光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

繰り返しとか周期とか

2008-01-10 19:14:39 | 散策
  雨が降っていたような、曇りの時間も多かったような、それでいて、日が沈んだ後に、細い月が見えていたが、これは、予報から前もってわかっていた。どのくらいの月が見えるか、日が沈んでからそのことを思い出して、ある位置を探す。双眼鏡を使ったほうがよさそうで、薄い雲もかかっているし、その辺りを探してみると、太陽光の空の輝きに負けない、白いような、薄っすらとした円弧が見えた。
  ようやく月も一周したか、という感じは、これは時計が、右に左に、箪笥の上に、枕元にあるからで、今何時、何月などすぐにわからない時代は、月を見ている人は、多かったかどうか。やっぱり太陽を感じて、日々の暮れかたを感じていた気はする。

  繰り返しを、どうするか。繰り返し、何だか間違っていることをして、それに気が付くと少し軌道修正をする。しかし、やっぱり元に戻ってしまう。繰り返しある文章を読むが、どうもわからないところは、同じように繰り返し、そこで止まる。同じ本を、一度読んでまた読むことも、たまにあったが、問題のところに来て、まったく同じように、するするといくところはいって、間違えるところ、わからないところは、前と同じだったいうこと。これがあって、まだ間違えないで、同じところだが、問題が解けたことに驚いたときもあったが、今は、その本も閉じたままで、すぐそばのある本の下に置いてあるが、これを取り出すことがなくなった。

  同じような、繰り返しのような、ことをやっているが、周期的と言えるものもありそうで、その周期の時間が、考えていることの内容が、興味の対象が、異なってゆく。一年が繰り返される。その一年の時間の中で色々なリズムがあるけれど、それを一つの周期と考えると、去年も一昨年も、10年前も同じようなことを、つまり周期的なことをやっているような気がするが、そのリズムのうちの、興味の座標が異なってゆくことも、これももちろんあり得て、それがあってよかったと思うこともあれば、もう少し同じことを、同じリズムでやっていれば、もしかしたら、一段ある次元の変化があったかも知れない。そうゆう期待もあって、同じことを繰り返し繰り返しやってみるのも、やはり悪いというか、変化がないと、簡単には言えないと思う。

  月の周期というのもややこしい。地球を一周すると、お月さんは、また同じところに見えるかというと、これは違うようである。なかなか、パッと確信的な違いを説明できるものが頭に浮ばないが、これは、地球も太陽の周りをまわっていることが関係していること、これは間違いのないことであろう。月は、地球の周りをまわっているが、地球も太陽の周りをまわっていて、座標的には変換されて映る。
  これは、ちょっとやばいところに入りそう。この先に出て来そうなことは自分でもうまく説明が出来そうにない。ここの書き込みも、なんとなく続けてきて、それが一年という周期で大きな動きがある。それから、人の考えも、また環境も年齢もゆっくり変わっていって、自然な変化もあるが、それ以外に何かの変化があってもよさそうで、繰り返しでもいいが、自然な変化以外に、なにか意識的に変えていかないといけないのではないか、という事も思い浮かぶ。これが自然な変化かも知れないが。

  去年から引き続いているもの、もう冬で、本格的な冬が来るといってもよいとき、そこに連続が絶たれるものが多いような気もするけれど、ここにいってみると、まだまだ、フジバカマの姿があった。花もあるときには、さっと刈られてしまうことがあって、この花も同じ運命にあるかと思ったが違った。



  弱いがゆっくりと風が吹いて、ゆらーりこの花も揺れた。それから、しばらくして、いい匂いがしてきたが、周りにそれを発するものもなく、このフジバカマの匂いと思われた。まだ活きている。





  ナンテンの葉の一部。これはここにあるもの。一つの写真の右上の方に当たる。



  上のナンテンの葉の左下の部分。
  このナンテンは、ずいぶんと長く生き続けているようで、さらに何度か大雪の下に埋もれた。私が知っているものでもかなりある。実際はもっと多い。また、何度も枝を切られたはずだが、雪に埋もれようが、切られようが、長い時間を生きてきている。
  それとは別に、このナンテンの葉っぱの出来方、伸び方の対称性がきれいな事も、ここに取り上げた理由がある。

おみくじ問答

2008-01-10 07:24:09 | 散策
  朝のお天気、曇りか晴れ。雨は上がっているようで、ときどきぱらつく。風は少し、穏やか。アメダスの気温3℃台、積雪はゼロ。室温7.5℃。

  先に少し書いておくと、なにか新しいものがあるというわけではありません。
  お正月2日から、近くのスーパにゆく。スーパといいながら、それは昔はかなり大きかったが、今はダイエットに成功して少しやせている。だから私のお腹が出っ張ったともいえるかも。それはいいとして、ちょっとした買い物なのに、なにか派手な色の、封筒みたいのを入れてくれて、しかし特に怪しげでもなくそれをも、持ち帰った。そんなものは見ない。昔からそうなっているが、
  最近は少し変わった。最も、その封のような、袋のようなものを開けた人がいるからで、それならばとその封をみると、開運だの、占いだの、今年の運勢はなど書かれている。さらに、それを作っているメーカの名前もあって、笑ったが、よく見ると、その中の主成分は、何かの飲み物であって、合点がいった。
  肝心の占いというか、おみくじというものがどこにあって、何が書かれているか、探しても見当たらず、ちょっと残念だが、よってここでは、ラジオから、耳から入ってきた話しに、バトンは渡される。

  しかしというか、やっぱりというか、特に新しい、胸踊る内容のものはなく、吉が出て嬉しい、とか、3年連続大吉で、といいながら、去年は財布を落として大騒ぎなど、ほどほどの丸みがあり、また占いというものを正しく捉えているようで、こちらも、なるほどとうなずいてしまう。アナウンサさんもやはりおみくじを引く。おみくじがどうゆう風に作られて、大吉と小吉で、70%を占めるなどの怪情報は無論出てこない。ここは、おみくじを信じる。そして、吉でよかったです、など言う。それから、凶とか、それも大凶など出たときの、カウンタ攻撃のやり方などを少し、これまでの経験を活かして、お話しする。まことに心根の優しい方である。それにしても、おみくじ、宝くじ、年々盛んになる。
  それで、この時期、自分の仕事の進捗に関して、この占いというものが入ってくる。今日の視聴率、ラジオだけど、これが下がったのは、やはり新年、どこどこで引いたおみくじが、凶だったからだ。花が、一輪挿しの花が、倒れてテーブルが水浸しになった。一時的に声を遮断する装置をオフにするのを忘れて、あれれっということがちょっと電波に流れた、これはさすがになく、あったとしても、ボールペンが転がる音ぐらい。これはみな、あのおみくじのせい。おみくじも役に立つ。

  お正月早々、父が風邪を引いたが、どうにか軽症ですんだ。よかった。体は少し震えている。しかし力はある。自分で立つことが出来る。したがって、気に入らないときは、かなりの力で、反発する。この強いこと。きのうなどは、何度も私の名前が出て、このときはもう風邪はなおって少したつが、その力、いつものときより強い。しかし、なかなか食事のテーブルに付いてくれない。力はあるが、うまく立てないことはある。痛いとか言う。最後は、抱きかかえるように、立たせる。これは痛くはなかったのか無言。元気であるのはうれしいが、こちらの思うようにはなかなかいかない。これが、ごく当たり前で、何事も足したり引いたりするとゼロになってしまう、という私の考えは、変わらない。