光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

本屋さん巡り

2008-09-10 19:03:05 | 散策
  冗談のような話しだが、私にも本屋さんを色々と巡るころがあった。

  東京駅の八重洲口に大きな本屋さんが出来た。そうゆう時期があったが、そのときがいつのことか忘れた。それから、その本屋さんに帰省の帰りにいったとか、わざわざその本屋さんに行くために高速バスに揺られたというようなことも聞いたことがあった。そのときに住んでいたところだと、高速バスで、3時間か、新幹線はもうあって、それだと1時間半くらいで行けたようだ。
  新幹線は、あるところからだと、東京駅に向かうときにゆっくりになるときがあって、これでは新幹線ではないなど思うこともあったが、今考えるとそれくらいが一番よく、目にも止まらぬ最新型の車両だと、たぶん乗ろうという気にならないかも知れない。それに乗るには、ある決まった駅にゆかないといけないようだが、乗ったと思って、それで少し昼寝でもと考えるともう降りる駅というわけで、落ち着かないと思う。また、あまりに高速な場合だと、遠くの景色の眺望にはよさそうだが、近いと早すぎる気がする。昔の、ゆっくりめの「こだま」の走りが懐かしい。

  それで、その後特に新幹線に乗らなくても、八重洲口の本屋さんとか、その他、御茶ノ水界隈、神田神保町辺りにもゆくことが出来るようになった。その当時あまり本には感心はなかったはずである。しかし、まずは三省堂に向かった。そのはずで、しかし、御茶ノ水駅からその三省堂までの道は意外と長くさらに力はあまり入らなかった。なぜこうゆうことになるか、どうも寝すぎて、それから出かけたものだからそうなったようだ。
  本屋さんに入ると、いつのまにか眩暈のような、あるいは威圧感を感じるようになって、あまりいい感じがしなくなったが、その当時はまだそこまではいってなかった。それよりも問題なのは、まずは大きな本屋さんに行ってもそのありがたみが、まずはわからない。そうゆうところに見学に行く意味はある。あるかも知れない。しかしそこにはあまりに本の数が多すぎて、自分の興味のある範囲が少なすぎた。世間のことを知らないと本のことにも疎くなるようで、そもそも今思うとそんな大きな本屋さんにゆく必要はなかったようだ。ただ、本はたくさんあるもので、こん大きなビルでも、すべての本は置かれていないものだ、と思ったのは本当のようだった。

  本が一気に値上がりした時期というのがある。オイルショックだの、空中外交だの、なんだかわけのわからない時期があった。名前が変わる国も現われたときでもある。この点、日本語は便利だと思った。今までは何個目の漢字を採用するが、この後はもう一つ後の文字を使う。そうゆう感じで、国の名前も変わったのである。
  本の値段がどの程度であるといいかというのはむつかしい問題で、やっぱり出版社も採算がとれないといくらいい本だとわかっていても出す気にならないものである。他で儲けが出て、それではこれがあるから、この本を出してみようというのはわかりやすいが、そうもいかないのだろう。
  それより、例えばこれまで全集で、一冊千円程度で出ていたものが、一気に二千円になり、それが三千円になるのは驚いた。例えば、一刷りのものは980円で出ていても、二刷りで2100円とかになって、これが同じところに並んでいる。ただし帯は、一刷りのものはもう擦り切れたりして、しかしやはり買うのは、安い方である。そのときは、今買っておいてよかったなど思うわけだが、結局は読まないままであったりする。その全集の続きというのが、出るわけだけど、かなり遅れて出たそのものは最初から三千円の値段が付いていて、いくらつんどくといっても、もう手の出ない値段であった。

  これは本屋さん巡りと関係がなかった。本屋さん巡りは、半分は散歩であって本屋さん界隈の雰囲気を味わうものである。その後、もうそうゆうところとは縁がなくなったときに、こうゆう本を持っていれば、あるいはこうゆう本があったらということになる。これはうまいこと出来ているものだ。本が欲しいときに本屋さんはなく、本がたくさんある本屋さんに行けるときは、特にこれが欲しいというものはなかった。大体そうゆうもののようで、この辺は本屋さんも出版社も大変であろうなと思う。
 
  本の値段もなかなかのものだが、実物を見ないでネット注文というのもこれもむつかしい感じがする、何度かやったが、これはよかったというものは、5回に1回くらいだろうか。この数は少ないが、こんどは本を置く場所がないという問題も必ずある。でも、それでもやはり本だ、最後の結論は決まっている。こうゆう振動はずっと続くだろう。

  色々な色の花。




  キバナコスモス。上手に咲く花も少なめである。




  目立たないところ、に咲くもも色の花。雨に打たれてもよく、眠っていてもよさそう。


  地味だけどチョウ。



  セセリチョウの仲間。
  きのうの、ツマグロヒョウモンのところで、チョウの翅の「表」か「裏」かというところで、勘違いをして、裏を表としてしまった。でも、結局このチョウがツマグロヒョウモンに一番近いというのは、翅の「表」側の様子によるようだ。また、翅の表側に黒い色が出るのは、オスではなくメスである。これも完全に間違えて表記してしまった。


  秋の花の、フジバカマがもう咲いている。



  これは蕾である。咲いているものの葉っぱが枯れていて、仕方なく蕾に。この花の長い時間が始まる。

緑葉は暑さにめげない

2008-09-10 16:12:16 | 散策
  こってりした暑さが、よみがえった。

  朝の涼しさは、どこにいったのか、ちょっとうらめしいくらいの
  暑さになっている。
  涼しくなると、夏の疲れが出るように思う。朝も二度寝みたいな
  感じになるが、眠ったから疲れが取れるというわけではない。
  ずっとその疲れの中、壷か、沼か、海か、そこにつかっていて
  抜け出せない。風邪が直るまでに似ていると思う。

  こうゆうのが段々ひどくなってゆくのだろう。
  いやーな感じである。しょうがないが。

  その点、元気な植物はいる。すべての植物が元気ではなく、
  その中の一部、かなりかも知れない、は元気である。




  よく出る光景。手前はカエデで、他いろいろ。夏の強い光に負けず、
  しおれることもなく、葉っぱは光を反射しているようにも見える。




  好きな部分、その一。あれ、よく見ると茶色いところがある。やっぱり
  カエデも疲れているのか。




  好きな部分、その二。二枚目の右側。
  こちらにも、ちょっと元気のなさそうなところがありそうだ。

  何日か、ヒゲナデシコのことを忘れていた。今日見ると雑草も含めて
  生き絶え絶え、土はカラカラである。慌てて、水をかける。たっぷりめ。
  これくらいはやらないといけない。

晴れの二日め

2008-09-10 06:55:52 | 散策
  朝のお天気、晴れ。これは快晴である。薄い雲もあるが、快晴。風が少しあって、涼しい。空腹だと、冷たい。アメダスの6時の気温、18.5℃、気圧は1019.1hPa。室温、21.5℃。かなりスースーする。湿度は94%だって。

  二日酔いとかいう。もうこの経験も記憶の中でしか、よみがえらない。晴天が二日続くことが珍しい。さらに、18℃台である。最高気温予想は29℃。こうなると厳しい。気圧が、1019.1hPaもある。この値も高い。

  地球は回転しているが、周りが回転しているようにも見える。球殻が回転しているのか、宇宙全体が回転しているのか、この辺り普通はごっちゃになる。そこに球殻を想像することがむつかしい。やっぱり空全体が回転していると考えるのが一般的だ。太陽は同じように、空を回転しているが、その高度が変化することは、1年を通して見るとわかるような気がする。変化だけなら、半年で十分で、またもとに戻ることを知るためには、1年間がいる。
  冬至の、あるいは夏至の前後の1ヶ月というと、この高度の変化はわかりにくいようだ。日の出の時間も日の入りの時間も、同じように変動は少ない。
  それで、太陽が約1年たって、同じ位置に戻るということを確認することはむつかしい。昼に輝く恒星があって、昼間にでも太陽の位置が確認できればいいがそれが出来ないものだから、この星の動きどうなっているのかわからないままだ。大体が今どの星座にいるか、これも一々太陽と惑星の位置の一覧というものを見ないとわからない。これはこの後も続くだろう。

  目が開くと、もう時計は予定起床時間を過ぎていた。しかし太陽は、まだ山から顔を出していない。おかしいな、というわけではなく今頃は、秋分のころは、春分でも同じだが、もっとも、日の出、日の入りの時間の変化が激しいときである。一日いちにち、その違いがわかる感じになる。そうすると、もうしばらくすると、起きても真っ暗ということになるのか。
  これをすでに体験している人は多い。早起きの人。朝型の人。2時に起きる人、いろいろ。朝の3時にオリオン座がもうかなり高く、以前にも書いたが、おおいぬ座のシリウスが、青白い光と、ときに赤い光を出しているようで、この変化が面白かった。こいぬ座のプロキオンも同じように見える。
  まだ星は見えないが、起きると暗いという時間がもうそこまで来ていて、そのうちに星も見える時間になる。同時に寒くなる。うーっとなって、窓を開けて、ぶるっと震える、もうそのときが想像される。