光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

あっちは明るく、こっちは暗い

2008-09-24 06:42:09 | 散策
  朝のお天気、曇りから晴れ。明るい青空、黒い雲、灰色のもの。この三つくらいが見える。風は弱い。涼しいようだ。これ以上だと、寒い。アメダスの6時の気温、17.2℃、気圧は1017.2hPa。室温20.5℃、この値もまだ下がっている。そうゆうこともある。

  きのうの夜、二段階で雨。一度雨になって、また夜も遅くに静かな雨になった。その後は曇り。

  あっさり起きたが、目覚ましのスイッチを切るのを忘れたことに気が付いた。これはよかった。外は暗い。かなり暗く、しかし歩くのには十分。ということは、月も見えていたことになるが、見なかった。忘れた。太陽の出るほうばかり見ていた。じっとしていると、涼しい。さっさといえの中に戻る。
  お天気がどうなるか。これが少し心配。晴れのようである。全国の今の中継というのを、TVで見ると、東は明るい。そして西はというと、まったくの暗さがあって、日本列島の大きさを実感できる。光の早さだと、どれくらい違うのだろうか。お月さんにいってかえって来るまで、約二秒。日本の東から西まではそんなにかからないことになる。でも、地球の丸さのレベルだと、東は日がもう当たっていて、そのすこし隣の西ではまだまだ暗い。地球の丸さがこれでわかった。

  TVのカメラは明るいな、というのも印象的である。それだけ高性能なものということもわかるが、今使っているTVは液晶タイプだが、ムラも出て来て、そもそも一つの画素のピッチがばかにでかい。これ、最初に見たときも、ブラウン管タイプのものより、それも14インチの、ずいぶんと見た感じが悪いと思った。しかし薄型だし、液晶だし、何しろ買ってしまったから見るしかない。
  最近のものは解像度が高い。TVの買い替えというのは10年が最小単位で、15年は標準くらい。この液晶のTV、まだ買って4年くらい。なんだか最初からパッとしなかったが、その後もパッとしないまま、新しいものと買い替え?。
  今はそれは考えていないけど。

来年の手帳

2008-09-23 19:01:36 | 散策
  雨が降りそうで、まだ降っていない。暑くなったようだが、一日の今までで、さほど暑さは感じない。これから雨、それが終わって予定だと、雨が晴れになって、明日の最高気温予想23℃と出ている。そう驚くことでもない?。こうゆう日にめぐり合える幸せが、感じられるかも知れない。

  手帳に細かいへたくそな文字を書き付けることが増えた。これをここまで書いて、5年日記の穴埋め、一週間分をやっていないことに気が付いた。たしか、そのくらいやっていない。手帳の種類は、かなりいい加減で、手帳であればよかった。しかし、これからだとそうはいかない感じもする。今年はビジネスタイプのものを使っている。大きさは文庫本より一回り小さい。カバが取れてもうないからはっきりしないが、A版とか、B版とかで表わせるものなのか、それもはっきりしない。
  これだと、欄外に書かなければいけないことが多く、もうじきさらに余白のような、白ページもなくなる。去年のスペースが空いていた。ここを使うことが出来る。いずれにしろ、来年はもう少し大きなものを買わないといけなく、それに特に抵抗はないが、だんだん大きくなると持つのも大変な気がしてきた。来年といっても、10月には新しい手帳が出るはずだから、なるべく早く、適当なものを購入しないといけない。

  手帳はもはや衣服のポケットには入らない気がする。気軽にポケットに手帳のの時間は終わった。よっぽと薄い手帳でないと夏など大変で、やはり鞄がいる。手帳にも色々あって、電子手帳というのもあった気がするが、これは今はどうなっているのか、わからない。電池の問題もあるし、使い方を覚えるのもいやだし、誤操作で、すべてのデータが消えるということもある。フロッピーの時代に、これをやったことがあるが、これは範疇が違った。
  そういえば鞄を買った。これが来たときは、カタログに書かれていないところで泣きそうになった。なったが、買ったものは使う。壊れなければいい。袋状になっていればいい。肩からぶら下げられればいい。5kgくらいの重さに鞄もベルトも耐えられればいい。それはどうにか大丈夫だったようで、しかし5kgのものをまだ入れたことはないはず。

  形がなかった。形状記憶のバッグではなく、これに、背骨をどうして入れるか、それより骨格になるものを何にするかで迷った。迷ったあげく、なにかの通販で買った、そのものが入っていた袋がちょうどよかった。でも、その袋だけでは、まだ屋台骨にならないので、それ以外に二重にしてボール紙を入れた。それで、その背骨を、ようやくもとに戻った、バッグに押し込んで、ここもかなり気になるところだったが、どうにかうまくいった。
  他に、肩掛けのベルトもかなり長く、しかし、この話しも同じようにして自分の気に入るようにした。これは、少し役にたっている。大いにかも知れない。この中に、細かいものが入ったら、どうしたら探し出すことが出来るか、ちょっと怖い。

  手帳も、自分の使いやすいようにしないといけない。これを忘れていると一ヶ月は早く、また3ヶ月も早く、真っ白なページが出て来る。もちろん日付や、それから曜日やおまじないのような表記もある。これ以外に、ある程度線を引いて、気温だの、それから歩いたのか否か、あとは薬を飲んだかどうか、そうゆうことも簡単に書く。その欄を作るため線を引く。
  この他にこれがあれば、というのは自分で作ってもいい。色々忘れることも多く、「だれそれさん」はこういったというようなことも書いておきたいし、こうなると、少し大きめのものがやはり必要で、また一日のあるいは一週間でもいいが、ある程度細かく書き込める余白のあるものが欲しくなる。これは簡単にいうと、見開きで、片方のページはこれまでどおりの印刷で、片方は薄目の方眼みたいなものが印刷してあれば一番いいような気がする。こうゆうものに近いものを探さないといけない。

  こうゆうノートというのもあるが、ここで終了するのがよさそうである。


  道端の植物、秋の香り。




  ケイトウ(鶏頭)の花の横にある、ケイトウのような花。これから変化があるのか。




  接近して。たぶん菊?の葉にセセリチョウが止まっている。このチョウもかわいらしいといってよく、しかし小型のチョウの習性か非常に動きは激しい。左側に、青い色をした虫がいる。気が付かない大きさ。




  ススキの花穂。幾何学的な美しさがある。
  香りは、そういえば香りはしなかったようだ。

日暮れどき

2008-09-23 16:15:40 | 散策
  アメダスによると28℃まで上がったという。

  そんな感じがしない一日。
  コスモスはまた少し元気を出して、ヒメアカタテハが 
  盛んに花に止まっているようだった。
  お寺の駐車場、そんなに車は混んでいない。
  そうゆう時間だった。


  少し濁りのあった、きのうの夕時。




  よく見ると、小高い丘の上に雲がある。
  青から黄色に変わる辺りが、いい感じ。




  太陽がちっちゃくなっちゃった。




  ここに金星と水星が輝いていたら、それを期待したくなる
  空で、いったいいつにそれが起こるのだろうか。

頭の上の白い月

2008-09-23 06:47:09 | 散策
  朝のお天気、朝焼け付きの、晴れ。快晴に近いが、透明度がよくない。風は今はなく、また外の感じもさほど冷たくない。アメダスの6時の気温、17.4℃、いよいよ何かが来るという値、気圧は1010.9hPa。室温20.5度。

  毛布をかけて眠って、さらに、その上に薄目の布団をかけた。寒くはないがこのくらいやっておいてちょうどいい。のどが少し変だがこれは鼻うがいをやるしかない。

  たぶん夜は晴れると思った。また、適度に起きるものだから、窓を開けて空を眺める。やっぱり少し靄があって、雲もあっていい空ではないが、星はわかる。日付が変わる。もう秋の星座も屋根に隠れて見えなくなるころ。それから一番印象的なのは、もう東の空ではなく、南東の空に移動する、オリオン座が見えたことで、おおいぬ座のシリウスと、こいぬ座のプロキオンのみ、かなり大きく膨らんだ点として、まだ東の空に見えていた。大きく膨らんだ点、こんなものはないが、これに変わるものだと、そういえばボタン雪があるかも知れない。

  時計を見ながら、もしかしたら朝焼けがあるかも、そう思う。雲があってこれがかなり赤くなった。あかね色に近い。この色もだんだんと強く出るようで、かなり長い間、10分以上見えていた。見ていたがの10分くらいで、実際はそれ以上の時間、かなり赤い空があったと思う。

  外に出てみると、もう明るく、東の空は、だんだんと色の成分は消えて、それでもしいて言えば金色に近くなる。その方向ばかり見て、他はあまり見なかったが、何かの拍子に、頭上を見た。頭の上、天頂辺り、そこに小さくなったような下弦を過ぎた月があった。やけに小さい。月も遠くなった、そんなことはないが、これなども、そのときの心境によって見える大きさも違う。
  もう青いという空に白い、お腹のへこんだ月がやけに印象的で、それにしても小さく、ひっそり空に浮んでいる。

物忘れ、あるいは記憶の星

2008-09-22 19:11:11 | 散策
  日が落ちて、その空を見ると、雨が降った後の透明感がなく、少し残念な気がする。透明に近い空の、日没後の空の色の変化というのが、昔見たものと同じかどうか、その辺りを確かめたかった。それでも、それに近いものがあって、今も見ていた。

  物忘れというのは誰にもあるが、どうもその物忘れも本格的になって来ているようで、躊躇する。文字を書くときに、それは一応は紙であって、持っているものはボールペンだが、ひらがなが多い。多くなる。ときどき、辞書を引く。ときどきでは意味がないような気がするが、引かないよりはましでやはりときどき引く。それでも、面倒になって、間違っていてもそのままでも「いいかも」と思ったりもする。
  ときどき、紙に何度も文字を書く。劇という文字が書けない。筆順もおかしいが、さてここはどう曲げるのだったかはっきりせず、何度も書く。劇一など書くときに、いつも劇の字がうまく出ない。それから膚、似ていて違う。皮膚という字もよくわからなくなる。辞書を引くのはまだいい方だが、辞書を引いて間違ったことを書くという場合も増えた。単純に一行隣のものを写して、おかしいと思わない。

  TVを見ている。決まったもので、毎日のゲストの方が変わる。毎日同じなら、レギュラだ。それくらいはわかる。それで、一週間たつ。最後にその総まとめみたいなものも放送される。しかし、一度見ているのであまり熱は入らないようだ。でもそれを見ると、記憶はある。こんな人が出ていたか、それに対する不思議はない。しかし一日たって、そのことを紙に書くときに、ほとんど忘れている、といってもいいときがある。TVはあまり見ないし、興味もほどほどということもあるが、記憶という観点からだと、かなりおかしい。昔もそれをやっていて時間がたてば最後は全部出た。今はそうゆうこともしない。

  物忘れというと、私はある血のつながりのある人の見舞いというか、その他もろもろのため、たまに病院に行く。それから、母も一緒に行く。こちらの方のほうが、毎日行きたいようなことをいう。また、ときに一週間に一回ではなかったのなど、聞かれるときがある。おかしいな、大体週に二回は行っている。今日はその日であるという朝に、不思議な顔をされる。反対に、明日は病院も休みだし、行かないと前日に告げていても、今日は行く日なのに、なにをぐずぐずしているの、などともいわれる。一番つらいのは、どうも、入院されている方の状態というのがはっきりわからなくなったようで、「何にも食べることが本当に出来ないのかねー」、などと今も感想を漏らすことで、そのとおりですよというしかない。が、ここまで来ると、ある程度はもうわかっているが、少しイライラもするし、この先の不安というのも、大きくなるだけで、解決の策は見つからない。

  認知症の介護というのは、これがなかなかむつかしい。母は父ために一生懸命それをやっていた。途方もないエネルギを費やしたのである。その間、私はあまりやることもやらなかった。これもよくなかったのか。認知症の介護で、認知症になりやすくなる、という話しを聞いたことがある。これも、昔ならそんなことはありえないと思っていたが、今はその可能性は十分にあるなと思う。思うようにいかないのというのが認知症の介護の本質であるようだ。だから、途方にくれることが多い。これだけやった、しかし効果みたいなのはない。どうして。
  これまではそうゆうことはなかった。ある日、突然に、あり得ないことが起こる。これに対する有効な策はない。さらに介護で、自身もおかしくなってゆく。

  記憶の星ということをふと書いたけれど、それはつまりはごくは当たり前の生活をしていたときのことであって、そのことがずっと頭の中には残っている。それは、かなり昔のことになってしまうが、それだけが頭に残っていて、今を把握出来ない。だから、電話をしていても、今日見てきたことは話しに出て来ない。で、少し昔のあるいは遠い昔のことを、まるできのうのことのように話している。
  入院していることはわかっているが、話しとしては、ただかわいそうでねー、などと私の姉と話しをしている。今日散髪を3ヶ月ぶりにしたから、少しさっぱりした顔になった、という話は出ないのである。
  こうゆう話もときどきで終わってしまって、ある時間たつと忘れているようで、私は安堵している。毎日がこうではない。ときにこうゆうときがある。


  花はコスモス。これ以外になかなかない。




  このコスモス、雨に打たれても大丈夫だった。背の丈は目の前くらい。やっぱり見上げる角度からというのがよさそう。




  この桃色のコスモスが多い。色にも色々だけど、青いコスモスは見かけない。真っ赤なコスモスもないようだ。




  特に、液晶を見てということもなくなると、茎がはっきりする。これもなかなかいいじゃないか。花をぼんやりさせるにはいい方法だ、そう思った。  

ヒガンバナ

2008-09-22 16:21:58 | 植物・花(秋)
  今日は午後の3時ころから、本格的に晴れ。
  日が出ると、いつもの暑さに戻る。
  今日このまま晴れると、明日は放射冷却で、
  それこそ赤くなったり、青くなったりしないといけない。

  ヒガンバナ、ことしは少し早く咲いたようだが、
  これは考えてみると例年のことのようだ。
  ただ花の持ちが悪く、赤い色もだんだん退色して、今はかなり
  白くなっている。
  去年だと、まだ秋分の日でも、きれいなヒガンバナがあった気がする。
  これも探せば、出て来るかも知れないが。




  少しぶっ飛んでいたので、コントラストも下げて、暗めに。




  雨は降りそうにない、曇りの日は一番落ち着いた色に見えると思う。




  背景が黒めになって、そこがはっきり見えないところがよかった。



 
  アジサイと一緒に。密集していて、これではちょっとゴチャゴチャし過ぎ。

あー、涼しい

2008-09-22 07:01:19 | 散策
  朝のお天気、曇り。特に大雨ということはなかった。今はかなり明るくなって、風も弱い。風があると明らかに寒い。アメダスの6時の気温19.8℃、気圧は1008.9hPa。室温22℃。

  大雨にはならなかった。しかしお隣の、測候所のある街では、時間当り22mmの雨も観測している(きのうはこんなに降っておらず、これは、誤りでした。訂正します)。まったくの局所的な雨で、それこそ、ここは大雨で、あちらは晴れ、その間の距離は、10mというくらいのことがありそうである。雨の神様が特大の如雨露(じょうろ)を使っている、あるところだけで、としか考えられない。これについても、そのうち専門家の方が、なぜこのような雨の降り方になるのか、解明されるのではないか。

  大した雨にもならず、特に歩いている時間、雨にならなかったので、ずいぶんと運がいいと思ったが、またそのときの気温を後から見てみると、20℃くらい、1℃の幅で、揺れているくらいで、この温度が少し長めの散歩にはちょうどいいこともわかる。それはいいが、この温度というのも微妙で、もう少し高くてもさほど暑くも感じないと思ったものだが、それこそ彼岸の時期にならないと適度な運動をやるにも大汗をかかないといけない、ということになる。ちょっと感覚のずれがある。これが春だと、恐らく、15℃くらいの気温でもう汗をかくような気もする。春の15℃は暖かく、秋の20℃が涼しい。この数値が、歳とともに変化する。いい方向にはいかない。
 
  ワンちゃんが眠るような気温、それがきのう歩いていて、またわかったことだった。少し静か過ぎた気もするが。一人目のワンちゃんは、もう老犬である。そうゆう計算になる。ずいぶんと長く見かける。昔は盛んに吠えられた。うるさいね、それだから今の静かさが気にもなる。寝転んでいる、少しふてくされたようなスタイルで、それから完全に眠っているようなときが多い。2番目、3番目と来て、
  ある日、一日に、同じようなところを二度往復したとき、道を変えて歩いてみた。このときは、帰りであってそれだから、犬と印字してあるマークも見えたし、それから白色の中型の犬を見かけた。犬は静かにしていて、しかしチラリとこちらを見た。これが、方向が逆だとたぶんわからないと思った。だから、気が付かなかった。
  ここに昔住んでいたワンちゃんはよく吠えた。でも時間というか吠えられたときはそんなに昔ではない。黒めの、茶色だったか、の犬で、よく吠える犬に久しぶりに会った、という感じもした。それが、静かで、おとなしめの犬に変わっていたということだが、この昔いたワンちゃんを見ていた時間がやけに短かったように思える。旅立ったとしか、考えられないが。

散歩道異変

2008-09-21 19:02:28 | 散策
  まずは今、雨予報を見て、大きな雨雲の接近はないことを確かめる。

  お昼ころ、まだ小雨も残っていて、それで気温はというと、低いというか建物の中だからあまりわからないが、窓を開けるとかなり涼しい。もう少し様子をみる。雨は振るか降らないか、まずは観天望気、それから、雨予報を見ると、それはどうも大きな雨雲の接近がまずはなく、小降りの雨もこの辺りを通る可能性が少ないことを示していて、大丈夫かも知れないと思わせた。急に心拍が上がったような気もするものである。まさかの大降りというのはないだろうな、その心配はあるにはあるが、散歩道といってもそれは昔で、今は未知の道といってもいいところを歩くことに。曇りである。
  散歩道を決めるというのもおかしなものだが、一つは距離、一つは安全性、一つは、景色のよさ、花やら、畑やら、それから住宅地、とお店やらがあればよく、だだっ広い田園地帯を歩く気にはならない。これらを考慮する。最後に残るのが、これしか道はないということ。まあるく歩くことが出来て、もとに戻れること。結局、さほど選択の余地はない。

  最初は省略したいが、その辺りもコスモスも花が開き始める。小さな田んぼ、休耕田、放置された田んぼ、いろいろある。今日の雨と北風で歩いていてなかなか気持ちのいいことがわかる。でも、この雨で
  きのうも行った、コスモス畑のコスモスが、かなり倒れている。密集していて、形が変わった。倒れるコスモス、その向こうに住宅が見えるようになる。それはいいが、コスモスも人の背より高いと、倒れやすい。徒長しているのか、栄養がよすぎるのか。田んぼに近づく。すでにイネが刈り取られたところ、その後は雨もあって、濃い茶色。匂いはない。ここには梅の木もあってそれにキカラスウリが、この2年間は巻き付いて、その実が、梅の実と同じように梅の木にぶら下がっていたが、今年はそれはないようである。

  かなり先を急ぐと、北に向かう道に出るが、そこを少し遠回りして、空き地の草などを見る。その先に、小さな実のなるピラカンサがあった。その木は、今はなくなった。これは、春も5月ころになくなった気がするが、そのとおりであまりいい感じはしない。変化はないようで、ある。人の住まなくなった住宅があれば、新しい住宅が建つ。
  畑というと、野菜を育てている感じが強いが、その半分は花というところもある。色々なものがこんがらがって生えていて、そこに向かう、最初のところにコスモスの花が咲き乱れている。まずはこれまた人の背よりも高い、そうゆうコスモスがあった。そうゆうものばかりで、先に見たのと同じように倒れていて、穴が出来ている。それが行く手を遮っている。この少し先に、フジバカマのいい匂いのするものがあって、しかしそのことは完全に忘れていた。

  もっとも驚いた、ことは、もう田んぼとはいえない、放置田でもないようなところに雑草がきれいに生えていて、雑草というのは実際実に整然と咲いているものである。この放置田であって、雑草畑でもあるところ、ここに少し接近する。何かありそうな気がしたから。でも、なにもないようで、一羽のモンキチョウが舞った。雨の降られた放置田にモンキチョウ。これはなんだか侘しくて、非常によかった。それから、もう少し目を凝らすと、2、3のモンキチョウが同じように黄色い小さな花に止まって、蜜を吸っているようで、近付くと一斉にふわっと浮き上がる。また元通りになる。もういいか、
  道に戻ろうとしたとき、少し離れたところ、同じ放置田にまたモンキチョウがいる。それで、よく見ると、何匹もの個体が黄色い小さな花に止まっている。この辺り、モンキチョウだらけ、これは言い過ぎだろうが、長方形をした田んぼの周辺で、これだけのモンキチョウがいると、全体ではかなりの数になる、そう思って天を仰いだ。モンキチョウのオアシスか、ふとそう思って、その先を急いだ。

  雨には結局降られなかった。これは雨予報が当たったということだろう。




  雨で、倒伏に近い感じのイネ。




  稲刈りは終わった。しばらくすると、また新芽が出て来て、秋の田植え状態になる。




  曇りで、暗めで、よれよれ状態は私だが、ブレ寸前。じっと構えられない。




  塀からにょっきり出てきた、これはバラの茎?。虫のようなものがいる。これもブレブレ。この反対側に、モンキチョウの棲みかがあった。 

アカタテハ

2008-09-21 16:09:15 | 虫、その他
  3時のアメダスの気温20.9℃。涼しいを通り越して
  寒いくらいだが、歩いているとちょうどよく、
  さらに汗をかいている。この温度だと距離を目標に歩きたくもなる。
  そう後から思った。

  チョウというと、どこにでもいそうなのが、小さいがシジミチョウで
  これにも色々な種類があるから、まずは探していて飽きることはない。
  同じもののようでも、オスとメスでは翅の色も違う。
  そのどこにでもいて、種類も多いシジミチョウはいるが、
  小さな花になかなか止まってくれない。
  運がいい、そうゆうときを待つしかないのかも知れない。

  アカタテハ。ニラの花も終わりそうな、その花にいた。




  ゆっくり翅を閉じたり開いたりして、これに合わせると、 
  翅の表側の様子はよくわかる。後翅が茶色く、アカタテハと思う。




  後翅の一番後ろに、浅い白みがかった青色か紫の斑点がある。



  
  翅の裏側が、うまく見えない。




  気が付かれたか、気が変わったのか、あっさりとここで
  逃げられてしまった。

豪快な降りっぷり

2008-09-21 06:44:32 | 散策
  朝のお天気、雨。かなり強いときもあって、それで目も開く。北風に乗って、雨雲、かなり低い。アメダスの6時の気温19.1℃、気圧は1010.3hPa。6時の降水量は13.0mm。結構降っているが、この辺りはもう少し少ない感じ。

  一転して、豪華な雨の降るお天気に変わってしまった。きのうも宵に近くなって雨が降りだした。通り雨のようで、その後は本格的なものに変わった。降っているところは雨予報の画面を見ている限り、局地的なもので、まーもう少し精密に表記すると、かなり狭いところのみで激しい雨が降っている、という感じ。
  雨予報の小さな雨のピークが、宵の雨にほぼ一致している。なるほど、これは正確だ、と思うが、その後はどうも違う。

  夜である。まだ日中の残暑みたいなものが残っている。雨雲があると、放射冷却も起きないもので、それでも習慣というものもあって、窓は閉めておいた、それでよかった。途中一回かは、かなり強い雨が降って、それで意識が戻ったが、また眠った。窓は閉めたから、安心、そう思っている。
  何事もなく、朝が来るが、暗い。暗いのにはもう慣れたようでそれでもまだ、こんなに暗いのかと思う。真昼になると、部屋の中のかなり奥まで光が入るから、位置の問題もあるが、まぶしくて、遮蔽する。この時期も9月からだったという記憶はない。
  もたついた。きのうの洗濯でハンガがいつもの位置にない。でも洗濯物は大体乾いて問題はなかった。ハンガにパジャマをぶら下げて、下に降りて新聞を取ったときに、目覚ましの音がなった。まったく、ボケボケである。
  その後外は雨だから、天気予報を見る。大きな雨雲が、接近してくるようだ。これはきのうの雨予報にはなかった。これが来ると、豪華一点主義の雨が降る。たしかに、もうイネの破砕物の匂いもしない。屋根に薄っすら積もった、白いものもなくなったようだ。予報よりはるかに大量の雨が降っている。でも、他のもっとひどい被害を受けている地域の方よりは、まだまだましな方だ。雨はほどほどの程度に降らないといけない。しかし実際は違う。楽観主義にも限界がある。