光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

秋鳴く虫

2008-09-11 18:59:29 | 散策
  太陽があっさりと西の県境辺りの山に沈んで、この後どのくらい明るさが残るか興味のあるところ。

  秋だから食欲となるわけだが、かなりはっきり夏ぶとりの結果が残ったようで、うれしくはない。いつからこんなになったのだろう。結構な物価の値上がりで、同じものを買っても値段は上がっているし、しかも同じものでも、袋の中の量が減っていたりで、それなら多少はやせてもいいはずだがそうでもない。食っちゃ寝ということが、原因だろう。
  あまり元気でもないのだが、食べ物を並べるときもかなりポカンとしているが、食べていると、これが増食効果を生み出すようで、パン一つ食べると普通はお腹は少しは膨らむはずだが、食欲は落ちない。まだ食べたい。もう一つくらいは、大丈夫だと思って、それでも、そんなにめちゃくちゃな食べ方はしなかったはずだが、太ったのは事実のようだ。これはいいのか悪いのか。

  運動というか、そうゆうたぐいのものもやらなくなった、これも大きな原因だろう。体を動かしても大して熱量を使わないというのが定説であるが、それは正しいようだ。多少の運動は、食欲増進効果こそあるけれど、エネルギを大量に消費することにつながるかというと、そうでもない。例えば、30分くらい歩いたところで、ご飯一杯分のカロリを消費するかというと、どうだろうか。たぶん、ご飯半分くらいではないか。それでいい気になって、たしかにそうだ、この暑いのに今日は予定通り歩くことが出来た。これは目出度い。さっさと汗を流して、それで3時のお茶にかなりこってり甘い、そしてみた目にも涼しげな和菓子など食べようものなら、先ほどの使った熱量は帳消しどころか、こんどは摂り過ぎになる。こうなると、

  体はハッスルする。もともと、エネルギを溜めるように人の体は調節されているいう。それまでの長い間の飢えとのたたかいにおいて、体は余分なものは蓄えるという戦略を獲得した。だから血中のグルコースの濃度が高まると、他の果糖でも、ショ糖でも同じようだが、これを貯蓄形態としての、糖のポリマに変える、変えようとする。このときにはもちろんエネルギがいる。それを使ってもまだあまりあるエネルギがあると見なされるし、実際にある。それでブドウ糖はグリコーゲンになり、あるものは、一旦は分解され、こんどは脂質となってこれまた組織に蓄えられる。
  この脂質になると、こんどはなかなかこれが分解されにくく、多少の空腹では、グリコーゲンはブドウ糖になるが、脂質はどうもそうではなさそうで、それは本当かどうか疑うところもあるけれど、自分のお腹を見るとかなりふっくらしていて、やはり脂質はなかなか分解はされず、しかし一定以上糖の濃度が増えると、この脂質にすぐに変えられてしまって、またまたお腹を抱えないといけない状態になる。こうゆうことを、この夏に経験して、やっぱりお腹はまた少し大きく膨らみ、触ってみると、その厚さに驚くのである。

  秋に鳴く虫の話しが、なぜこういったお腹の出っ張りの話しになるかというと、これにはあまり説得力はないが、秋は、まずはおいしいものがたくさん出る。さらに秋の虫の鳴き声は、なぜか切なく寂しげで、目を下に向けることは多い。そうすると、お腹が出ているのがわかる。秋鳴く虫は、お腹の出っ張りを教えてくれるのである。この虫の音色がどうだろうか。虫の鳴き声、さらにダンゴのような月、さらにはユラユラ揺れる、月の影になる、ススキを見ると、お腹がなく。すると、ある人はそれを愛でて一杯やることになる。
  私は、遠の昔に決められたとき以外は飲まないことに決め、さらに宴会には出ないことも決めている。そんなことはどうでもいいが、秋の虫の鳴き声でダンゴもおいしかろうと思う。また収穫の秋にダンゴをお供えすると、夢にそれが出そうで、翌日また朝を迎える、朝はさほど食欲はない。それでも、太るのは間違いがない。終止が付かなくなった。


  秋の草、秋の虫。




  田んぼにもイネと混じってこのような草が生えていそうな気がする。なかなかいい色具合である。
 
  ハムシといわれる昆虫がいるが、これは「甲虫」という仲間に属するもので、現実味はしかしないように思う。




  暑いからか、直射日光を避けて、クロウリハムシがいる。この虫が食べているのは、たぶんキカラスウリの葉っぱである。




  少し調節してわかりやすくしてみた。新鮮そのもののキカラスウリの葉を食べている。ちょっとだけだが、メタボが気になるそうゆう体型をしている。

日の出のころ

2008-09-11 16:21:51 | 散策
  かなり暑い。残暑が厳しい。どうしてくれようなんて思う。

  風が先ほどから強くはなっているが、これもすっかり
  気温が上がった状態では、なんだか迫力がない。

  これはしかし、イネにはいいようだ。最後の最後は、きれいに晴れて
  こそ立派な種子が出来る。
  もっとも、タネ籾用のものと飯米のものではたぶん扱いが違うだろう。

  ダイズを見る場合があったが、このダイズ、もういいんじゃないか、
  すっかり姿形は、細く枯葉色で、早く刈り入れをした方が
  いいと素人目には写るのだが、これからが長い。いったいいつまで
  干しておくのか、本当に大丈夫なのか、心配する。しかし、それで 
  いいようなのである。心配するだけ無駄である。


  朝日の出るころ。




  空が、くだものの桃そのものの色になる。




  少し移動すると、建物の影から日が出ていた。これがかなり赤く感じられる。
  大体である。見るか見ないかそうゆう状態で、赤いと思う。




  ポッカリ宙に浮んだ。時間的にはかなり短いはずで、これなどは
  日の入りのときの、太陽が山の端に沈むときがわかりやすく、
  本当にこんなに早く地球が回転しているのか、疑いたくもなるくらいである。

赤い朝日

2008-09-11 06:54:50 | 散策
  朝のお天気、晴れ。少しくたびれた快晴。風が今はなく、空気のよどみがある。涼しさも消えた。アメダスの6時の気温22.5℃、気圧は1014.7hPa。室温23℃。

  セミの鳴き声が、もうないようで、これも気が付かないと、そのままだが、秋の虫の鳴き声は、意識するが、セミの鳴き声は先ほど、そういえばしないと思う。晴天も3日目になると、空気も濁ってくる。月が、木星の南側をするりと移動してゆくが、この様子も、三日目のきのうは、木星の輝きの鋭さもなくなっているように思えた。朝の太陽の、透明感がなく、少し赤味がかっている。この色が、人の闘争本能を刺激するとかいわれるようだが、秋の物悲しさ、何でも悲しいわけではなく、呆れたり、心底腹立たしいこともあるが、物悲しい色に思える。
  朝はすっきりと、緑と青の水色の透明感のある、明るいイメージが欲しいが、そうゆうものを見ることはなぜかむつかしい。寒色系の色のようで、それが出ないところなのか。

  雲と山と建物があると、もう日は出ているはずだが、まだそのものが顔を出さない。先に少しだけ高い木の先端が色付く。木にもよるが、ここに生えている長い長い年月を、夏暑く、冬は雪に頭を押さえ付けられながら、過ごした木々を見ると、厳しさはなく、どっちかというと、くたびれている感じがする。いずれも昔からある、そうとしかいえない木々だが、いったいどのくらいの年月がたっているのだろうか。
  大きいものだと、100年はまずは間違いない。木々の寿命というものを知るのもなかなかむつかしい問題で、遠くにある大木は、昔から大木だった気がする。樹齢何百年という木々もあるから、百年の単位で差があると考えていいのだろう。この木々が何を見てきたか、彼らは語ることがない。幸いか、ここには放射性のある物質を撒き散らすそうゆう兵器も落とされなかった。なんとか、生き残っている木々の年輪も、それはちょっと寂しい数にしか思えない。

  そういえば、枯れ木でもないが、枯らしてしまった木を切った後、その後を見る機会があった。年輪があった。それを数えようとするところまではいかなかった。さほどたくさんはないなという感想である。大木といわれる木々の年輪はいかなるものなのか、まだ見たことはない。根っこだけ残った木々も微生物の働きでより細かく、一般には腐敗してゆく。もう一度年輪を見ることが出来ないわけではないだろうが、それもやがて消えうせてしまう。何となくだが、これも寂しいような感じがする。