雪道というと奥山、深山、山越えてという感じだが、山越えも、山の奥も関係ない、一応はアスファルト舗装されている道のことで、この上に雪は降り積もる。一部はいつものとおり、ビチョビチョで、まことに歩きにくい。これも、初めての雪道という感じだと、コロッと滑って照れ笑いですむが、どっこいそんなことは考えられない。どこに陥穽はあるか、これは知る人ぞ知るに近いものであって、いつも歩いていないと、その危険な箇所には気が付かない、最初からそうゆう話は望ましくはない。
靴というと運動靴だが、これだけ雪が降ると仕方なく長靴で、しかも防寒仕様だから重い。重いのに加えて、足首以上の動きが固定される感じがある。長靴にもその人に適した大きさがあって、これの加減はむつかしい。ちょっと短いッじゃないの、それだとすぐに水が跳ね返ってくる。中まで水浸し。っというのもあれば、くるぶしより上が長すぎると、これまた動きづらい。さらに、靴下の厚さがあって、どの程度の大きさ、長さがいいかわからないもので、これこそ販売店で、何足も履いてはたしかめをやりたい。
これは山歩きの、靴選びに似ている。登山靴もまた選ぶのには難儀するが、これは過去の問題で、省略。
長靴選びにどうのこうのは出来ない時代で、今は足を靴に合わせる。靴下を色々持ってくる。ちょうどいいとなると、こんどは脱ぐのに大変であって、これを考えると登山靴より長靴選びは大変で、実際そのとおりである。苦労して履いている。
足首辺りより上のあたりの可動性が、あるいは柔らかさと弾性がない靴の歩きにくいこと。それに雪があって、ズルズルといきそうだが、ここは歩幅を短くするしかない。これもなんだか山登りの歩き方の基本みたいだが、それよりもからだが脆弱になったというのが本当のところ。空気はまだ冷たい。
しばらく歩くと、少し胸が締め付けられるような感じもあるが、それも次第なくなってゆく。こんなことを書いていると重大な病気の前兆であるとか言われそうだが、人の命というものはわからないもので、あまり気にしない。気にするだけそんな場合もあるから、これも忘れて重い、それから動きの悪い靴を、凍った路面に置くようにしながら歩く。結構疲れるし、昔むかし登山靴を履いていたころの感触が思い出されるかというと、これは違った。登山靴は低山なら、それこそ、くるぶしまでは固定されるがそれ以上は問題はない。
久しぶりに昔歩いていた、周回路を、半時計回りに歩いた。これが定番の歩く道。どうでもいいようで、その理由はあった。今年はキカラスウリは、予想どおりない。それから、いつもだともう少し賑やかな、鉢の花々も少ない。赤いというと、今ごろようやくナンテン(南天)が目立つ。このナンテンも当たり年とそうでないときがありそうだ。好きなものだから少し残念である。途中、酒屋さんによる。このためというよりは、途中で思い出したのである。靴を引きずって、酒屋さん。
それから、少し慣れたような気もするが、やはり慣れない靴で歩くのは疲れる。子供さんが遊んでいる。一生懸命に雪かき。一所懸命より、一生懸命のほうがいいかな。そこをしばらくすると、
これこそしばらくぶりに、いつも見かけていたワンちゃに会う。ひとり目は、なんだかうつろで、それもそのはずで外は晴れだが、暖かくはない。周りに、雪の溶けている水も流れているというか、それが少しずつ広がるようで、そのワンちゃんは、恨めしそうである。本来なら、いつもの暖かな箱の中で、ゴロリンしている。だが現実は、そろそろ自分のそばに雪解けの水が。
もうひとりのワンちゃんは珍しく、これもきょうは快晴になったから、飼い主の方が、道に面しているところに、そのワンちゃんを移動させていた。日光浴の意味もあるのだろう。その道を歩くとすぐに対面する。こちらによって来そうで、しかし同じように、濡れたところがあると躊躇するようで、そこで止まっていた。もっとも、それは私が勝手に思いこんだものだ。
こうして帰って来たが、なんだかからだが鉛のように重い。
それで、これで、ただ歩くだけのことなら何とかなりそうな靴だが、雪を出すとなると、これは少し大変で、屈伸がもう少し楽に出来るものが欲しい。雪だと、靴の片側だけが減るという状態、O脚の宿命でもあるが、これもあまり関係がない。そうゆうことになって、それこそ穴が開くまではそれでやらざるを得ない。
変わらず、雪の様子。
もう少し後によって、雪の乗っかっている木々の全体の様子。
といっても、これは木というのも眺める位置によってぽかんと穴が空いている、ということを狙っていた。
先に、変則して、太陽光と雪のくっ付いている木々のシルエット。
なんだかこうゆう時間帯のものが一番よかった。
カエデの大木。10mくらいはあるのではないか。これだけ大きくなるのに、その時間というものを考えるが、やはり有界の時間である。
枝の雪。この雪が多くなる。粘着性のある雪だともっと付くから、その重みで枝は折れる。折れて折れて、この木がある。
靴というと運動靴だが、これだけ雪が降ると仕方なく長靴で、しかも防寒仕様だから重い。重いのに加えて、足首以上の動きが固定される感じがある。長靴にもその人に適した大きさがあって、これの加減はむつかしい。ちょっと短いッじゃないの、それだとすぐに水が跳ね返ってくる。中まで水浸し。っというのもあれば、くるぶしより上が長すぎると、これまた動きづらい。さらに、靴下の厚さがあって、どの程度の大きさ、長さがいいかわからないもので、これこそ販売店で、何足も履いてはたしかめをやりたい。
これは山歩きの、靴選びに似ている。登山靴もまた選ぶのには難儀するが、これは過去の問題で、省略。
長靴選びにどうのこうのは出来ない時代で、今は足を靴に合わせる。靴下を色々持ってくる。ちょうどいいとなると、こんどは脱ぐのに大変であって、これを考えると登山靴より長靴選びは大変で、実際そのとおりである。苦労して履いている。
足首辺りより上のあたりの可動性が、あるいは柔らかさと弾性がない靴の歩きにくいこと。それに雪があって、ズルズルといきそうだが、ここは歩幅を短くするしかない。これもなんだか山登りの歩き方の基本みたいだが、それよりもからだが脆弱になったというのが本当のところ。空気はまだ冷たい。
しばらく歩くと、少し胸が締め付けられるような感じもあるが、それも次第なくなってゆく。こんなことを書いていると重大な病気の前兆であるとか言われそうだが、人の命というものはわからないもので、あまり気にしない。気にするだけそんな場合もあるから、これも忘れて重い、それから動きの悪い靴を、凍った路面に置くようにしながら歩く。結構疲れるし、昔むかし登山靴を履いていたころの感触が思い出されるかというと、これは違った。登山靴は低山なら、それこそ、くるぶしまでは固定されるがそれ以上は問題はない。
久しぶりに昔歩いていた、周回路を、半時計回りに歩いた。これが定番の歩く道。どうでもいいようで、その理由はあった。今年はキカラスウリは、予想どおりない。それから、いつもだともう少し賑やかな、鉢の花々も少ない。赤いというと、今ごろようやくナンテン(南天)が目立つ。このナンテンも当たり年とそうでないときがありそうだ。好きなものだから少し残念である。途中、酒屋さんによる。このためというよりは、途中で思い出したのである。靴を引きずって、酒屋さん。
それから、少し慣れたような気もするが、やはり慣れない靴で歩くのは疲れる。子供さんが遊んでいる。一生懸命に雪かき。一所懸命より、一生懸命のほうがいいかな。そこをしばらくすると、
これこそしばらくぶりに、いつも見かけていたワンちゃに会う。ひとり目は、なんだかうつろで、それもそのはずで外は晴れだが、暖かくはない。周りに、雪の溶けている水も流れているというか、それが少しずつ広がるようで、そのワンちゃんは、恨めしそうである。本来なら、いつもの暖かな箱の中で、ゴロリンしている。だが現実は、そろそろ自分のそばに雪解けの水が。
もうひとりのワンちゃんは珍しく、これもきょうは快晴になったから、飼い主の方が、道に面しているところに、そのワンちゃんを移動させていた。日光浴の意味もあるのだろう。その道を歩くとすぐに対面する。こちらによって来そうで、しかし同じように、濡れたところがあると躊躇するようで、そこで止まっていた。もっとも、それは私が勝手に思いこんだものだ。
こうして帰って来たが、なんだかからだが鉛のように重い。
それで、これで、ただ歩くだけのことなら何とかなりそうな靴だが、雪を出すとなると、これは少し大変で、屈伸がもう少し楽に出来るものが欲しい。雪だと、靴の片側だけが減るという状態、O脚の宿命でもあるが、これもあまり関係がない。そうゆうことになって、それこそ穴が開くまではそれでやらざるを得ない。
変わらず、雪の様子。
もう少し後によって、雪の乗っかっている木々の全体の様子。
といっても、これは木というのも眺める位置によってぽかんと穴が空いている、ということを狙っていた。
先に、変則して、太陽光と雪のくっ付いている木々のシルエット。
なんだかこうゆう時間帯のものが一番よかった。
カエデの大木。10mくらいはあるのではないか。これだけ大きくなるのに、その時間というものを考えるが、やはり有界の時間である。
枝の雪。この雪が多くなる。粘着性のある雪だともっと付くから、その重みで枝は折れる。折れて折れて、この木がある。