら、親の名やらも書くことが増えて、それで名前がごっちゃになるということはない。でも、いくつかの名前を持っていると楽しそうだが、はたしてそれでうまく世の中を渡っていけるか、それだけの能力、使い分ける認識力はない。自分でも自分の名を間違えることもある、
この場合は、漢字で書くときで、いつもはいい加減書いているから間違わない。ときどきに自分を名やら、住所やらというのを書く。あるいは書いたものを探す。そうゆう自分であって、それで、他に書いたものを見ながら、あるいはやって来る郵便物を見ながら自分を確かめるようなことをやる。
それくらいやらないと、間違えるし、忘れる。
日々のメモというのも、これも記憶に残るものと、それから、こうゆうことがあった、というのを一々他のものを見ながらたしかめるときもある。こんなものはもう見ることもないが、でも、一応きょうはどこどこから請求書が来た。それから、きのうの土曜日は姉が来てくれて、それで、母に一年日記というものを購入してくれたようで、それを説明して母も納得したような振りをしたが、実際はどうか、ここには大きくは書けないが、どうだかな。などとも書く。色々書いて、それで、字を書く練習が出来たというとこれは間違いであることがすぐにわかる。
日記というものを書いていらっしゃる人も多いだろうが、私の場合多くは同じことを書いている、何時に起きた。それから、何を食べて、何時にトイレにいって、それから、というものが続くから、普段お目にかからないものは多くなる。書かない言葉が多い。そんなにむつかしい漢字も書かない。辞書を写したり、また手紙の練習というものもやらないし、日本の都道府県の名前、それから全国にある市町村の名など、知るべくもなく、また決まり文句の「年末年始の挨拶」の雛形もこれがいいというのはない。わからない。その他、小説を写したりということもやらないから、年賀状を書くのは大変であって、やっぱり間違えた。いつもは間違わない、難しいという字に近いそのものを、それからここでは、漢字でなくて「平がな」を使うが、これを間違えた。なんでかな。
半ば呆然とする、時間が多い。そうゆう年齢でもあるし、これでもまだいいほうだろう、自分を慰める。かなりな時間、午前はいつも見ているTVを見て、復習をし、午後は雨はまだか、ここは雨が雪になる、というのとは大違いだ、それを考えながらぼんやりとしていた。いい加減ぼんやりするのも疲れるものだ、大いに反省する。
少しの間だけ、ディスクの画像の中から、どれがいいか、いつのもので、なにが今にぴったりか考えるが、なかなか決まらない。それで、ふとときに見上げる空の雲が、実にたくさんあるからこれでいくことにした。
単純な空に、単純な雲。これがいい、となかなか思えない。
日にちと時間が変わって、これはなかなかいい感じの空。
濃い青い空が出ている。同じような時間のものだが、これもまたいい。
南西の空に、沈もうとする日に当たる、白い雲が色付くころは少し、メランコリにもなったりする。
もう一枚というのが、なかなか出てこなくて、今朝の日の出のころの、薄っすらとある雲のものをどうにか見付けた。
雲も、何種類か揃えるとなると、真ん中の3枚は同じ日だが、結構にしんどい作業になる。
でもダラダラで過ごす時間も必要という考え方もある。いつもギラギラしていてはいけないようで、たまにダラッとなる。景気みたいなものかも知れない。そうゆうことにして、おしまいというのもよさそうだが、
午前はあまり気が進まない、年賀状書きをやる。一応、自分のメモみたいなものを書いて、これで字を書く練習は終わった、と思う。また多少最近は自分の名やら、親の名やらも書くことが増えて、それで名前がごっちゃになるということはない。でも、いくつかの名前を持っていると楽しそうだが、はたしてそれでうまく世の中を渡っていけるか、それだけの能力、使い分ける認識力はない。自分でも自分の名を間違えることもある、
この場合は、漢字で書くときで、いつもはいい加減書いているから間違わない。ときどきに自分を名やら、住所やらというのを書く。あるいは書いたものを探す。そうゆう自分であって、それで、他に書いたものを見ながら、あるいはやって来る郵便物を見ながら自分を確かめるようなことをやる。
それくらいやらないと、間違えるし、忘れる。
日々のメモというのも、これも記憶に残るものと、それから、こうゆうことがあった、というのを一々他のものを見ながらたしかめるときもある。こんなものはもう見ることもないが、でも、一応きょうはどこどこから請求書が来た。それから、きのうの土曜日は姉が来てくれて、それで、母に一年日記というものを購入してくれたようで、それを説明して母も納得したような振りをしたが、実際はどうか、ここには大きくは書けないが、どうだかな。などとも書く。色々書いて、それで、字を書く練習が出来たというとこれは間違いであることがすぐにわかる。
日記というものを書いていらっしゃる人も多いだろうが、私の場合多くは同じことを書いている、何時に起きた。それから、何を食べて、何時にトイレにいって、それから、というものが続くから、普段お目にかからないものは多くなる。書かない言葉が多い。そんなにむつかしい漢字も書かない。辞書を写したり、また手紙の練習というものもやらないし、日本の都道府県の名前、それから全国にある市町村の名など、知るべくもなく、また決まり文句の「年末年始の挨拶」の雛形もこれがいいというのはない。わからない。その他、小説を写したりということもやらないから、年賀状を書くのは大変であって、やっぱり間違えた。いつもは間違わない、難しいという字に近いそのものを、それからここでは、漢字でなくて「平がな」を使うが、これを間違えた。なんでかな。
半ば呆然とする、時間が多い。そうゆう年齢でもあるし、これでもまだいいほうだろう、自分を慰める。かなりな時間、午前はいつも見ているTVを見て、復習をし、午後は雨はまだか、ここは雨が雪になる、というのとは大違いだ、それを考えながらぼんやりとしていた。いい加減ぼんやりするのも疲れるものだ、大いに反省する。
少しの間だけ、ディスクの画像の中から、どれがいいか、いつのもので、なにが今にぴったりか考えるが、なかなか決まらない。それで、ふとときに見上げる空の雲が、実にたくさんあるからこれでいくことにした。
単純な空に、単純な雲。これがいい、となかなか思えない。
日にちと時間が変わって、これはなかなかいい感じの空。
濃い青い空が出ている。同じような時間のものだが、これもまたいい。
南西の空に、沈もうとする日に当たる、白い雲が色付くころは少し、メランコリにもなったりする。
もう一枚というのが、なかなか出てこなくて、今朝の日の出のころの、薄っすらとある雲のものをどうにか見付けた。
雲も、何種類か揃えるとなると、真ん中の3枚は同じ日だが、結構にしんどい作業になる。