光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

寒さの中の光り

2008-01-27 19:17:46 | 散策
  寒い、サムーイ、一日で、しかし陽光が降りそそぐ時間があって、羽化する時期を間違えたチョウのように、少し、明るい光の中を歩いて来た。チョウの中には、大人のチョウのまま、冬を越すものもかなりあって、そうゆうものはなかなか見ることもないが、しかしこれは本当のこととしか言いようがない。
  冬こそ、星を眺めるに適した時季といえる気もするが、幸か不幸か、この辺りは冬に曇りの日や、あるいは雪の日が続いて、星の見える時間も少なく、ほとんどないと言ってよく、これを別な角度から捉えると、お日様が出ている時間帯というのも少ないようで、これからの、あるいは、あからさまに、最も安全で有効といわれる、今も含めた次世代エネルギである、一番期待される太陽光発電が、有効に働かないという、ある意味での欠点を持つが、
  さらに、しかしながら、雪が山に積もれば、これはポテンシャルとしてのエネルギが期待できて、実際に水力発電として、ずいぶんと昔から、現実のものとなって使われている。寒さに耐えて生きる、この言葉は、ここよりももっと厳しい、雪と低温の世界に住んでおられる方にこそ該当すると思われるが、その寒さに耐える代償として、水とエネルギが蓄えられるとも言えるのではないか。
  なかなか、二つのエネルギを両方溜め込むことはむつかしい。そうは、うまくはいかない。

  星の世界の話しであった。冬に晴れると、寒いこともあるが、雪の降らない地方では、星もきれいに見える。ただ、空気中の水蒸気の量も減るから、このことも忘れてはいけなかった、地表がせっかくお日様で暖かくなったのに、夜になればエネルギは、夜空向かって、より冷たい、寒いほうへ放射される。どんどん地表のエネルギは、空高く逃げていって、冷える。空気中の水蒸気こそ、この地表のエネルギの放出を防いでくれるものであって、よく晴れた翌日は、湿気がないから、放射冷却で一気に気温が下がり、パリパリ氷が張る。

  星の話しであった。色々なところで、色々な難儀なことがあっても、星の好きな人は、寒いと言いながら星を眺める、凍えながらも星を見る。さらに、観察では済まずに、観測ということにもつながってゆく。なんとなく、宇宙飛行士の方々にも似ている。かなり覚悟がないと、この寒い夜に、星を見たいがために、あるいは、星の明るさの変化を観測したいがために、寒いところで、じっと寒さに耐えつつ、星の観測をするのは、しんどいしくたびれる。ぐったりもするだろう。これが高じると、さらには、より高い、より空気の澄んだところへと旅立つ。

  星の世界に注目する。まずは、月や惑星などを眺めてみたいと思う。それらをさらに細かく眺めて、個体の惑星、ガスで出来ている惑星、その周りをまわる衛星に注目し、さらには、惑星に環があることもわかって、それを観測したりする。それから、これらの動きがどうであるか、どのように空間を動くか。それも興味の対象になる。摂動といわれるものがあることがわかって、力学の問題に突き当たるが、こうゆう方はすでに、2体問題の解についてはマスタしていて、3体問題についても、その一般解は存在しないことも知っておられる。

  どうも問題がむつかしい方へ、傾いてゆく。星空を眺める楽しみは、まずは、その美しさで、次には、太陽系が存在する銀河系と同じような天体が、この宇宙にたくさん存在することを知ることであって、太陽の大きさとか、太陽までの距離は、さほど大きなものではないことも知る。さらに人口に膾炙している、アンドロメダの大星雲も、太陽系の存在する銀河系の、兄弟みたいな、近い距離にあることを知って、しばらく驚く。が、そのうち高々、200万光年か250万光年かと言い、その距離も大した事でもないな、など思うことになる。さらに、銀河系と、アンドロメダの大星雲は、互いに重力を感じあっていて、かなり先のことであるが、これらの兄弟のような星雲は、銀河は、やがて一緒になってしまうかも知れない、と言うことも、それをポロリと、口から出してしまうことにもなって、ちょっと回りの人から、煙たがられることにもなってしまう。

  もう少し、この辺りでも、星が冬に見えたらいいと思う、そうゆう話しが、かなりな方向へ発散してしまった。現実の話しとして、この辺りが夜に晴れると、星こそきれいであるが、翌日は放射冷却でパリパリ凍ってしまい、とてもじゃないがやっていけない。特に寒がりの人は、困ってしまうし、危なくていけない。よって、寒いと言いつつ、ほどほどに雲が出て雪も降り、たまには、ある時間晴れて、それでは外に出て、少し日光浴をしたいと思う、その程度で世の流れが推移していることに、ありがたく思わなければならないだろう。

  もう何度も見たものが再登場する。




  南風!が吹いて、この山茶花も揺れた。しかし後から気温を見ると、せいぜい4℃である。背伸びして、カメラだけこの花に向けた。




  南側に、建物があって、ここは日向になって、この花が温かそうな、毛布に包まれているかのように見える。しかし、この花も、ちょっと大きくなったと思うも、また、かじかんでいる。小さいまま、消えてゆくのかも。




  左がイチョウの木で、右側はスギである。スギを今日よく見てみたが、少し茶色がかった黄色いものがたくさん付いているようであった。屋根があって、その雪が溶けていないことも注目に値する。低温で、溶けないまま、光り輝いているのである。

  明るい光り、暖かくはないが、早春の証拠といえるような気がしてきた。

カミガミの命

2008-01-27 07:17:38 | 散策
  朝のお天気、曇りベースで、晴れ間がある。東北の空が紅く染まった。本の2、3分で今はそれもない。風は弱く、穏やか。アメダスの最新気温、マイナス1.2度、積雪0cm、湿度は91%。室温3.5度、今は4.5度に上がった。

  土曜日に、お宝を鑑定するTV番組をこちらではやっていて、少し時間も遅れる。悲喜こもごもがあって、なかなか楽しい。お宝が出ても、特にくやしいとも思わず、これもまた大変なことになった、とも考える。ちょっと怖い番組。なんとなく、真贋がわかりそうで、しかし複雑なものも多い。その中で、骨董と、紙のもの、軸のものは、変わらず、マニアの方がいてそれを見ることになる。ここに、軸物の、その他の紙のものの命がある。
  何十年なら、話しはわかるが、何百年も前のものが、密かに北陸の凍りそうな蔵の中で眠っていることを想像する。蔵は、宝庫でもあって、しかし、ゴミためと貸したところもあって、しかし現代のゴミも、未来はお宝に化けるかも知れない。紙の命は、長い。

  お札、お札の顔となっている人が気の毒なくらい、お札は無造作に扱われる。新札はパリパリして、手が切れそうだし、しかしよれよれで、折り目に切れ目が裂け目が入っていると、これは先に使わないといけないと思う。お札の寿命はどのくらいなのか、考える。ぐるぐる回って、何十人、何百人の人の財布にしまわれ、最後は古紙として、日銀に戻るのだろう。ただ、のゴミとなって。
  硬貨は、裏に製造年が刻印されている、しかし、紙幣のそれはないようで、また記号番号から、その印刷日を知る術もわからない。紙幣から、特殊な細菌が、紙幣にのみ繁殖する、細菌というものもありそうで、これが病気に効く生理活性物質を持っているかも知れないとも思う。

  広告の数、新聞に入るもの、も減ったようである。市の広報やらも入ることは入るが、もう見ないし、どこかに行ってしまってわからないときも多い。広告は、まったく見ることがなくなった。強いて言えば、裏が白で、それも裏写りの少ないものは、メモ用に残すことが、ときにある。その他、美しい、美辞麗句であふれる、建物の広告など、これはなかなか見ることはない。広告に、広告大賞があるように、広告は、一つの芸術としての価値は大いにあって、しかし、それは、広告で、商品の実際のすべてを表わしていない。が、広告の美しさを競うものとして、後世に残り、お宝になる可能性がある。

  紙のもので大切なものは、やっぱり『本』であろう。そのうち、紙の、否兌換紙幣は、価値が無くなって、何かのものと、例えばお米と、一昔前はあった、交換するシステムというものが復活するかも知れない、なぞ想像する。こうしてみると、下手だなぞ思わず、何か紙に文字を書いたり、絵を書いたりするのも悪くないようである。