お正月は、寒い。それから、お正月を過ぎると、なおのこと寒くなる。お正月は、従って、少し暖まらないといけないが、これも度が過ぎるといけない。ほどほどに暖まる。暖まりすぎてもいけない。これは昔に経験した。
今年のお正月は寒かった。特に寒かったように思う。
元日に入った新聞は、結局第一部を見て、それでおしまい。残りの多くのものは、そのまま新聞入れにというか、新聞の最後の所に収まってしまった。いくらかは、今後も雨風雪でそれを必要とするときがあって、再びある面が上になって、濡れた靴の置き場になる。新聞社というと、これはそこに向かうこともなく、恐らく一生、新聞記者の方と話すこともないようであるが、その紙面の内容と、一旦配られたあと、お金は払っているが、その後の新聞というもののあり方は、無残といっていい感じがする。何かの役に立つ、その一番いい方法は、綺麗に資源回収ゴミとして出すことのようだ。
お正月は少しだれる。ダラっとするが、これも少しはそのお正月の気分を味わわないといけない気もするからで、何となくだが、年々これがひどくなる。それまで溜まっていた、世の出来事に対する不満とか、反発心がなくなってしまう。すると、どうゆうわけか気弱な感じにもなってくる。感傷的になり、朝のTVを見ていると、ほんのちょっとだけど、その、古い石畳や、古刹の映像に涙腺がゆるむ。それにしても、辛気臭いものを流すものである。どこから、こんなものが出てくるのか、これもお正月であるからで、しょうがないかと思う。
その少しあとに、北アで雪崩で何名行方不明、どこどこのなになに町で火事、一家は無事、何町の交差点で交通事故、病院に搬送されるも生命に別状なし、となるわけであるけれど、この感覚は、いかにも不自然であると思える。
お正月というと、こうゆう面では、ある人にとってはガス抜き状態になって、何だか、ご先祖様に近づいた気分にもなるわけだけど、すでに書いてしまったが、ある種のお仕事をされている方にとっては、まさに稼ぎ時となるわけで、寝ずの、徹夜の、仕事が待っているわけで、こっちの方は、そういえば、TVで見ただけで、そのある種の合戦に参加する意思というものも持ち合わせてなかった。
どうもいつもと同じような感じで過ごしていると、気分としては、ヨタヨタという感じになって、このままだと、ホントにこの先どうなるかわからない感じにもなるが、ようやく4日になって、ニュースの時間も平常に戻り、TVも、いつもの感じに戻ると、俄然こんなものはとてもじゃないが見てはいられないという気になる。日ごろの、欲求不満やら、反発心やらも湧いてきて、どうやらいつもの自分に戻ってゆけるような感じにはなってきた。まったくもって、お正月の過ごし方というのも、年々難しくなる。いつもの少しピリピリした自分にうまく戻れるか、もうすこし、辛抱がいる。
寒さに関していうと、ずいぶんと寒いことを書いたのでそれで十分だが、付け加えるとするなら、衣服というのも、年々薄くなって来ていることがあげられる。これは繊維そのものが薄くなってゆくことがあり、それから、おしゃれのセンスがごく普通のものにまで浸透して、やけに薄めに作られている、ということもありそうだ。
今日は少し日が出る状態のときに、このキカラスウリのところにいて、これを眺めた。なかなか渋い色に出来上がっている。元日以外は、ずっと見ている。その前もほぼ見ているが、キカラスウリよりも、この実が絡まっている、梅の花の芽がずっと気になっていた。この寒波で少し色が落ちたが、梅の花芽に目がいってしまう。
全体を出すために少しバックすると、こんな感じである。このままだと、今年も梅の開花は早いかも知れない。喜んでいいのかどうか、わかりません。
今年のお正月は寒かった。特に寒かったように思う。
元日に入った新聞は、結局第一部を見て、それでおしまい。残りの多くのものは、そのまま新聞入れにというか、新聞の最後の所に収まってしまった。いくらかは、今後も雨風雪でそれを必要とするときがあって、再びある面が上になって、濡れた靴の置き場になる。新聞社というと、これはそこに向かうこともなく、恐らく一生、新聞記者の方と話すこともないようであるが、その紙面の内容と、一旦配られたあと、お金は払っているが、その後の新聞というもののあり方は、無残といっていい感じがする。何かの役に立つ、その一番いい方法は、綺麗に資源回収ゴミとして出すことのようだ。
お正月は少しだれる。ダラっとするが、これも少しはそのお正月の気分を味わわないといけない気もするからで、何となくだが、年々これがひどくなる。それまで溜まっていた、世の出来事に対する不満とか、反発心がなくなってしまう。すると、どうゆうわけか気弱な感じにもなってくる。感傷的になり、朝のTVを見ていると、ほんのちょっとだけど、その、古い石畳や、古刹の映像に涙腺がゆるむ。それにしても、辛気臭いものを流すものである。どこから、こんなものが出てくるのか、これもお正月であるからで、しょうがないかと思う。
その少しあとに、北アで雪崩で何名行方不明、どこどこのなになに町で火事、一家は無事、何町の交差点で交通事故、病院に搬送されるも生命に別状なし、となるわけであるけれど、この感覚は、いかにも不自然であると思える。
お正月というと、こうゆう面では、ある人にとってはガス抜き状態になって、何だか、ご先祖様に近づいた気分にもなるわけだけど、すでに書いてしまったが、ある種のお仕事をされている方にとっては、まさに稼ぎ時となるわけで、寝ずの、徹夜の、仕事が待っているわけで、こっちの方は、そういえば、TVで見ただけで、そのある種の合戦に参加する意思というものも持ち合わせてなかった。
どうもいつもと同じような感じで過ごしていると、気分としては、ヨタヨタという感じになって、このままだと、ホントにこの先どうなるかわからない感じにもなるが、ようやく4日になって、ニュースの時間も平常に戻り、TVも、いつもの感じに戻ると、俄然こんなものはとてもじゃないが見てはいられないという気になる。日ごろの、欲求不満やら、反発心やらも湧いてきて、どうやらいつもの自分に戻ってゆけるような感じにはなってきた。まったくもって、お正月の過ごし方というのも、年々難しくなる。いつもの少しピリピリした自分にうまく戻れるか、もうすこし、辛抱がいる。
寒さに関していうと、ずいぶんと寒いことを書いたのでそれで十分だが、付け加えるとするなら、衣服というのも、年々薄くなって来ていることがあげられる。これは繊維そのものが薄くなってゆくことがあり、それから、おしゃれのセンスがごく普通のものにまで浸透して、やけに薄めに作られている、ということもありそうだ。
今日は少し日が出る状態のときに、このキカラスウリのところにいて、これを眺めた。なかなか渋い色に出来上がっている。元日以外は、ずっと見ている。その前もほぼ見ているが、キカラスウリよりも、この実が絡まっている、梅の花の芽がずっと気になっていた。この寒波で少し色が落ちたが、梅の花芽に目がいってしまう。
全体を出すために少しバックすると、こんな感じである。このままだと、今年も梅の開花は早いかも知れない。喜んでいいのかどうか、わかりません。