光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

ヒメアカタテハで続く

2008-09-17 18:50:12 | 散策
  あっさりと日が沈むのが当たり前になって、灯りがないとキーボードも見えず、それで電球をつける。黄色い感じのする電球で、かなりの年数たっている。たっている方は灯りの本体の方で、電球は最新のものだが、耐用期間は短め。新しい規格の、電球もあるというが、ウン十年前の照明装置にくっ付くだろうか。
  長く持っているものが少しある。明りもそうだが、ラジオもそうで、これは携帯タイプ。それから、机もものすごく古い。なぜ新しいものを買わないのか自分でも不思議だが、灯りについては、50hzのものの蛍光灯があるが、それも二連、こちらは60Hzであって、これが使えない。それゆえか、電球で頑張っている。机はというともう入れられない。
  頑張っている電球は他にもあって、トイレ、それと洗面のものは、かなり長い間持っている。かなり長く、長過ぎる感じだ。この黄色い色はまったくの秋の色であって、これを発明した人に多大なる感謝をしたいと思う。もっとも、蛍光灯も同じであって、そのどちらにもいいところがある。

  久しぶりに、父がお世話になっていた介護施設のケアマネージャの方が、その後どうですか、と尋ねて来てくれた。心優しい方である。この方が、入院後一週間というとき、「午後」の遅く父を見舞ってくれて、そのときの様子そ聞く機会があった。ちょうど「午前」にそこにいた私との印象の違いがかなりあって、あー時間によっても、様態は変化するものだが、またいつもお世話になっていた方だから、父もそうゆう対応をしたのではないだろうか、と考えたりもした。
  それで、かなり時間がたって、また尋ねて来てくれたのである。こうゆうことも、なかなか出来ないであろう。それで、玄関での立ち話になったが、簡潔に今までのことを話して、早い話しが、今も生きているが、中心静脈点滴をやっている状態で、よくはなってもこれを取り外すことはたぶん不可能で、この状態で、次の病院を待っているような状態ですということを伝えた。これなら、一分も時間はかからないが、いつもその後に思うのであるが、どうも同じことを「だらだら」話したような気がして、自分でもいやになってくる。まとまらないのである。10分は少なくともたってしまった。

  話し好きかも知れない?。そう思うことがある。話し好きというより未消化のまま頭にある出来事をただ思い浮かんだ順に話しをしていて、それで何度か相槌があって、そうすると、またあるところから、もう最初はないが、中途から同じことを繰り返しているようで、止まらないこともないのだが、結局は中途半端な感じがする。相手の方こそ迷惑であろう。それで、途中で話しを打ち切った。後は、母が何かを話しでいたが、それにしても自分の話しというのは、自分が話した後に、どうもうまくないというそうゆう印象が強い。どうなのか、
  結局は色々溜まっていることをさっさと外に出しておきたい、他の方に話したいという感じもあるのだろう。自分ひとりで持ちこたえられる容量というか、程度というものに限界がある。こんだけしんどいことを自分は頭に抱えている。それを吐き出したいという気持ち、相手の方にわかって欲しいと思う気持ちも強いのだろう。

  色々お世話になった方であって、あらためてお礼をいう。ただ、この話しをすると、話しているときは冷静だが、その後今の現実の状態がよみがえってくる。このときが少しつらい。感情が後に残るのである。話しをすると、相手の方も大変であるが、こちらにもその反動が残るようで、足し引きしてみるとゼロで、ちょうどいいかなー。わからないが。

  ヒメアカタテハ、これはまだ続く。何しろ、たくさんファイルがあって、目がくらむ。




  まずはこの白い花だけど、これはニラの花である。野菜のニラの花で、ハナニラとはまた違う。ニラの葉は食用になるが、花の咲く前の状態のものが、ニラとして売られるのか、それとも花とは関係ないのか、その辺はまだよくはわからない。




  近くに止まってくれると、接写出来るレンズだから、大きくなる。




  2、3の個体がいたが、そのうちの2つが同じ視野に入った。これは珍しい。




  翅の表面を見ることが出来るのは、なかなか少なくそのうちの一枚。これを見て、ヒメアカタテハだとほぼ思った。  

久しぶりの夕景

2008-09-17 16:27:17 | 散策
  買い物は楽しいか、というと答えは「いいえ」で、なんだか財布が軽すぎる。
  すぐにからっぽになって、まーどうしてこーなるの。
  スカスカの財布。
  レシートを見る。一々買ったものを確かめる。間違いない。
  何でも高い。でも、食べ物くらいはケチってもねー。

  探し物、なんだか落ち着かない。「新聞がないがどこへやった、」と来る。
  私は滅多に朝に新聞は見ずに、郵便受けから取り出すことだけはやる。
  その新聞がない。捜さないといけない、捜さないと落ち着かない。
  損な性格だと思う。それで、かなり捜したがない。
  偶然に、低めのタンスの一番上を開ける。そこに、ないはずの
  新聞が、ある。あればいい。どうして、こんなところに新聞を入れるのか
  そんなことはどうでもいい。でも、こうゆうのが続くだろう。

  きのうの夕景、久しぶりの空。




  屋根とか、金属製の窓とか、こうゆうものがあった方が、変化があって
  いいように思えて来た。空の青さ、広角で。




  久しぶりに、超現実的な色が出た。印象的でもあって、
  写実的でもある。違うかな。




  まだ沈むまで少し時間がある。これだけなぜか少しコントラストが
  強く出た。なぜこうなるのか不明。でも、見た感じがいいと
  やっぱりこれを採りたくなる。

久しぶりの朝焼け

2008-09-17 06:52:31 | 散策
  朝のお天気、ほぼ快晴。薄っすら靄があって、しかし風はほとんどない。なくてもいいくらいで、体感気温は涼しい。アメダスの6時の気温、18.6℃、気圧は1013.6hPa。室温21.5℃、上昇中。

  西の空に、かなり白い月が見えていて、月もあっちにいったりこっちにいったり、ときにどこにあるのかわからないことも多い。あっちとかこっちとか、そうゆう風に言うときには間違いはないが、これを声に出すとよく間違える。あっちは左なのだが、右です、と言う。そこで、間違えました、左でしたと出ればまだいいが、そのままのときがある。よく、南東の方角とここに書くとき、それは木星の位置を現わすとき、が多いが、南西の空と平気で書く。西に高い山はないのだが、西に見える立山連峰はなど書いて、そのままほったらかしである。これなどは最近は間違わないようになった気がするが、誤字脱字は多い。
  あっちとかこっち、あれあれ、あれ取ってというのがよくないというが、それで済む場合もあるし十分なこともある。それにしても、昔は自分の思っているところと、声とが違うということはまずはなかった、最近は迷うことが多い。困ったことである。だから、きのうなどは、来週の旗日は、勤労感謝の日だなどいってしまい、この人おかしいと思われたのではないか。段々人もぼけるのだねなど思ってもらえると、ありがたいとか考えたりする。

  今日は、朝が明るくなるとき、少し空の下側が焼けているように見えた。この明るさは、ISO100くらいでは、真っ暗になるくらいの明るさであって、このときの空の色が、本物の朝焼けの色のような気がしたが、違う可能性もある。快晴の日没のときも、この色が現われ、それがやがて青い、そして黄色い色に染まってゆく。そのときも肉眼で見るのには十分な明るさだが、機械だともう暗すぎる感じがする。夜明け前の一瞬の出来事だが、もう少し明るくなるまで赤い色が続くかというとそうではなかった。そのまま白々とした、ほぼ透明な空に変わる。
  稲刈りが続く。一晩中お米を乾燥させているようで、その音が聞こえる。虫の音よりは、大きくまた味気ないが、眠れないということはまったくない。空気中にイネの細かい破砕物が漂うようで、乾いた草の匂いがときにある。これで鼻炎になる人もいるようだ。ここは一雨欲しいところ。その雨はいつに降るか。