光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

秋の鶏頭の、咲く道

2009-09-17 18:50:27 | 散策
  大体きょねんと同じころこの道を歩いているかというとちょっと疑わしい。特殊な事情があって、その道歩きというか道歩きを、中止しないといけないこともあったかも知れず、しかしそうでなく普段どおり、道は歩くは、その道は行かなかったということも考えられる。鶏頭の咲く道があって、これは他にあるかないか、というと、その道に比べてそれより鶏頭に会うという道は、ないようでただ新しい道というのもあるからそこはわからない。でも、鶏頭はどちらかというと、昔からの道にあって、それが今も続いている気がする。
  新しい道は、まずは計画があり、それから買収がありで、そんな簡単に道は出来ない、と思う。道は、あるところは出来て、あるところは出来ないまま。でも、それがどこかへつながらなくても、道は使える。この辺りは、鉄道と違う。トンネルが出来ても、また川に鉄橋が架かっても、レールの間に隙間があれば、鉄道にはならない。いろいろ、道にあって、鉄道にある。

  道というと、昔の道があって、鶏頭の道はその昔の道に大きさはほぼ変化なくしたがって、細くて広がる可能性はない。何十年とそのままで、小川がそうではなくなった。でも道の広さは同じ。
  道についてというと、道にもいろいろで、川の堤防が道であるというのはなかなか楽しく、またその道こそ安心して歩けるところのような気がして、それなりに思い出が出来そうである。その道に橋がかかっていて、その橋は昔だと、木で組み上げたものも多く、増水してその橋は流れて行く。これを直接に見たような気がする。かなり昔だ。その橋の下流にまた橋があって、同じように流れて行く。
  でも大きなコンクリートで出来ている橋もあってその橋こそ流れなかったが、ときにあふれるほど水が増えたから、その記憶は消えないものがある。また、よくあると思うが、堤防は昔からあって、それが高くなると、その回りは、地面のほう、堤防より低くなる。天井川の出現で実際はわからないが、堤防とその堤防の上のあるところは主要な路線でもあって、ときどきだがそのあふれそうな、川の流れも思い出すことが出来る。幸いか、堤防がそばで切れたという体験はなく、上流ではあったようだ。

  いい道の話しでゆきたいが、道というのは簡単に変わってしまうものだという思いがある。鶏頭の道こそ変化はないが、見て来た土地の風景で、しばらくのうちに変わってしまった、道は多く、それがいかにも不思議である。昔はというと、
  バスも曲がることの出来そうにないそうゆうところがあった。これはその当時のバスの運転手さんの技量がいかにすぐれていたかを現わすようで、その後はもっとゆるいカーブになってしまった。道が変わるとすべてが変わってしまうという感じがあって、それは昔の人に言わせると、今まであったこうゆう道は昔はなかったということになる。私自身、こうゆう道は昔はなかった、という思いをやけに若い時期に体験してしまって、こうなると道とは何ぞという気にしきりに襲われることにもなる。
  
  昔ながらというのがいつごろのことというのが問題になる。時代が大掛かりな変革を可能にして、それでよくなったものもあるし、それゆえの何かが失われたものがあって、その何回かの変化の中に自分が位置するわけで、そうゆうことがよくはないとか、昔のあの道はよかったということもおかしなことのようにも思われる。いくつかの道は昔のままで残るようで、そうゆうものの一つに、鶏頭の道があり、他だとどうかというと、この辺りの道も昔のまま。誰がそれを決めるか、決めたのか。

  どこかへ出かけるというのもなく、それでもどうゆう道がいいかというと、例えば山道だと、人も出かけないからそのまま残るか消える。高尾山の道、これは東京都の高尾山だけど、昔とは変わっていないようで、それでも磨り減ってはいるだろう。もう少し奥多摩の方に入って、御嶽駅辺りはどうだろうか。その手前から、高水三山のゆるいときにきつい山道が、軍畑からあって、最後に御嶽駅、青梅線の駅だが、あの道は結構に歩いて、それなりに磨り減っていた。最後の御嶽駅の裏の辺りはただの斜面であって滑り損ねそうで、今はどうなっているのか。
  筑波山は、双耳峰でそれこそ多くの観光客の方が歩かれて、そうとう磨り減ったという気もするが、山はそれこそ造山運動で盛り上がるというのも考えられる。でも、短いといってもいい知れた時間に例えは10cm単位で年間盛り上がるとなるとこれの方が恐ろしい感じがある。だからやはり筑波山は少しずつ磨り減っているのではと思い、もう少し書くと大体山道は雨になるとそこは川になるので、これまたそこが盛り上がることはなく、磨り減ってというのが普通で、それでも道は残るのだろう。山道こそ今も思い出に残る、迷路であっていい道でもあると思う。





  日が強く、鶏頭の赤の色も、ちょっと妙な感もあるが。




  鶏頭のモジャモジャ感はいつ見てももう少し何とかならないか。




  毎年、変わらずこのように鶏頭の花は出てくる。どのくらいの人が、
  この鶏頭の赤い色を眺めたか。




  暗めの状態での鶏頭。奥のほうに、あわい光がある。




  鶏頭で、ヒガンバナも遠くにある。




  鶏頭で、もう一度大写し。鶏頭の最初で、鶏頭は他にも多く咲いていて
  また鶏頭以外の花も咲いていて、ここは鶏頭だけで、終わります。

朝の空の、月と金星の接近

2009-09-17 16:20:59 | 星空・天体・宇宙
  秋晴れ、秋の風、秋の空気。

  気温もほどほど、それから北風、これもほどほど。
  秋は深まってゆく一方のようで、
  どうなるか。今朝は寒いといってもいいくらいで
  また灯油ヒータを付けた。すぐに消したが、
  しかしこれはが必要になる、時間はもうそこまで
  来ているかも。

  朝の外の気温は14℃台で、これはじっとしていると寒いだろう。
  運動するにはいい。空を見るのは、眠たいか!。

  金星と、細い月が接近して、この様子は少し前にも
  あった。単純な現象だけど、空の大きさが、細い月の
  大きさもわかる現象で、見飽きることはない。




  カメさんの感度を上げて、あとはソフトで、地上の風景が出るように
  している。




  実際は、月はこれよりも細いはずで、露光は月にとっては
  適切ではない。金星も点状には見えないが、肉眼ではあくまでも
  点に見える。




  望遠側、標準よりは長めの玉を使用。月の明るさがより細く見えて
  こちらの方が見た感じに近い。あくまでも、月の形で、それ以上を
  期待するのは無理。




  かなり太陽に近い月と金星だけど、ある程度の大きさを出すと、
  地上からの距離は結構あるから、画像としては冗長な感じがしてしまう。




  月と金星のみ。寂しいねー。それからやはり、月の実際は
  もっと細いはずである。




  明るい、太陽のある、西の空。このくらいの、明るさの差がある。




  ミニカメさんで、補正をマイナスで、最大にして露光時間を稼いでいる。
  (何もしないと、露光時間が長くなり、ぶれるので、露光時間を短くした、
  ということで、「稼いだ」というのは、誤りでした。9月18日)。
  感度は最低のレベルでそれでもギシギシした荒れた、感じがある。




  こちらの方が、露光時間は長く、それゆえ朝の明るさがわかる。
  で、どれが一番肉眼で見たときの空に近いか、
  今それを考えたが、わからない、というのが正直なところ。
  お粗末。  

また一段と冷え込んだ、朝

2009-09-17 06:44:49 | 散策




  朝のお天気は、快晴。ほとんど雲はなく、靄が多少ある程度。風はこれも感じない程度で、煙の動きからは、近くだと西風のようで、隣の街の工場からのそれは、南から北へ、と流れている。薄いパジャマで、しばらく布団から出ていると、寒い。アメダスの6時の気温、14.7℃、4時だと14.6℃である。気圧は1015.8hPa、湿度は83%。室温は、18.7℃、何とも言いがたい温度。

  晴れ続き、放射冷却、好天。いいことがようやく続いて、少し寒い。
  簡単に朝のまだ暗かった時間の星空は見事で、でも寒いというか冷えそうなので、ながくは窓を開けてはいられない。ほどほどに眠らないと、体も持たない。いい加減、眠れない歳みたいな気もするが、昔から牛になるとかいわれるほど眠っていて、その習慣は抜けない。それでも、自然と起きる回数は増えてこれは老化だろう。
  そのときに、いい星空にめぐり合える楽しみもあって、例えば午前も2時半ごろだと、丑三つ時のようだが、冬の星座もすでに東の空に見えていて、月と金星は太陽に近く、まだ登ってこない。それで空は澄み切っているようで、恒星もキラキラと瞬いた。そこに足らないのは、流れ星で、念じることもある。その希望は大体叶えられない。希望を持たないで、空を見ていると、やっぱり流れ星はない。
  どうゆうときにその流れ星は出現するか、意表を衝かれる感じでというのが、一つある。例えば、大彗星が現われる。ホームズ彗星のときも、この星こそ今考えると、星空からのまずはないプレゼントに思える。このホームズ彗星を見ていたときに、東の空からスーッという感じで、割と長くでも1秒はなかった、中天を90度くらい流れ星が、光跡を残した。ホームズ彗星も素晴らしかったが、このときに現われた、流星も巨大で、目をそれこそ半分に切ったような感じがした。

  目覚ましが鳴って起きるというのは、あまりありがたくなく、よって自然と目が開くその時間が目覚ましの時間に近いと、それもまだその時間になっていないことが大切だが、そのときが来て起きた。まだ日は出ていなく、でももう十分空は明るい。今日はまずはゴミを捨てないといけなく、そのための作業をやっていると、ちょうど日が山の端から出たようで、まったくの明るい朝になった。鳥の鳴き声は、モズの少し高い鳴き声があった。
  その少し前まで見えていた、細い月は、太陽の明るさの中に消えている。変わりにでもないが、真っ赤なヒガンバナが咲いている。

  写真:忘れていることはない、ヤマトシジミ。