日の入りまぢかの太陽が少し膨らんで見えている。下の方が少し膨らんで、達磨さんみたいである。それで、今日は午後からは間違いなく青空で、月が南の低い位置に見えていて、色は白い。風が少しあって、その風はまだぬるい。
一週間ぶりに父の顔を見にゆく。この行事ももう慣れたが、しかし何かよくなるものはもうない。何度もお別れもして、もう彼は私の頭のある部分では過去の人になっている。一方もう一人の父は、ずっと若かったり、あるいはほどほどの年齢であったりして、その間はかなり長い。その中に大体の父がいて、それはたぶん父の命と関係なく、存在する。人の頭の中で、大体の人は生きていて、父にしろその体を触ったりということは、まずはない。最近になって、肩がこっているだろう、血の巡りも悪かろうと、背中をたたいた。それで、痛いという言葉に対して、こうやって肩たたいてくれる人は他にはいないだろ、など言いながら、それでもまた肩をたたいた。また痛いという。こうゆう繰り返しがある。
病院にいっても特にやることはない。ときどき病室が変わる。今は少し広いところ。ここに真っ直ぐにゆく。入る前に、殺菌作用のある液体を手のひらに塗る。母にもその液体を、シャンプと同じように頭を押して、手のひらの上に乗せる。それをモジャモジャしていると、そのうちに液体は飛んでゆく。これは特に看護師さんには強制はされない。看護師さんがそれをされているのも見て、真似た。病室を出たり入ったりする。そのたびに、その殺菌消毒のための液体を塗る。この匂いが、この病院の匂いのようである。
滅多なことで、父の寝巻き姿、病室衣姿を見ることはない。わかってはいるが、もうかなりやせているはずで、それは入院後、もう一ヶ月がたった時点でわかった。点滴、輸液の量は見ているとわかる。それからどのくらいの量が体内に入っているか、これも機械でコントロールしている。だから、ぶら下がっている輸液全体の量と、時間当りの量がわかれば、24時間でどのくらいのエネルギが供給されているか、わかってしまう。
しかし、こうゆうものをどのようにコントロールするか、それはお医者さんの仕事である。
部屋に入る。父は眠っている思ったが、眼を開けていたようだ。少し熱がある。手で分かる。それから、首筋に手を当てて、脈を探し、時計を見つつ脈拍数を測ってみた。大体80ぐらい。少し多い。呼吸はさほど苦しそうではない。
今日は、珍しく、もう帰るというときであったが、看護師の方が、かけているタオルケットをすべてはずして、それから体温や、血圧を測るという場面になった。大体が、タオルケットは上半分は折りたたんでという場合が多いようだ。下側は見えないようにしている。もっというとこうゆうときに、自分がそばにいることもなかなかないものである。それで、この目で、まずは父の膝から下、膝の部分も含めた下側を見たが予想以上にやせているようで、見ようによっては骨と皮と、少しの脂肪があるだけで、まったくにやせ細っていた。想像通りのものがあって、でも今になって特に何かがあるかというと、ないのである。「月夜のカニ」。
さらにこんどは血圧を測るというとき、手のひじから下は何度も見ていた。しわのよった細い腕があって、これでは点滴用の針もその細い血管には入りそうになかった。血圧測定には、ひじより上のところに、圧測定装置を付ける。そのひじから上も、細々としていて、測定用の布地も余りがあるような感じだった。それでも、彼は生きていて、それから熱があった。37℃。平熱は、35℃台の後半か36℃。しかしこれも特に問題にはならない。
一週間前にいったときは、目の回りがしわだらけだった。それがなくなっていた。それだけでもまーよかったと思う。もう帰る、というとき、特に何も思わなかった。消毒用の液体を自分の手のひらに、母の手のひらにかけ、モミモミして、ナースステーションで挨拶をした。
赤いサボテンの花が夕日で咲いていて、そこにいったら予想をすることも出来なかったが、いやというほと蚊に、たぶん藪蚊だ、刺された。この痒いこと。まったくこの蚊だけは許せない。
咲く花。
何度も咲く花の代表の、ノウゼンカズラ。ゆらゆら風に揺れる。
サルスベリ。実に複雑な花。漢字といい、カタカナといい、あまり関係ないイメージがある。この花も、そこにもあればここにもある、そうゆう風なものに思える。
百日紅だと、なるほど最後の紅の文字から、関連がありそうだ。今気が付いた。
一週間ぶりに父の顔を見にゆく。この行事ももう慣れたが、しかし何かよくなるものはもうない。何度もお別れもして、もう彼は私の頭のある部分では過去の人になっている。一方もう一人の父は、ずっと若かったり、あるいはほどほどの年齢であったりして、その間はかなり長い。その中に大体の父がいて、それはたぶん父の命と関係なく、存在する。人の頭の中で、大体の人は生きていて、父にしろその体を触ったりということは、まずはない。最近になって、肩がこっているだろう、血の巡りも悪かろうと、背中をたたいた。それで、痛いという言葉に対して、こうやって肩たたいてくれる人は他にはいないだろ、など言いながら、それでもまた肩をたたいた。また痛いという。こうゆう繰り返しがある。
病院にいっても特にやることはない。ときどき病室が変わる。今は少し広いところ。ここに真っ直ぐにゆく。入る前に、殺菌作用のある液体を手のひらに塗る。母にもその液体を、シャンプと同じように頭を押して、手のひらの上に乗せる。それをモジャモジャしていると、そのうちに液体は飛んでゆく。これは特に看護師さんには強制はされない。看護師さんがそれをされているのも見て、真似た。病室を出たり入ったりする。そのたびに、その殺菌消毒のための液体を塗る。この匂いが、この病院の匂いのようである。
滅多なことで、父の寝巻き姿、病室衣姿を見ることはない。わかってはいるが、もうかなりやせているはずで、それは入院後、もう一ヶ月がたった時点でわかった。点滴、輸液の量は見ているとわかる。それからどのくらいの量が体内に入っているか、これも機械でコントロールしている。だから、ぶら下がっている輸液全体の量と、時間当りの量がわかれば、24時間でどのくらいのエネルギが供給されているか、わかってしまう。
しかし、こうゆうものをどのようにコントロールするか、それはお医者さんの仕事である。
部屋に入る。父は眠っている思ったが、眼を開けていたようだ。少し熱がある。手で分かる。それから、首筋に手を当てて、脈を探し、時計を見つつ脈拍数を測ってみた。大体80ぐらい。少し多い。呼吸はさほど苦しそうではない。
今日は、珍しく、もう帰るというときであったが、看護師の方が、かけているタオルケットをすべてはずして、それから体温や、血圧を測るという場面になった。大体が、タオルケットは上半分は折りたたんでという場合が多いようだ。下側は見えないようにしている。もっというとこうゆうときに、自分がそばにいることもなかなかないものである。それで、この目で、まずは父の膝から下、膝の部分も含めた下側を見たが予想以上にやせているようで、見ようによっては骨と皮と、少しの脂肪があるだけで、まったくにやせ細っていた。想像通りのものがあって、でも今になって特に何かがあるかというと、ないのである。「月夜のカニ」。
さらにこんどは血圧を測るというとき、手のひじから下は何度も見ていた。しわのよった細い腕があって、これでは点滴用の針もその細い血管には入りそうになかった。血圧測定には、ひじより上のところに、圧測定装置を付ける。そのひじから上も、細々としていて、測定用の布地も余りがあるような感じだった。それでも、彼は生きていて、それから熱があった。37℃。平熱は、35℃台の後半か36℃。しかしこれも特に問題にはならない。
一週間前にいったときは、目の回りがしわだらけだった。それがなくなっていた。それだけでもまーよかったと思う。もう帰る、というとき、特に何も思わなかった。消毒用の液体を自分の手のひらに、母の手のひらにかけ、モミモミして、ナースステーションで挨拶をした。
赤いサボテンの花が夕日で咲いていて、そこにいったら予想をすることも出来なかったが、いやというほと蚊に、たぶん藪蚊だ、刺された。この痒いこと。まったくこの蚊だけは許せない。
咲く花。
何度も咲く花の代表の、ノウゼンカズラ。ゆらゆら風に揺れる。
サルスベリ。実に複雑な花。漢字といい、カタカナといい、あまり関係ないイメージがある。この花も、そこにもあればここにもある、そうゆう風なものに思える。
百日紅だと、なるほど最後の紅の文字から、関連がありそうだ。今気が付いた。