ほぼ終日雨で、今もほどほどの雨が降り続いている。気温は4℃台が最高のようである。
夢を見ている。眠って早々見ることもあって、大して疲れてはいない証拠かもと思う。これって、どうなのか、正確には判断が出来ない。もう朝という時間はほとんど夢を見ていて、しかし半分はもう目覚めていて、なにがなにやらわからない内容で混乱する。
季節が冬だから、辺りは暗いが新聞が配達される時間は同じだ。その跡が、轍が残っているときもある。雪が降っていると、よくわかる。その数が多いと、これはどうゆうことと思うが。夢は、ほとんど過去のものが登場する。昔のままの自分が出てくるが、そう夢の中では思っている、周りの風景は、そこに登場する人物は、ずいぶんと異なったものになっているはずだが、それが誰かはわかる。でも、その感覚もゆるい、鈍いものである。未来の夢を見ることが出来たらと思う。
本を読んでいて、よみがえる記憶がある。何度も読んでいる本をまた読んだりすると、するともうこの先はわかっている。途中で、止めようかと思ったりもする。もともと、本を読むたちではない。それで、もう何度も読んでいる本を、かなりいい加減に読んでいると、なぜか思い出さなくていいことが思い出される。何かが、脳の固く閉ざされたある扉を開けるようで、あまり面白くない。
物置小屋のようなものがあって、ここに本当の昔のものがまだ置いてある。物持ちがいいのかどうか、何しろゴミがどうだとかいう時代より前のものであるから、それこそ、ゴミそのものも大切であった。今でこそ、大木の木々の葉っぱは、濡れ落ち葉、死語かも知れない、として嫌がられるが、その時代は、ちゃんとした肥料になった。その後だって、杉の葉っぱはちゃんと燃料にもなった。スンバと言って、それでお風呂を沸かした。今は、特にこの寒い冬に、五右衛門風呂など入ることも想像できないし、したくもないが、そうゆう時期もあったのだろう。
昔の高校のテキストが、まだ置かれている。幼少の時に、姉が読んでいた、世界子供文学全集などもあるようだが、今はどうなっているか、それより、さらに古い時代のものあって、しかし、今はどうなっているか、知らない。何しろ、お化けも入らない、逃げてゆく、そうゆう場所である。なぜか太いロープも、梁からつるしてあって、これはおっかないから、わからないようにしてある。
その物置の中に、私のものも少しか、あるいはかなりのものが入っていて、ときにそれらを覗いてみたいと思うこともあるが、やっぱり怖くてねー。
昔、それより、一昔、二昔前までは、ものはずいぶんと大切にされてきて、それが今も眠っているが、それにしても、もう誰もそこに入ろうとしない。こうゆう歴史のあることを知らない人は、さっさと、何事もないように振舞うのだろうけど。
ここにあるものが、もしかして、怪しげな霊気のようなものを発しているの可能性がある。一体、今度、いつその扉が開くときが来るのだろうか。
きのうの、朝は快晴、という様子。日の出の前、
東の空で、人が感じる以上に、空が青く写る。それから、見てのとおりジェット機の描く水蒸気の跡が、下に見える雲と同じく、紅く染まってくれた。この時と同じという写真が、先ほど見た地元の「今日の朝刊」に載っていた。遅れてしまった、でも、用意したから、そのままのせます。この後があって、
もう日が出たのかどうかわからない時間であるが。よく見ると、このファイルに白い筋状のものがあって、これは、先ほどのジェット機のものが移動したのだろうと思う。偶然、太陽の位置にまで流れて、太陽が出す一筋の光条のようである。
空が二つ続いて、苦しいところ、地上の、タンポポの様子。冠毛が、美しく見事だが、これは密と疎なところがあって、何かを象徴しているようでもある。自分の頭の後ろの方を見ている気がする。
夢を見ている。眠って早々見ることもあって、大して疲れてはいない証拠かもと思う。これって、どうなのか、正確には判断が出来ない。もう朝という時間はほとんど夢を見ていて、しかし半分はもう目覚めていて、なにがなにやらわからない内容で混乱する。
季節が冬だから、辺りは暗いが新聞が配達される時間は同じだ。その跡が、轍が残っているときもある。雪が降っていると、よくわかる。その数が多いと、これはどうゆうことと思うが。夢は、ほとんど過去のものが登場する。昔のままの自分が出てくるが、そう夢の中では思っている、周りの風景は、そこに登場する人物は、ずいぶんと異なったものになっているはずだが、それが誰かはわかる。でも、その感覚もゆるい、鈍いものである。未来の夢を見ることが出来たらと思う。
本を読んでいて、よみがえる記憶がある。何度も読んでいる本をまた読んだりすると、するともうこの先はわかっている。途中で、止めようかと思ったりもする。もともと、本を読むたちではない。それで、もう何度も読んでいる本を、かなりいい加減に読んでいると、なぜか思い出さなくていいことが思い出される。何かが、脳の固く閉ざされたある扉を開けるようで、あまり面白くない。
物置小屋のようなものがあって、ここに本当の昔のものがまだ置いてある。物持ちがいいのかどうか、何しろゴミがどうだとかいう時代より前のものであるから、それこそ、ゴミそのものも大切であった。今でこそ、大木の木々の葉っぱは、濡れ落ち葉、死語かも知れない、として嫌がられるが、その時代は、ちゃんとした肥料になった。その後だって、杉の葉っぱはちゃんと燃料にもなった。スンバと言って、それでお風呂を沸かした。今は、特にこの寒い冬に、五右衛門風呂など入ることも想像できないし、したくもないが、そうゆう時期もあったのだろう。
昔の高校のテキストが、まだ置かれている。幼少の時に、姉が読んでいた、世界子供文学全集などもあるようだが、今はどうなっているか、それより、さらに古い時代のものあって、しかし、今はどうなっているか、知らない。何しろ、お化けも入らない、逃げてゆく、そうゆう場所である。なぜか太いロープも、梁からつるしてあって、これはおっかないから、わからないようにしてある。
その物置の中に、私のものも少しか、あるいはかなりのものが入っていて、ときにそれらを覗いてみたいと思うこともあるが、やっぱり怖くてねー。
昔、それより、一昔、二昔前までは、ものはずいぶんと大切にされてきて、それが今も眠っているが、それにしても、もう誰もそこに入ろうとしない。こうゆう歴史のあることを知らない人は、さっさと、何事もないように振舞うのだろうけど。
ここにあるものが、もしかして、怪しげな霊気のようなものを発しているの可能性がある。一体、今度、いつその扉が開くときが来るのだろうか。
きのうの、朝は快晴、という様子。日の出の前、
東の空で、人が感じる以上に、空が青く写る。それから、見てのとおりジェット機の描く水蒸気の跡が、下に見える雲と同じく、紅く染まってくれた。この時と同じという写真が、先ほど見た地元の「今日の朝刊」に載っていた。遅れてしまった、でも、用意したから、そのままのせます。この後があって、
もう日が出たのかどうかわからない時間であるが。よく見ると、このファイルに白い筋状のものがあって、これは、先ほどのジェット機のものが移動したのだろうと思う。偶然、太陽の位置にまで流れて、太陽が出す一筋の光条のようである。
空が二つ続いて、苦しいところ、地上の、タンポポの様子。冠毛が、美しく見事だが、これは密と疎なところがあって、何かを象徴しているようでもある。自分の頭の後ろの方を見ている気がする。