日が落ちて、その空を見ると、雨が降った後の透明感がなく、少し残念な気がする。透明に近い空の、日没後の空の色の変化というのが、昔見たものと同じかどうか、その辺りを確かめたかった。それでも、それに近いものがあって、今も見ていた。
物忘れというのは誰にもあるが、どうもその物忘れも本格的になって来ているようで、躊躇する。文字を書くときに、それは一応は紙であって、持っているものはボールペンだが、ひらがなが多い。多くなる。ときどき、辞書を引く。ときどきでは意味がないような気がするが、引かないよりはましでやはりときどき引く。それでも、面倒になって、間違っていてもそのままでも「いいかも」と思ったりもする。
ときどき、紙に何度も文字を書く。劇という文字が書けない。筆順もおかしいが、さてここはどう曲げるのだったかはっきりせず、何度も書く。劇一など書くときに、いつも劇の字がうまく出ない。それから膚、似ていて違う。皮膚という字もよくわからなくなる。辞書を引くのはまだいい方だが、辞書を引いて間違ったことを書くという場合も増えた。単純に一行隣のものを写して、おかしいと思わない。
TVを見ている。決まったもので、毎日のゲストの方が変わる。毎日同じなら、レギュラだ。それくらいはわかる。それで、一週間たつ。最後にその総まとめみたいなものも放送される。しかし、一度見ているのであまり熱は入らないようだ。でもそれを見ると、記憶はある。こんな人が出ていたか、それに対する不思議はない。しかし一日たって、そのことを紙に書くときに、ほとんど忘れている、といってもいいときがある。TVはあまり見ないし、興味もほどほどということもあるが、記憶という観点からだと、かなりおかしい。昔もそれをやっていて時間がたてば最後は全部出た。今はそうゆうこともしない。
物忘れというと、私はある血のつながりのある人の見舞いというか、その他もろもろのため、たまに病院に行く。それから、母も一緒に行く。こちらの方のほうが、毎日行きたいようなことをいう。また、ときに一週間に一回ではなかったのなど、聞かれるときがある。おかしいな、大体週に二回は行っている。今日はその日であるという朝に、不思議な顔をされる。反対に、明日は病院も休みだし、行かないと前日に告げていても、今日は行く日なのに、なにをぐずぐずしているの、などともいわれる。一番つらいのは、どうも、入院されている方の状態というのがはっきりわからなくなったようで、「何にも食べることが本当に出来ないのかねー」、などと今も感想を漏らすことで、そのとおりですよというしかない。が、ここまで来ると、ある程度はもうわかっているが、少しイライラもするし、この先の不安というのも、大きくなるだけで、解決の策は見つからない。
認知症の介護というのは、これがなかなかむつかしい。母は父ために一生懸命それをやっていた。途方もないエネルギを費やしたのである。その間、私はあまりやることもやらなかった。これもよくなかったのか。認知症の介護で、認知症になりやすくなる、という話しを聞いたことがある。これも、昔ならそんなことはありえないと思っていたが、今はその可能性は十分にあるなと思う。思うようにいかないのというのが認知症の介護の本質であるようだ。だから、途方にくれることが多い。これだけやった、しかし効果みたいなのはない。どうして。
これまではそうゆうことはなかった。ある日、突然に、あり得ないことが起こる。これに対する有効な策はない。さらに介護で、自身もおかしくなってゆく。
記憶の星ということをふと書いたけれど、それはつまりはごくは当たり前の生活をしていたときのことであって、そのことがずっと頭の中には残っている。それは、かなり昔のことになってしまうが、それだけが頭に残っていて、今を把握出来ない。だから、電話をしていても、今日見てきたことは話しに出て来ない。で、少し昔のあるいは遠い昔のことを、まるできのうのことのように話している。
入院していることはわかっているが、話しとしては、ただかわいそうでねー、などと私の姉と話しをしている。今日散髪を3ヶ月ぶりにしたから、少しさっぱりした顔になった、という話は出ないのである。
こうゆう話もときどきで終わってしまって、ある時間たつと忘れているようで、私は安堵している。毎日がこうではない。ときにこうゆうときがある。
花はコスモス。これ以外になかなかない。
このコスモス、雨に打たれても大丈夫だった。背の丈は目の前くらい。やっぱり見上げる角度からというのがよさそう。
この桃色のコスモスが多い。色にも色々だけど、青いコスモスは見かけない。真っ赤なコスモスもないようだ。
特に、液晶を見てということもなくなると、茎がはっきりする。これもなかなかいいじゃないか。花をぼんやりさせるにはいい方法だ、そう思った。
物忘れというのは誰にもあるが、どうもその物忘れも本格的になって来ているようで、躊躇する。文字を書くときに、それは一応は紙であって、持っているものはボールペンだが、ひらがなが多い。多くなる。ときどき、辞書を引く。ときどきでは意味がないような気がするが、引かないよりはましでやはりときどき引く。それでも、面倒になって、間違っていてもそのままでも「いいかも」と思ったりもする。
ときどき、紙に何度も文字を書く。劇という文字が書けない。筆順もおかしいが、さてここはどう曲げるのだったかはっきりせず、何度も書く。劇一など書くときに、いつも劇の字がうまく出ない。それから膚、似ていて違う。皮膚という字もよくわからなくなる。辞書を引くのはまだいい方だが、辞書を引いて間違ったことを書くという場合も増えた。単純に一行隣のものを写して、おかしいと思わない。
TVを見ている。決まったもので、毎日のゲストの方が変わる。毎日同じなら、レギュラだ。それくらいはわかる。それで、一週間たつ。最後にその総まとめみたいなものも放送される。しかし、一度見ているのであまり熱は入らないようだ。でもそれを見ると、記憶はある。こんな人が出ていたか、それに対する不思議はない。しかし一日たって、そのことを紙に書くときに、ほとんど忘れている、といってもいいときがある。TVはあまり見ないし、興味もほどほどということもあるが、記憶という観点からだと、かなりおかしい。昔もそれをやっていて時間がたてば最後は全部出た。今はそうゆうこともしない。
物忘れというと、私はある血のつながりのある人の見舞いというか、その他もろもろのため、たまに病院に行く。それから、母も一緒に行く。こちらの方のほうが、毎日行きたいようなことをいう。また、ときに一週間に一回ではなかったのなど、聞かれるときがある。おかしいな、大体週に二回は行っている。今日はその日であるという朝に、不思議な顔をされる。反対に、明日は病院も休みだし、行かないと前日に告げていても、今日は行く日なのに、なにをぐずぐずしているの、などともいわれる。一番つらいのは、どうも、入院されている方の状態というのがはっきりわからなくなったようで、「何にも食べることが本当に出来ないのかねー」、などと今も感想を漏らすことで、そのとおりですよというしかない。が、ここまで来ると、ある程度はもうわかっているが、少しイライラもするし、この先の不安というのも、大きくなるだけで、解決の策は見つからない。
認知症の介護というのは、これがなかなかむつかしい。母は父ために一生懸命それをやっていた。途方もないエネルギを費やしたのである。その間、私はあまりやることもやらなかった。これもよくなかったのか。認知症の介護で、認知症になりやすくなる、という話しを聞いたことがある。これも、昔ならそんなことはありえないと思っていたが、今はその可能性は十分にあるなと思う。思うようにいかないのというのが認知症の介護の本質であるようだ。だから、途方にくれることが多い。これだけやった、しかし効果みたいなのはない。どうして。
これまではそうゆうことはなかった。ある日、突然に、あり得ないことが起こる。これに対する有効な策はない。さらに介護で、自身もおかしくなってゆく。
記憶の星ということをふと書いたけれど、それはつまりはごくは当たり前の生活をしていたときのことであって、そのことがずっと頭の中には残っている。それは、かなり昔のことになってしまうが、それだけが頭に残っていて、今を把握出来ない。だから、電話をしていても、今日見てきたことは話しに出て来ない。で、少し昔のあるいは遠い昔のことを、まるできのうのことのように話している。
入院していることはわかっているが、話しとしては、ただかわいそうでねー、などと私の姉と話しをしている。今日散髪を3ヶ月ぶりにしたから、少しさっぱりした顔になった、という話は出ないのである。
こうゆう話もときどきで終わってしまって、ある時間たつと忘れているようで、私は安堵している。毎日がこうではない。ときにこうゆうときがある。
花はコスモス。これ以外になかなかない。
このコスモス、雨に打たれても大丈夫だった。背の丈は目の前くらい。やっぱり見上げる角度からというのがよさそう。
この桃色のコスモスが多い。色にも色々だけど、青いコスモスは見かけない。真っ赤なコスモスもないようだ。
特に、液晶を見てということもなくなると、茎がはっきりする。これもなかなかいいじゃないか。花をぼんやりさせるにはいい方法だ、そう思った。