光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

星空と、コスモスの花

2009-09-16 18:53:54 | 植物・花(秋)
  星空を見るというか、そうゆうときもあるが、それ以外のことを書いて、ときどき星が見えるということを、書くときがあって、それもほとんどが聞いた話しとか、なにかで見た話しでなかなか、それについて書くこともないのが正直なところ。
  光年とかいうと、これは誰でも知っているもので、距離の単位で、光の速さで、それも恐らくは真空の宇宙空間での速さで、1年かかって進むことの出来る距離で、目が回る距離だが、その範囲内に、恒星は太陽を中心にするとそれ以外はないことになっている。だから、その距離は、1秒間に進む光の距離の、60倍であって、それの60倍で、1時間に進む光の距離がある。それの24倍で、一日に進む光の距離がある、となって、
  その先に1年間に進む光の距離が、一つの単位となる。大きすぎるが、それで1光年という単位で測っても、どこにも太陽の周りに恒星はない。なんとも宇宙の広さを知るに十分で、どこもかもが「すかすか」であり、ほとんどなにもない空間が集まっているようで、それで、太陽系が属する銀河系の大きさは、10万光年とかいうから、これは大きく、その中に含まれる質量というのは、想像だに出来ない、という感じである。

  それで、秋の星座の代表的なものに、アンドロメダ座があるが、ここにかすかに見えるという、もう私の目では見えないが、M31という大星雲があるとされる。その星座にあるというより、その方向にあるというのが誤解を招かなく、またその距離はというと、最近は測定の精度の高まりがあるが、約200万光年であるというのは、さほど間違った値ではないと思う。千年くらいの時間の単位では、何となくだが行けるところは知れている。1万年くらいだと、どうだろうか。1万年かかっての宇宙の旅というのが可能になるとすると、そこに街があって、また人も何度となく生まれ変わる必要がある。ありそうで、さてその辺りはどうかというと、銀河系のまだ真ん中あたりで、そこには何もないかも知れない。単位は大きくて小さい。
  それでも、大きな目で見ると、銀河系と、アンドロメダ座にある大星雲、M31は互いに力を感じているらしく、これも聞いた話しだが、遠い将来この二つの銀河は、衝突をし、それから離れ離れになることなく、最後には一つの銀河として、落ち着くようで、それまでにかかる時間は、それこそ想像は可能で、どんな大きな数字よりもその値は小さいが、まずは、実感は出来ないものである。

  子供のときの、星空の様子はというと、大体星そのものを見ているというのは意外と少ないもので、大体が図鑑である。うまく出来ている、そうゆう図鑑があった。星は見ない、さほど見ないというのが正しく、宵の明星探しも他の遊びよりも面白いものではなかったから、いつに星をというものを意識したか、はっきりはしない。しかしそのうちに北極星がどうの、北斗七星がどうの、また白鳥座がどうの、アルビレオがどうのなど言い出すことにもなる。

  1960年台それから70年ごろにかけてというのが結構アマチュアの方、天文愛好家というのも変だが、いろいろその方面のことを熟知されている方が増えて、活躍されていた。いかにも列島に住む人の面目躍如たるものを証明した時代で、それは今も続いているとおもうが、

  まーそうゆうのに比べて、話しにならない、ことを少しだけ書くと、
  たしか1980年代の後半に、ボレリー彗星という星が接近して、簡単に書くと、私はその星を見たことになっている。なっているというのも、証明は出来ないからで、そのボレリー彗星は意外といい条件で、地球に接近するようであって、その当時はそのことの詳しいことも知らないが、雑誌でその位置を確かめ、ほどほどの望遠鏡で、その姿を確認した。それではと、もう少し小さい望遠鏡、口径は半分で、したがって集光力は四分の一になるが、その小さ目の望遠鏡でも、その彗星は、はっきりと見えて、こんなもんかと少しがっかりもした。それだけ、ボレリー彗星ははっきりと見えたのである。
  この彗星のことについては、調べれば何でもわかるし、特に特徴がというのもないようだが、周期は6年くらいで短く、軌道は円に近く、またその軌道傾斜角は大きめで、黄道に対して立っている。

  ボレリー彗星の名前から、文字列、Borrellyを借りて、それを使わせてもらうときもある。

  なんだか、訳のわからないことを書いて、これもコスモスの花と結び付けようとしていることがある。コスモスも、花もあれば、宇宙の意味もあってそれ以外も辞書見るといろいろなことがある。

  以下はコスモスの花、と虫、と空である。






  最初だけ、コスモスは出てこない。やけに黒いというシジミチョウがいて
  しかしこれはヤマトシジミのようだった。




  コスモスの、花にクロウリハムシと思える虫がいて、いよいよ虫も生きるのが
  大変だと思う。きのう見ていた、豆科の植物の横にはちゃんと、マメコガネも
  いてその花は、ムクゲだった。





  いちじかなり数が減った、セセリチョウも見かける。相変わらず高速で
  飛び交って、たまに花に止まる。




  チョウの大小があって、同じイチモンジセセリのような気がするが。




  空を向いて、コスモス、その一。




  空を向いてコスモス、その二。




  今は花よりも、コスモスの花のない状態が主なので、それも一枚。

  明るい空である。

大まかな秋のスケッチ帳

2009-09-16 16:20:23 | 植物・花(秋)
  秋で、午前中秋雨の気配があり、これはもしかして
  午後も雨かと思ったが、それはなかった。
  午後は、大体晴れで、朝の時間とつながった。
  なぜ、今にも泣きそうな曇り空になったのか
  不思議なものだが、

  それ以外にも、ごたごたと言うのは、ちょいちょい
  人の世界にも、小さな「いえ」の中でもあるから、
  お天気の場合だと、もっともな理由があるのだろう。
  それにしても、人と人というのは、わかり合えないという気がするが
  もっともそれが普通かもで、これもさっさと洗い流したほうがいい。


  なにか一本見えると、作業も楽な、ブログになるが
  それが見えないと、時間だけたつ。そうゆうことで
  タイトルも、さっぱり。 





  赤と白の、セージ。セージという花はたくさんあるようで、間違いかも。
  見ていると、赤い花に白い何かが混じっている。花の色に濃淡なく
  ぼんやりとした感じ。




  よくある花、もも色。これはかなり近い距離で、こうなると
  ミニカメの威力がよく発揮される。雨粒が残っている。




  花はハナトラノオのようで、このセセリチョウはやけに黒い。




  シュウメイギク。何度も書いているかも知れないが、この花は
  花の中でももっとも気にいっているかも。春のアネモネもいいが
  このアネモネに似た花は、なおいい。




  重厚な感じ。他のところにもこの花はあるが、まだ咲かないか、
  それかこのお天気で、さっぱりというものも見る。




  ここにある、ヒガンバナ。出てきた。まだまあるい、すると
  ぼんやり感が強く出て、あれあれとなるがもう遅い。




  これもここに生えている、ヒガンバナで近寄れない。一つは露光時間が
  長すぎた、それと合焦点がどこか不明で、これは失敗写真である。
  他もみな同じだった。

月と金星と、日の出

2009-09-16 06:54:53 | 散策




  朝のお天気は、晴れ。快晴の朝で、気温はほどほどに下がって、よく眠れること。快晴で美しい雲があるが、これも快晴のうちで、この雲がないと少し寂しい。風は穏やかで、工場の煙でゆくと、地面の上の風は南風で、弱い。青空も、太陽の色に染まる雲も、風もそれぞれが大体満点。アメダスの6時の気温、16.2℃。気圧は1011.6hPa、湿度は95%。室温は、19.5℃。

  このくらいの温度というのは、いくらでも眠れるようで、もう明るいのに夢を見て眠っていた。この夢の内容が恐ろしいもので、なんでもが消えてゆくという、なにか暗示するものがあった。このスケールの大きさ。人は消えないが、物が消えて、それには建物、巨大なビルディングも含まれていて、また小さなものは買った本とか、その他包装用紙、ビニルシートがあって、それは気色悪い。
  なぜこんな夢を見るか、悪夢に近いものを見るのか、なにかその原因がある、因果というものがある、と思う。そういえば、まだ真っ暗な朝に、
  星空を見た。それがかなり美しく、なかなかない星空で、また月もやけに細く、金色に近い色に輝いていて、全体の空、空全体が、宝石の集まりのように思えた。これが原因かも、とも思う。なにか極限まで美しいものを見ると、その反対のものが、生じるのではないか。そう思うのも、大体物とか、量には保存されるというか、一定であるという自然の法則があって、それでゆくと、星空と月が美しすぎると、反作用で悪夢が生じるような感じがある。それから、もう朝で脳も現実を知れ、といっているのかも知れない。

  それでもう少し時間を遡ると、書いたようにほとんど見ることのないような、快晴の星空があって、このときは目薬を付けたいくらいで、でもそれなしでも十分すぎる美しさがあった。それほど、空が暗く、また透き通っていた。金星もだんだんと太陽に近付きつつあるようで、東の空にある時間も残り少ないように思われる。

  朝日が出た。きのうの夕日の沈むのを見て、今日にまた日が昇るのを見るのは、いい気持ち。それで、その先にというかもう少し高いところに細い月が、もう明るすぎたが見えないか、探したが見えなかった。これはこれでいいと思う。月も空の明るさの中に溶け込んだ。何ごともバランスが大切で、いろいろ書いたがはたしてうまく勘定がゼロになったかどうか、それがわからなくなった。

  写真:晴れの駅の様子で、写っていないが、左側にタオルのようなものが
     落ちていた。