ホタルの光ったときの、話しというのがあって、これは昔話しだけど、本当の
ことで、そのホタルは、昔のここからすぐそばにある田んぼか、あるいは空き地か、
草むらで光っていて、それをどのようにして取ったか、恐らくは団扇か何かという
気がする。虫取りの網などはない。手でつかんだということも考えられる。どこかの
川に落ちる可能性というのはなかったようだ。そうゆう記憶はない。昔だから、
川は小さく、水は澄んでいてそれからイトトンボなどもいたようだが、特にそうゆう
ものは他でもいた。それからヤンマとかのトンボもここにもいたようで、でも他で
もいたので、特にそれは珍しくはない。
水の澄んだ小川というのは珍しく、子供心にもなんて汚い、川というか、水の
流れがあるのだろう。水も流れていない、ただ灰色の、水の流れもない、でもアメ
リカザリガニはいるという、関西の都会の端っこに住んでいて、その汚い水の流れ
に比べると、ここのきれいな小川というのが、いかにもすばらしく思えた。汚いながら、
それでもヤンマやオニヤンマはいてハグロトンボもいてイトトンボもいた。
つまり汚いところときれいなところは、大阪の、ある町、市でもあって、誰でも知って
いるものがある町は、昔のものが懐かしく、今はその何か、わかるものがあるか、
そうゆうものはもうないだろうと思う。
まだ、ホタルのいた昔のここの話しに戻ると、ホタルは緑の光を発して、これは
夜暗くならないとさすがに見えない。道の横に小川はあるが、それは何かの光を反射
してそれで、いつの間にかどこかへと消えて、そこに田んぼがあって、緑の色がほど
ほどの数飛んでいたのではないか。きらびやかに、無数のホタルが舞うことはない、
と思う。記憶の中でも、そのホタルが田んぼの辺りで空中を舞うよりも、それを
取ってくれた、多分父だろうが、それを牛乳瓶に入れて、草の一切れも入れて持ち帰り、
後は蚊帳の中で、それを見て楽しんだ。はずで、大阪の町のはずれにその光る緑は
なかったからそのときだけ、興奮もし、それで翌日になると、そのホタルはどこに
いるのかわからないという感じもあった。それで、一日たつともうホタルの光は
どこにいったのか全くなく、それでもうホタルのことも忘れてしまうという感じで
はなかったか。ホタルが光るのは面白いし、しかしその当時そこに住んでいた人、
子どもであろうと大人だろうと、それに興味がある人は少なかった。それが当たり
前だったからで、風物詩でもなんでもなかった。ヤンマがいて、オニヤンマがいて
さらに青大将がいて、蚊帳で眠るのが当たり前で、蚊帳はかなり長い間その後も
使われていたと思う。そうゆうものをぶら下げるための、鍵も付いていたのであろう。
蚊帳は、一種の閉塞した空間で、しかし向こうが透けて見えるから、閉所恐怖
など全くなく、子供がいろいろ狭いところに閉じこもって遊ぶ今の時代と同じ感覚
があるのではないか。そのうち、いい年になるとまた閉所というか自分の部屋とかいう
ものが出てくるがこれは、閉所とかの恐怖とか蚊帳の楽しみとは、かなり次元の違う
ものがある。なんで、蚊帳の中はあれほど楽しいのか、自分でもわからない。安心
感があるのかも知れないが、もっと本能的なものを刺激するのかも知れない。この方が
きっと説得力がある。全く今は、ホタルは見ない。そうゆうものを見なくなって、どの
くらいの時間がたつか。すでに一人で、遊びに来ていた当時となると、もう虫が
どうのこうのはなかった。ただ、時間だけがあって、当時の学生の時間の使い方でも
特殊な方になるのではないかとその後なんども思った。昼寝もして、長い時間
眠って、一冊の本を読んだかどうか、考え方によれば何をしていたという気もする。
もう少し、ホタルがいたころに戻ると、笹舟というのを作った。これを作って
くれたのは多分祖母で、それから笹笛とかいうものもあった気がする。その時代
も今も時代も、子供は同じように過ごしていて、片やケータイの時代だから、どう
なのか。でも、笹笛は今も鳴らないが、それを鳴らす子供は今もいる。
ホタルがなぜ緑の光を発するか、あるいはホタルイカもどうゆう理屈でああゆう
青い、神秘的な光を出すか、これはもうかなり昔に解明されていて、それに対して
不思議感はないが、ただ光の調節とか、なぜ光が必要にというのは疑問として残る
のではないか。前者は解明の可能性があるし、もうされているのかも知れないが、
滅多なことで可視光を発生する生き物はなく、また人もそれに似た、光を反射するものを
付けたりするもの、不思議といえば不思議。
きのうの夕日がなかなかきれいで、光のことを考えて、頭に今頃ホタルが浮か
んだ。それから、ススキ、まあるいススキも一度出たが、これこそ、かなり強い光
にさらされて、その穂が光って見えた。
明るく、ススキの透過光は遠くからもわかって、また少し早歩きになる。
何がどうなってというのはわからないが、光と、ススキの穂の構造から、光
そのものが、何か波の働きを発現して、結果、キラキラが出るのではないか。
真ん丸いススキが光って見えるというのも、言い過ぎではないように、思うけれど。
きのうの夕日、その一。
きのうの夕日、その二。
透明な空に、だんだんと真西に近付く太陽が沈んでゆく。
鶏頭の花も、紅色で、しかしこれは真昼間で、なんだか夕景とは
あわないかも知れない。
ことで、そのホタルは、昔のここからすぐそばにある田んぼか、あるいは空き地か、
草むらで光っていて、それをどのようにして取ったか、恐らくは団扇か何かという
気がする。虫取りの網などはない。手でつかんだということも考えられる。どこかの
川に落ちる可能性というのはなかったようだ。そうゆう記憶はない。昔だから、
川は小さく、水は澄んでいてそれからイトトンボなどもいたようだが、特にそうゆう
ものは他でもいた。それからヤンマとかのトンボもここにもいたようで、でも他で
もいたので、特にそれは珍しくはない。
水の澄んだ小川というのは珍しく、子供心にもなんて汚い、川というか、水の
流れがあるのだろう。水も流れていない、ただ灰色の、水の流れもない、でもアメ
リカザリガニはいるという、関西の都会の端っこに住んでいて、その汚い水の流れ
に比べると、ここのきれいな小川というのが、いかにもすばらしく思えた。汚いながら、
それでもヤンマやオニヤンマはいてハグロトンボもいてイトトンボもいた。
つまり汚いところときれいなところは、大阪の、ある町、市でもあって、誰でも知って
いるものがある町は、昔のものが懐かしく、今はその何か、わかるものがあるか、
そうゆうものはもうないだろうと思う。
まだ、ホタルのいた昔のここの話しに戻ると、ホタルは緑の光を発して、これは
夜暗くならないとさすがに見えない。道の横に小川はあるが、それは何かの光を反射
してそれで、いつの間にかどこかへと消えて、そこに田んぼがあって、緑の色がほど
ほどの数飛んでいたのではないか。きらびやかに、無数のホタルが舞うことはない、
と思う。記憶の中でも、そのホタルが田んぼの辺りで空中を舞うよりも、それを
取ってくれた、多分父だろうが、それを牛乳瓶に入れて、草の一切れも入れて持ち帰り、
後は蚊帳の中で、それを見て楽しんだ。はずで、大阪の町のはずれにその光る緑は
なかったからそのときだけ、興奮もし、それで翌日になると、そのホタルはどこに
いるのかわからないという感じもあった。それで、一日たつともうホタルの光は
どこにいったのか全くなく、それでもうホタルのことも忘れてしまうという感じで
はなかったか。ホタルが光るのは面白いし、しかしその当時そこに住んでいた人、
子どもであろうと大人だろうと、それに興味がある人は少なかった。それが当たり
前だったからで、風物詩でもなんでもなかった。ヤンマがいて、オニヤンマがいて
さらに青大将がいて、蚊帳で眠るのが当たり前で、蚊帳はかなり長い間その後も
使われていたと思う。そうゆうものをぶら下げるための、鍵も付いていたのであろう。
蚊帳は、一種の閉塞した空間で、しかし向こうが透けて見えるから、閉所恐怖
など全くなく、子供がいろいろ狭いところに閉じこもって遊ぶ今の時代と同じ感覚
があるのではないか。そのうち、いい年になるとまた閉所というか自分の部屋とかいう
ものが出てくるがこれは、閉所とかの恐怖とか蚊帳の楽しみとは、かなり次元の違う
ものがある。なんで、蚊帳の中はあれほど楽しいのか、自分でもわからない。安心
感があるのかも知れないが、もっと本能的なものを刺激するのかも知れない。この方が
きっと説得力がある。全く今は、ホタルは見ない。そうゆうものを見なくなって、どの
くらいの時間がたつか。すでに一人で、遊びに来ていた当時となると、もう虫が
どうのこうのはなかった。ただ、時間だけがあって、当時の学生の時間の使い方でも
特殊な方になるのではないかとその後なんども思った。昼寝もして、長い時間
眠って、一冊の本を読んだかどうか、考え方によれば何をしていたという気もする。
もう少し、ホタルがいたころに戻ると、笹舟というのを作った。これを作って
くれたのは多分祖母で、それから笹笛とかいうものもあった気がする。その時代
も今も時代も、子供は同じように過ごしていて、片やケータイの時代だから、どう
なのか。でも、笹笛は今も鳴らないが、それを鳴らす子供は今もいる。
ホタルがなぜ緑の光を発するか、あるいはホタルイカもどうゆう理屈でああゆう
青い、神秘的な光を出すか、これはもうかなり昔に解明されていて、それに対して
不思議感はないが、ただ光の調節とか、なぜ光が必要にというのは疑問として残る
のではないか。前者は解明の可能性があるし、もうされているのかも知れないが、
滅多なことで可視光を発生する生き物はなく、また人もそれに似た、光を反射するものを
付けたりするもの、不思議といえば不思議。
きのうの夕日がなかなかきれいで、光のことを考えて、頭に今頃ホタルが浮か
んだ。それから、ススキ、まあるいススキも一度出たが、これこそ、かなり強い光
にさらされて、その穂が光って見えた。
明るく、ススキの透過光は遠くからもわかって、また少し早歩きになる。
何がどうなってというのはわからないが、光と、ススキの穂の構造から、光
そのものが、何か波の働きを発現して、結果、キラキラが出るのではないか。
真ん丸いススキが光って見えるというのも、言い過ぎではないように、思うけれど。
きのうの夕日、その一。
きのうの夕日、その二。
透明な空に、だんだんと真西に近付く太陽が沈んでゆく。
鶏頭の花も、紅色で、しかしこれは真昼間で、なんだか夕景とは
あわないかも知れない。