雨が降っていたような、曇りの時間も多かったような、それでいて、日が沈んだ後に、細い月が見えていたが、これは、予報から前もってわかっていた。どのくらいの月が見えるか、日が沈んでからそのことを思い出して、ある位置を探す。双眼鏡を使ったほうがよさそうで、薄い雲もかかっているし、その辺りを探してみると、太陽光の空の輝きに負けない、白いような、薄っすらとした円弧が見えた。
ようやく月も一周したか、という感じは、これは時計が、右に左に、箪笥の上に、枕元にあるからで、今何時、何月などすぐにわからない時代は、月を見ている人は、多かったかどうか。やっぱり太陽を感じて、日々の暮れかたを感じていた気はする。
繰り返しを、どうするか。繰り返し、何だか間違っていることをして、それに気が付くと少し軌道修正をする。しかし、やっぱり元に戻ってしまう。繰り返しある文章を読むが、どうもわからないところは、同じように繰り返し、そこで止まる。同じ本を、一度読んでまた読むことも、たまにあったが、問題のところに来て、まったく同じように、するするといくところはいって、間違えるところ、わからないところは、前と同じだったいうこと。これがあって、まだ間違えないで、同じところだが、問題が解けたことに驚いたときもあったが、今は、その本も閉じたままで、すぐそばのある本の下に置いてあるが、これを取り出すことがなくなった。
同じような、繰り返しのような、ことをやっているが、周期的と言えるものもありそうで、その周期の時間が、考えていることの内容が、興味の対象が、異なってゆく。一年が繰り返される。その一年の時間の中で色々なリズムがあるけれど、それを一つの周期と考えると、去年も一昨年も、10年前も同じようなことを、つまり周期的なことをやっているような気がするが、そのリズムのうちの、興味の座標が異なってゆくことも、これももちろんあり得て、それがあってよかったと思うこともあれば、もう少し同じことを、同じリズムでやっていれば、もしかしたら、一段ある次元の変化があったかも知れない。そうゆう期待もあって、同じことを繰り返し繰り返しやってみるのも、やはり悪いというか、変化がないと、簡単には言えないと思う。
月の周期というのもややこしい。地球を一周すると、お月さんは、また同じところに見えるかというと、これは違うようである。なかなか、パッと確信的な違いを説明できるものが頭に浮ばないが、これは、地球も太陽の周りをまわっていることが関係していること、これは間違いのないことであろう。月は、地球の周りをまわっているが、地球も太陽の周りをまわっていて、座標的には変換されて映る。
これは、ちょっとやばいところに入りそう。この先に出て来そうなことは自分でもうまく説明が出来そうにない。ここの書き込みも、なんとなく続けてきて、それが一年という周期で大きな動きがある。それから、人の考えも、また環境も年齢もゆっくり変わっていって、自然な変化もあるが、それ以外に何かの変化があってもよさそうで、繰り返しでもいいが、自然な変化以外に、なにか意識的に変えていかないといけないのではないか、という事も思い浮かぶ。これが自然な変化かも知れないが。
去年から引き続いているもの、もう冬で、本格的な冬が来るといってもよいとき、そこに連続が絶たれるものが多いような気もするけれど、ここにいってみると、まだまだ、フジバカマの姿があった。花もあるときには、さっと刈られてしまうことがあって、この花も同じ運命にあるかと思ったが違った。
弱いがゆっくりと風が吹いて、ゆらーりこの花も揺れた。それから、しばらくして、いい匂いがしてきたが、周りにそれを発するものもなく、このフジバカマの匂いと思われた。まだ活きている。
ナンテンの葉の一部。これはここにあるもの。一つの写真の右上の方に当たる。
上のナンテンの葉の左下の部分。
このナンテンは、ずいぶんと長く生き続けているようで、さらに何度か大雪の下に埋もれた。私が知っているものでもかなりある。実際はもっと多い。また、何度も枝を切られたはずだが、雪に埋もれようが、切られようが、長い時間を生きてきている。
それとは別に、このナンテンの葉っぱの出来方、伸び方の対称性がきれいな事も、ここに取り上げた理由がある。
ようやく月も一周したか、という感じは、これは時計が、右に左に、箪笥の上に、枕元にあるからで、今何時、何月などすぐにわからない時代は、月を見ている人は、多かったかどうか。やっぱり太陽を感じて、日々の暮れかたを感じていた気はする。
繰り返しを、どうするか。繰り返し、何だか間違っていることをして、それに気が付くと少し軌道修正をする。しかし、やっぱり元に戻ってしまう。繰り返しある文章を読むが、どうもわからないところは、同じように繰り返し、そこで止まる。同じ本を、一度読んでまた読むことも、たまにあったが、問題のところに来て、まったく同じように、するするといくところはいって、間違えるところ、わからないところは、前と同じだったいうこと。これがあって、まだ間違えないで、同じところだが、問題が解けたことに驚いたときもあったが、今は、その本も閉じたままで、すぐそばのある本の下に置いてあるが、これを取り出すことがなくなった。
同じような、繰り返しのような、ことをやっているが、周期的と言えるものもありそうで、その周期の時間が、考えていることの内容が、興味の対象が、異なってゆく。一年が繰り返される。その一年の時間の中で色々なリズムがあるけれど、それを一つの周期と考えると、去年も一昨年も、10年前も同じようなことを、つまり周期的なことをやっているような気がするが、そのリズムのうちの、興味の座標が異なってゆくことも、これももちろんあり得て、それがあってよかったと思うこともあれば、もう少し同じことを、同じリズムでやっていれば、もしかしたら、一段ある次元の変化があったかも知れない。そうゆう期待もあって、同じことを繰り返し繰り返しやってみるのも、やはり悪いというか、変化がないと、簡単には言えないと思う。
月の周期というのもややこしい。地球を一周すると、お月さんは、また同じところに見えるかというと、これは違うようである。なかなか、パッと確信的な違いを説明できるものが頭に浮ばないが、これは、地球も太陽の周りをまわっていることが関係していること、これは間違いのないことであろう。月は、地球の周りをまわっているが、地球も太陽の周りをまわっていて、座標的には変換されて映る。
これは、ちょっとやばいところに入りそう。この先に出て来そうなことは自分でもうまく説明が出来そうにない。ここの書き込みも、なんとなく続けてきて、それが一年という周期で大きな動きがある。それから、人の考えも、また環境も年齢もゆっくり変わっていって、自然な変化もあるが、それ以外に何かの変化があってもよさそうで、繰り返しでもいいが、自然な変化以外に、なにか意識的に変えていかないといけないのではないか、という事も思い浮かぶ。これが自然な変化かも知れないが。
去年から引き続いているもの、もう冬で、本格的な冬が来るといってもよいとき、そこに連続が絶たれるものが多いような気もするけれど、ここにいってみると、まだまだ、フジバカマの姿があった。花もあるときには、さっと刈られてしまうことがあって、この花も同じ運命にあるかと思ったが違った。
弱いがゆっくりと風が吹いて、ゆらーりこの花も揺れた。それから、しばらくして、いい匂いがしてきたが、周りにそれを発するものもなく、このフジバカマの匂いと思われた。まだ活きている。
ナンテンの葉の一部。これはここにあるもの。一つの写真の右上の方に当たる。
上のナンテンの葉の左下の部分。
このナンテンは、ずいぶんと長く生き続けているようで、さらに何度か大雪の下に埋もれた。私が知っているものでもかなりある。実際はもっと多い。また、何度も枝を切られたはずだが、雪に埋もれようが、切られようが、長い時間を生きてきている。
それとは別に、このナンテンの葉っぱの出来方、伸び方の対称性がきれいな事も、ここに取り上げた理由がある。