あっさりと日が沈むのが当たり前になって、灯りがないとキーボードも見えず、それで電球をつける。黄色い感じのする電球で、かなりの年数たっている。たっている方は灯りの本体の方で、電球は最新のものだが、耐用期間は短め。新しい規格の、電球もあるというが、ウン十年前の照明装置にくっ付くだろうか。
長く持っているものが少しある。明りもそうだが、ラジオもそうで、これは携帯タイプ。それから、机もものすごく古い。なぜ新しいものを買わないのか自分でも不思議だが、灯りについては、50hzのものの蛍光灯があるが、それも二連、こちらは60Hzであって、これが使えない。それゆえか、電球で頑張っている。机はというともう入れられない。
頑張っている電球は他にもあって、トイレ、それと洗面のものは、かなり長い間持っている。かなり長く、長過ぎる感じだ。この黄色い色はまったくの秋の色であって、これを発明した人に多大なる感謝をしたいと思う。もっとも、蛍光灯も同じであって、そのどちらにもいいところがある。
久しぶりに、父がお世話になっていた介護施設のケアマネージャの方が、その後どうですか、と尋ねて来てくれた。心優しい方である。この方が、入院後一週間というとき、「午後」の遅く父を見舞ってくれて、そのときの様子そ聞く機会があった。ちょうど「午前」にそこにいた私との印象の違いがかなりあって、あー時間によっても、様態は変化するものだが、またいつもお世話になっていた方だから、父もそうゆう対応をしたのではないだろうか、と考えたりもした。
それで、かなり時間がたって、また尋ねて来てくれたのである。こうゆうことも、なかなか出来ないであろう。それで、玄関での立ち話になったが、簡潔に今までのことを話して、早い話しが、今も生きているが、中心静脈点滴をやっている状態で、よくはなってもこれを取り外すことはたぶん不可能で、この状態で、次の病院を待っているような状態ですということを伝えた。これなら、一分も時間はかからないが、いつもその後に思うのであるが、どうも同じことを「だらだら」話したような気がして、自分でもいやになってくる。まとまらないのである。10分は少なくともたってしまった。
話し好きかも知れない?。そう思うことがある。話し好きというより未消化のまま頭にある出来事をただ思い浮かんだ順に話しをしていて、それで何度か相槌があって、そうすると、またあるところから、もう最初はないが、中途から同じことを繰り返しているようで、止まらないこともないのだが、結局は中途半端な感じがする。相手の方こそ迷惑であろう。それで、途中で話しを打ち切った。後は、母が何かを話しでいたが、それにしても自分の話しというのは、自分が話した後に、どうもうまくないというそうゆう印象が強い。どうなのか、
結局は色々溜まっていることをさっさと外に出しておきたい、他の方に話したいという感じもあるのだろう。自分ひとりで持ちこたえられる容量というか、程度というものに限界がある。こんだけしんどいことを自分は頭に抱えている。それを吐き出したいという気持ち、相手の方にわかって欲しいと思う気持ちも強いのだろう。
色々お世話になった方であって、あらためてお礼をいう。ただ、この話しをすると、話しているときは冷静だが、その後今の現実の状態がよみがえってくる。このときが少しつらい。感情が後に残るのである。話しをすると、相手の方も大変であるが、こちらにもその反動が残るようで、足し引きしてみるとゼロで、ちょうどいいかなー。わからないが。
ヒメアカタテハ、これはまだ続く。何しろ、たくさんファイルがあって、目がくらむ。
まずはこの白い花だけど、これはニラの花である。野菜のニラの花で、ハナニラとはまた違う。ニラの葉は食用になるが、花の咲く前の状態のものが、ニラとして売られるのか、それとも花とは関係ないのか、その辺はまだよくはわからない。
近くに止まってくれると、接写出来るレンズだから、大きくなる。
2、3の個体がいたが、そのうちの2つが同じ視野に入った。これは珍しい。
翅の表面を見ることが出来るのは、なかなか少なくそのうちの一枚。これを見て、ヒメアカタテハだとほぼ思った。
長く持っているものが少しある。明りもそうだが、ラジオもそうで、これは携帯タイプ。それから、机もものすごく古い。なぜ新しいものを買わないのか自分でも不思議だが、灯りについては、50hzのものの蛍光灯があるが、それも二連、こちらは60Hzであって、これが使えない。それゆえか、電球で頑張っている。机はというともう入れられない。
頑張っている電球は他にもあって、トイレ、それと洗面のものは、かなり長い間持っている。かなり長く、長過ぎる感じだ。この黄色い色はまったくの秋の色であって、これを発明した人に多大なる感謝をしたいと思う。もっとも、蛍光灯も同じであって、そのどちらにもいいところがある。
久しぶりに、父がお世話になっていた介護施設のケアマネージャの方が、その後どうですか、と尋ねて来てくれた。心優しい方である。この方が、入院後一週間というとき、「午後」の遅く父を見舞ってくれて、そのときの様子そ聞く機会があった。ちょうど「午前」にそこにいた私との印象の違いがかなりあって、あー時間によっても、様態は変化するものだが、またいつもお世話になっていた方だから、父もそうゆう対応をしたのではないだろうか、と考えたりもした。
それで、かなり時間がたって、また尋ねて来てくれたのである。こうゆうことも、なかなか出来ないであろう。それで、玄関での立ち話になったが、簡潔に今までのことを話して、早い話しが、今も生きているが、中心静脈点滴をやっている状態で、よくはなってもこれを取り外すことはたぶん不可能で、この状態で、次の病院を待っているような状態ですということを伝えた。これなら、一分も時間はかからないが、いつもその後に思うのであるが、どうも同じことを「だらだら」話したような気がして、自分でもいやになってくる。まとまらないのである。10分は少なくともたってしまった。
話し好きかも知れない?。そう思うことがある。話し好きというより未消化のまま頭にある出来事をただ思い浮かんだ順に話しをしていて、それで何度か相槌があって、そうすると、またあるところから、もう最初はないが、中途から同じことを繰り返しているようで、止まらないこともないのだが、結局は中途半端な感じがする。相手の方こそ迷惑であろう。それで、途中で話しを打ち切った。後は、母が何かを話しでいたが、それにしても自分の話しというのは、自分が話した後に、どうもうまくないというそうゆう印象が強い。どうなのか、
結局は色々溜まっていることをさっさと外に出しておきたい、他の方に話したいという感じもあるのだろう。自分ひとりで持ちこたえられる容量というか、程度というものに限界がある。こんだけしんどいことを自分は頭に抱えている。それを吐き出したいという気持ち、相手の方にわかって欲しいと思う気持ちも強いのだろう。
色々お世話になった方であって、あらためてお礼をいう。ただ、この話しをすると、話しているときは冷静だが、その後今の現実の状態がよみがえってくる。このときが少しつらい。感情が後に残るのである。話しをすると、相手の方も大変であるが、こちらにもその反動が残るようで、足し引きしてみるとゼロで、ちょうどいいかなー。わからないが。
ヒメアカタテハ、これはまだ続く。何しろ、たくさんファイルがあって、目がくらむ。
まずはこの白い花だけど、これはニラの花である。野菜のニラの花で、ハナニラとはまた違う。ニラの葉は食用になるが、花の咲く前の状態のものが、ニラとして売られるのか、それとも花とは関係ないのか、その辺はまだよくはわからない。
近くに止まってくれると、接写出来るレンズだから、大きくなる。
2、3の個体がいたが、そのうちの2つが同じ視野に入った。これは珍しい。
翅の表面を見ることが出来るのは、なかなか少なくそのうちの一枚。これを見て、ヒメアカタテハだとほぼ思った。