大体きょねんと同じころこの道を歩いているかというとちょっと疑わしい。特殊な事情があって、その道歩きというか道歩きを、中止しないといけないこともあったかも知れず、しかしそうでなく普段どおり、道は歩くは、その道は行かなかったということも考えられる。鶏頭の咲く道があって、これは他にあるかないか、というと、その道に比べてそれより鶏頭に会うという道は、ないようでただ新しい道というのもあるからそこはわからない。でも、鶏頭はどちらかというと、昔からの道にあって、それが今も続いている気がする。
新しい道は、まずは計画があり、それから買収がありで、そんな簡単に道は出来ない、と思う。道は、あるところは出来て、あるところは出来ないまま。でも、それがどこかへつながらなくても、道は使える。この辺りは、鉄道と違う。トンネルが出来ても、また川に鉄橋が架かっても、レールの間に隙間があれば、鉄道にはならない。いろいろ、道にあって、鉄道にある。
道というと、昔の道があって、鶏頭の道はその昔の道に大きさはほぼ変化なくしたがって、細くて広がる可能性はない。何十年とそのままで、小川がそうではなくなった。でも道の広さは同じ。
道についてというと、道にもいろいろで、川の堤防が道であるというのはなかなか楽しく、またその道こそ安心して歩けるところのような気がして、それなりに思い出が出来そうである。その道に橋がかかっていて、その橋は昔だと、木で組み上げたものも多く、増水してその橋は流れて行く。これを直接に見たような気がする。かなり昔だ。その橋の下流にまた橋があって、同じように流れて行く。
でも大きなコンクリートで出来ている橋もあってその橋こそ流れなかったが、ときにあふれるほど水が増えたから、その記憶は消えないものがある。また、よくあると思うが、堤防は昔からあって、それが高くなると、その回りは、地面のほう、堤防より低くなる。天井川の出現で実際はわからないが、堤防とその堤防の上のあるところは主要な路線でもあって、ときどきだがそのあふれそうな、川の流れも思い出すことが出来る。幸いか、堤防がそばで切れたという体験はなく、上流ではあったようだ。
いい道の話しでゆきたいが、道というのは簡単に変わってしまうものだという思いがある。鶏頭の道こそ変化はないが、見て来た土地の風景で、しばらくのうちに変わってしまった、道は多く、それがいかにも不思議である。昔はというと、
バスも曲がることの出来そうにないそうゆうところがあった。これはその当時のバスの運転手さんの技量がいかにすぐれていたかを現わすようで、その後はもっとゆるいカーブになってしまった。道が変わるとすべてが変わってしまうという感じがあって、それは昔の人に言わせると、今まであったこうゆう道は昔はなかったということになる。私自身、こうゆう道は昔はなかった、という思いをやけに若い時期に体験してしまって、こうなると道とは何ぞという気にしきりに襲われることにもなる。
昔ながらというのがいつごろのことというのが問題になる。時代が大掛かりな変革を可能にして、それでよくなったものもあるし、それゆえの何かが失われたものがあって、その何回かの変化の中に自分が位置するわけで、そうゆうことがよくはないとか、昔のあの道はよかったということもおかしなことのようにも思われる。いくつかの道は昔のままで残るようで、そうゆうものの一つに、鶏頭の道があり、他だとどうかというと、この辺りの道も昔のまま。誰がそれを決めるか、決めたのか。
どこかへ出かけるというのもなく、それでもどうゆう道がいいかというと、例えば山道だと、人も出かけないからそのまま残るか消える。高尾山の道、これは東京都の高尾山だけど、昔とは変わっていないようで、それでも磨り減ってはいるだろう。もう少し奥多摩の方に入って、御嶽駅辺りはどうだろうか。その手前から、高水三山のゆるいときにきつい山道が、軍畑からあって、最後に御嶽駅、青梅線の駅だが、あの道は結構に歩いて、それなりに磨り減っていた。最後の御嶽駅の裏の辺りはただの斜面であって滑り損ねそうで、今はどうなっているのか。
筑波山は、双耳峰でそれこそ多くの観光客の方が歩かれて、そうとう磨り減ったという気もするが、山はそれこそ造山運動で盛り上がるというのも考えられる。でも、短いといってもいい知れた時間に例えは10cm単位で年間盛り上がるとなるとこれの方が恐ろしい感じがある。だからやはり筑波山は少しずつ磨り減っているのではと思い、もう少し書くと大体山道は雨になるとそこは川になるので、これまたそこが盛り上がることはなく、磨り減ってというのが普通で、それでも道は残るのだろう。山道こそ今も思い出に残る、迷路であっていい道でもあると思う。
日が強く、鶏頭の赤の色も、ちょっと妙な感もあるが。
鶏頭のモジャモジャ感はいつ見てももう少し何とかならないか。
毎年、変わらずこのように鶏頭の花は出てくる。どのくらいの人が、
この鶏頭の赤い色を眺めたか。
暗めの状態での鶏頭。奥のほうに、あわい光がある。
鶏頭で、ヒガンバナも遠くにある。
鶏頭で、もう一度大写し。鶏頭の最初で、鶏頭は他にも多く咲いていて
また鶏頭以外の花も咲いていて、ここは鶏頭だけで、終わります。
新しい道は、まずは計画があり、それから買収がありで、そんな簡単に道は出来ない、と思う。道は、あるところは出来て、あるところは出来ないまま。でも、それがどこかへつながらなくても、道は使える。この辺りは、鉄道と違う。トンネルが出来ても、また川に鉄橋が架かっても、レールの間に隙間があれば、鉄道にはならない。いろいろ、道にあって、鉄道にある。
道というと、昔の道があって、鶏頭の道はその昔の道に大きさはほぼ変化なくしたがって、細くて広がる可能性はない。何十年とそのままで、小川がそうではなくなった。でも道の広さは同じ。
道についてというと、道にもいろいろで、川の堤防が道であるというのはなかなか楽しく、またその道こそ安心して歩けるところのような気がして、それなりに思い出が出来そうである。その道に橋がかかっていて、その橋は昔だと、木で組み上げたものも多く、増水してその橋は流れて行く。これを直接に見たような気がする。かなり昔だ。その橋の下流にまた橋があって、同じように流れて行く。
でも大きなコンクリートで出来ている橋もあってその橋こそ流れなかったが、ときにあふれるほど水が増えたから、その記憶は消えないものがある。また、よくあると思うが、堤防は昔からあって、それが高くなると、その回りは、地面のほう、堤防より低くなる。天井川の出現で実際はわからないが、堤防とその堤防の上のあるところは主要な路線でもあって、ときどきだがそのあふれそうな、川の流れも思い出すことが出来る。幸いか、堤防がそばで切れたという体験はなく、上流ではあったようだ。
いい道の話しでゆきたいが、道というのは簡単に変わってしまうものだという思いがある。鶏頭の道こそ変化はないが、見て来た土地の風景で、しばらくのうちに変わってしまった、道は多く、それがいかにも不思議である。昔はというと、
バスも曲がることの出来そうにないそうゆうところがあった。これはその当時のバスの運転手さんの技量がいかにすぐれていたかを現わすようで、その後はもっとゆるいカーブになってしまった。道が変わるとすべてが変わってしまうという感じがあって、それは昔の人に言わせると、今まであったこうゆう道は昔はなかったということになる。私自身、こうゆう道は昔はなかった、という思いをやけに若い時期に体験してしまって、こうなると道とは何ぞという気にしきりに襲われることにもなる。
昔ながらというのがいつごろのことというのが問題になる。時代が大掛かりな変革を可能にして、それでよくなったものもあるし、それゆえの何かが失われたものがあって、その何回かの変化の中に自分が位置するわけで、そうゆうことがよくはないとか、昔のあの道はよかったということもおかしなことのようにも思われる。いくつかの道は昔のままで残るようで、そうゆうものの一つに、鶏頭の道があり、他だとどうかというと、この辺りの道も昔のまま。誰がそれを決めるか、決めたのか。
どこかへ出かけるというのもなく、それでもどうゆう道がいいかというと、例えば山道だと、人も出かけないからそのまま残るか消える。高尾山の道、これは東京都の高尾山だけど、昔とは変わっていないようで、それでも磨り減ってはいるだろう。もう少し奥多摩の方に入って、御嶽駅辺りはどうだろうか。その手前から、高水三山のゆるいときにきつい山道が、軍畑からあって、最後に御嶽駅、青梅線の駅だが、あの道は結構に歩いて、それなりに磨り減っていた。最後の御嶽駅の裏の辺りはただの斜面であって滑り損ねそうで、今はどうなっているのか。
筑波山は、双耳峰でそれこそ多くの観光客の方が歩かれて、そうとう磨り減ったという気もするが、山はそれこそ造山運動で盛り上がるというのも考えられる。でも、短いといってもいい知れた時間に例えは10cm単位で年間盛り上がるとなるとこれの方が恐ろしい感じがある。だからやはり筑波山は少しずつ磨り減っているのではと思い、もう少し書くと大体山道は雨になるとそこは川になるので、これまたそこが盛り上がることはなく、磨り減ってというのが普通で、それでも道は残るのだろう。山道こそ今も思い出に残る、迷路であっていい道でもあると思う。
日が強く、鶏頭の赤の色も、ちょっと妙な感もあるが。
鶏頭のモジャモジャ感はいつ見てももう少し何とかならないか。
毎年、変わらずこのように鶏頭の花は出てくる。どのくらいの人が、
この鶏頭の赤い色を眺めたか。
暗めの状態での鶏頭。奥のほうに、あわい光がある。
鶏頭で、ヒガンバナも遠くにある。
鶏頭で、もう一度大写し。鶏頭の最初で、鶏頭は他にも多く咲いていて
また鶏頭以外の花も咲いていて、ここは鶏頭だけで、終わります。