晴れの空が、一転して曇り空に、変わる。予報より早く曇り空が現われて、このままだと明日は、雨は間違いないような気になってきた。雨か。雨もいいが、強い雨だと困るというのも、このごろの雨の降り方は、夏の長雨こそおかしかったけど、今頃降っても正常でなく、豪雨で、また限られたところ、一点集中して降るようだから、それこそたまったものではない。いい加減雨のよさもなくなるものである。四季があってよかったのか、なぜそれでも地球の自転軸は、黄道面に対して傾くのか、この理由というのも、謎の一つで、それを導く理論というのがあるのかどうか。
もっとも、自転軸をまっすぐにというのは、月の引力がその作用をしているという。しかし、その軸をまっすぐにするという、力も、理屈によると、その作業は行なわれないままである。で、これも簡単な理由で、自転軸そのものが、黄道面を回転するという結果を生むから、これまた不可思議で、なぜ地球の自転軸を黄道面に垂直にしないのか、結果としてはそうだ、その理由に、満足を覚えることはない。もっとも、月の引力の働きで、地球の自転軸をまっすぐにするという、そうゆう働きがあることは間違いない。それはわかる。で、地球に海がある。よかった。その水が地面を覆う。このことが、かなり影響を及ぼしているというのも、自転軸云々につながるようで、それにしても、なぜ結果として、自転軸は立たずに、黄道面を回転することになるのか、そうゆうことを考えても、わからないものはわからない。
回転とかいうと、例えば簡単な原子を考えて、それが水素原子であるとして、なぜ電子がその原子核を中心に回転すると、電波が出る、電磁波が放出されるのかというのもわからないもの。で、もっとも、これは古典的な電磁気学の解釈によるもので、それでいくと、エネルギを放出していることになるわけで、最後には電子は原子核に落ち込むという。電波がエネルギを持つというのも、不思議といえば不思議で、でも例えば電気コタツで、赤外線を浴びると、これは無色透明だがたしかに暖かく、熱線で、暖かい水と同じ作用を人に与える。なるほどと思うが、それはわかったとしても、電子が太陽の周りを回る地球のように回転するときに、なぜ電磁波が放出されるのか、は、わからないというのは変わらない。
回転している物体とか、物質とかいうものは理解しがたい性質というか、現象を起こすもので、そちらが物としては本質的な感じがする。その性質も、さて電子が原子核に落ちてはいかない、という現代の科学の本質は、地球の自転軸は回転したままで、それが黄道面に垂直になることはないというのに、似ていると思うが、もっともこれには類似性はないだろう。
いろいろな悩みというのがあって、それを考えて頭を痛めるよりは、この方の出来事の真実に近付くのが面白そうだが、それが多少なりとも前進する可能性はなく、だんだんとなくなってゆく。こうゆうものを理解している人は、一体に何に悩むのか、その方にはその方の悩みがあるのだろう。
そういえば、地球の自転軸がある方向を向くとき、春分になりまた秋分になるが、ちょうど太陽から見ると、自転軸が最大に傾くときがそれに当たるようで、そのときは地球の北極も南極も、ちゃんと太陽の光は照らすので、これこそもっとも劇的な瞬間かも知れない。それ以外は極地に日が同時に当たることはない。
秋分が近づいて、そろそろ星も見やすい時期になってきたと思うが、天候はさえないというか、夏もそうだが、春もそうだったかも知れない、秋もまだ星空も十分に見ていない。さほどそのことを考えることもないが、これだとせっかく星に興味を持って、星座のひとつも覚えてみようと思う方も、これだけ星空がないと、反対方向の地面を見たり海に潜ったりあるいは文字ばかりの、本の世界へと向いてゆく、流れてゆくような感じもして、それは自由だけど、これだけ星空も現われないと、星はどこにあるのかも疑いたくなる。星の世界でも様々な出来事が企画されてしかしそれが天候でうまくゆかなかったというのは、皆既日食もそうだけど、夏の流れ星も、その姿を見ることもなかなかうまくはゆかなかったようだ。
これも地球温暖化の候のせいなのか。
地面に、ヒガンバナは出てきた。何とも素直な花でいうことなしである。それから、コスモスもだめそうで、少しずつ花は咲いている。コスモスねー、いろいろ意味深いものがあるようで、それに込められる期待も多いのかも知れない。
花のコスモスというのは出て来たというか、気になりだしたのはどちらかというとこの花も最近で、例えば昔からあった、アサガオとかと比べると、知るというか、興味を持つのは今にかなり近い感じがする。秋の七草もこれは逆に遠くなりすぎて、知らないものが多くこれは本の世界とか文字の世界の生き物、のようである。
朝のヒガンバナ。光は暗め。
ヒガンバナは、やはり朝がいい。
後にもう一つ咲いている。二つかも。
一日で、かなり変化がある。他の場所は、わからないところになった。
ボチボチ、コスモスも花を付ける。
明るいところと暗めのところが出来ていて、明暗はさほど現われない。
ぼんやりとした、像があって、白い花に合焦している。
同じようで、違うのはほどほどの風があったからで、このわずかな
違いが出るやさしい風が吹いていたのかと思う。
もっとも、自転軸をまっすぐにというのは、月の引力がその作用をしているという。しかし、その軸をまっすぐにするという、力も、理屈によると、その作業は行なわれないままである。で、これも簡単な理由で、自転軸そのものが、黄道面を回転するという結果を生むから、これまた不可思議で、なぜ地球の自転軸を黄道面に垂直にしないのか、結果としてはそうだ、その理由に、満足を覚えることはない。もっとも、月の引力の働きで、地球の自転軸をまっすぐにするという、そうゆう働きがあることは間違いない。それはわかる。で、地球に海がある。よかった。その水が地面を覆う。このことが、かなり影響を及ぼしているというのも、自転軸云々につながるようで、それにしても、なぜ結果として、自転軸は立たずに、黄道面を回転することになるのか、そうゆうことを考えても、わからないものはわからない。
回転とかいうと、例えば簡単な原子を考えて、それが水素原子であるとして、なぜ電子がその原子核を中心に回転すると、電波が出る、電磁波が放出されるのかというのもわからないもの。で、もっとも、これは古典的な電磁気学の解釈によるもので、それでいくと、エネルギを放出していることになるわけで、最後には電子は原子核に落ち込むという。電波がエネルギを持つというのも、不思議といえば不思議で、でも例えば電気コタツで、赤外線を浴びると、これは無色透明だがたしかに暖かく、熱線で、暖かい水と同じ作用を人に与える。なるほどと思うが、それはわかったとしても、電子が太陽の周りを回る地球のように回転するときに、なぜ電磁波が放出されるのか、は、わからないというのは変わらない。
回転している物体とか、物質とかいうものは理解しがたい性質というか、現象を起こすもので、そちらが物としては本質的な感じがする。その性質も、さて電子が原子核に落ちてはいかない、という現代の科学の本質は、地球の自転軸は回転したままで、それが黄道面に垂直になることはないというのに、似ていると思うが、もっともこれには類似性はないだろう。
いろいろな悩みというのがあって、それを考えて頭を痛めるよりは、この方の出来事の真実に近付くのが面白そうだが、それが多少なりとも前進する可能性はなく、だんだんとなくなってゆく。こうゆうものを理解している人は、一体に何に悩むのか、その方にはその方の悩みがあるのだろう。
そういえば、地球の自転軸がある方向を向くとき、春分になりまた秋分になるが、ちょうど太陽から見ると、自転軸が最大に傾くときがそれに当たるようで、そのときは地球の北極も南極も、ちゃんと太陽の光は照らすので、これこそもっとも劇的な瞬間かも知れない。それ以外は極地に日が同時に当たることはない。
秋分が近づいて、そろそろ星も見やすい時期になってきたと思うが、天候はさえないというか、夏もそうだが、春もそうだったかも知れない、秋もまだ星空も十分に見ていない。さほどそのことを考えることもないが、これだとせっかく星に興味を持って、星座のひとつも覚えてみようと思う方も、これだけ星空がないと、反対方向の地面を見たり海に潜ったりあるいは文字ばかりの、本の世界へと向いてゆく、流れてゆくような感じもして、それは自由だけど、これだけ星空も現われないと、星はどこにあるのかも疑いたくなる。星の世界でも様々な出来事が企画されてしかしそれが天候でうまくゆかなかったというのは、皆既日食もそうだけど、夏の流れ星も、その姿を見ることもなかなかうまくはゆかなかったようだ。
これも地球温暖化の候のせいなのか。
地面に、ヒガンバナは出てきた。何とも素直な花でいうことなしである。それから、コスモスもだめそうで、少しずつ花は咲いている。コスモスねー、いろいろ意味深いものがあるようで、それに込められる期待も多いのかも知れない。
花のコスモスというのは出て来たというか、気になりだしたのはどちらかというとこの花も最近で、例えば昔からあった、アサガオとかと比べると、知るというか、興味を持つのは今にかなり近い感じがする。秋の七草もこれは逆に遠くなりすぎて、知らないものが多くこれは本の世界とか文字の世界の生き物、のようである。
朝のヒガンバナ。光は暗め。
ヒガンバナは、やはり朝がいい。
後にもう一つ咲いている。二つかも。
一日で、かなり変化がある。他の場所は、わからないところになった。
ボチボチ、コスモスも花を付ける。
明るいところと暗めのところが出来ていて、明暗はさほど現われない。
ぼんやりとした、像があって、白い花に合焦している。
同じようで、違うのはほどほどの風があったからで、このわずかな
違いが出るやさしい風が吹いていたのかと思う。