秋そのもので、きょうも残暑はなかった。ありがたい反面、何にもやっていないという、気持ちに襲われて、せめて読書とか思う。読めない本も、多いが昔の本も多く、つまり買ったはいいが読んでいない。これはいいと思うと、何度か読み直す、というか、新たな気分で、初めて読む気分で読むと、その感じが全く初めて読むもののようで、少しだけ漢字にルビが振ってあるから、読みやすい。でも、途中からそれもないとすると、またそのときはもうわかっているから、一々振り仮名もつけない。それで大丈夫だったが、今読み直すと、やっぱりわからなく古びた漢和辞典が必要になる。ルビ振ってって、大きな声で言えないしなー。
最近は、もうPR誌も読まないというか、来たことは来た。そのまま積んであって、袋も破らないでいる。一冊は、この前3年分の料金を前払いした。なんだかいい気分だが、太っ腹ではない。お腹は出ているが、そのほうは太いが、お金はないから、PR誌でいいし、それでその本を見て、本を注文するかというと、それもない。もう少し本にお金を使うべきだというのが持論だけど、それに反してデジものには気楽にぽいぽいお金を捨てているようなで、これの我慢がストレスになる。本を買わないストレスというのもあっていいが、そうゆうものはあるようでないし、買ってはずれの本というと、これも痛ましい。
TVも見ないといけない。これはデジTVを購入したからで、最近は土曜は、パン君を見ている。なんだか嬉しくなってくる。それ以外は特にない。で本のこと、
ここではPR誌のことに戻ると、今月の『ちくま』に、新書についての、本屋さんの方の意見というか、持論が出ていて如何に本を売るのがむつかしいか、よくわかった。売れ筋はやっぱりあって、しかし最終的には、なんで決まるかというと、中身なのであって、これは昔から変わらないのである。もっとも、その書店というのも、大手の、大書店とも言うべきところであって、本を売ることにもともとさほど問題はない、というと変だが、あそこの本屋さんに行けばいい、という信用もある。この辺は一般的な本屋さんには当てはまらない。だから、おいそれと同じことが地方とか、田舎とか、もっというと街の小さな本屋さんに当てはまるかというと、そうではないというものがある。大体、ここに出られる本屋さん、書店の方々は、読書家で、それこそ出版社の人と同じような、感覚で本というものを捉えているようである。だから、
本を出す方も、どちらかというとタジタジのようで、まことにこのPR誌としては、痛いところを付かれているという気がして、それをそのまま出すのにも、また大いに勇気が必要な感じがあったと思う。何を言っているのか、このどこのものとも知れない、やろうがと、本屋さんも、出版社の方も思うだろうが、大体私は買うほうであるから、多少は我慢をしないといけないだろう。
売れない本を作る、というのも大切で、大体専門書は売れない。もともとむつかしいものは売れないか、というと、これは本箱に納まるからそうでもない。買っておいて、その後売れるということもある。これはかなり本筋からずれているが、買う方は読めないといけない。途中で放り出してもいいから読めないとという気持ちもあるし、ない知恵でどこまでの人が読めるか、そうゆうことは常に考えられないといけないだろう。それは本屋さんとか出版社の方々の仕事の領域を超えているかも知れない。それでも、欲しいという本がない、という現象もあって、この議論でもない話しに終りはないか。
すべての本が並ぶ本屋さんがあると大体人は卒倒する。どうゆう本がいいか、これこそ本屋さん、書店の方々の腕の見せ所でもあるようである。こうなると、書店の方々の読書というのは、無限にあって、寝ている暇、飯を食べている暇もないか。PR誌の一部を、TVを見ずに、見てそう思った。
秋が大きいとか、小さいとか、その感じがよくわかることしだけど、秋の花らしいもの、秋の花そのものも咲いていて、この夏のそれと似ているものもあれば、今頃正統的に出てくるものもある。
何度か出てくる、小さめのもも色か紫かの花で、ちょうど曇り空で
花の様子がよくわかる。
ことしは、夏も遅くに白い花を咲かせた、キカラスウリ。これは、
きょねんはなかったところで、一昨年だとあったというところのもので
多分、キカラスウリに違いなく、よく見ると葉の下に大きな実が隠れている。
まだ咲いていない、蕾があってこれこそ秋の花。
春のアネモネにも似ている花が咲くはずだが。
この白い花も、群生もこのようにパラパラも咲くようであちこちで
見かける。花のネットのライブラリを参考に似たものを探すと、
タマスダレが近く、この楚々とした感じは秀逸。
忘れそうな名前の花。でも出てきた。シュウメイギクだと思うが。
花の様子も見た目以上に手が込んでいる感じ。
アネモネの花にたしかに似ていて、これを見ていると心も落ち着くし
ゆったりとしたやさしさがあふれている気がする。
3枚目の、蕾の花は、このシュウメイギクだと思うが。
最近は、もうPR誌も読まないというか、来たことは来た。そのまま積んであって、袋も破らないでいる。一冊は、この前3年分の料金を前払いした。なんだかいい気分だが、太っ腹ではない。お腹は出ているが、そのほうは太いが、お金はないから、PR誌でいいし、それでその本を見て、本を注文するかというと、それもない。もう少し本にお金を使うべきだというのが持論だけど、それに反してデジものには気楽にぽいぽいお金を捨てているようなで、これの我慢がストレスになる。本を買わないストレスというのもあっていいが、そうゆうものはあるようでないし、買ってはずれの本というと、これも痛ましい。
TVも見ないといけない。これはデジTVを購入したからで、最近は土曜は、パン君を見ている。なんだか嬉しくなってくる。それ以外は特にない。で本のこと、
ここではPR誌のことに戻ると、今月の『ちくま』に、新書についての、本屋さんの方の意見というか、持論が出ていて如何に本を売るのがむつかしいか、よくわかった。売れ筋はやっぱりあって、しかし最終的には、なんで決まるかというと、中身なのであって、これは昔から変わらないのである。もっとも、その書店というのも、大手の、大書店とも言うべきところであって、本を売ることにもともとさほど問題はない、というと変だが、あそこの本屋さんに行けばいい、という信用もある。この辺は一般的な本屋さんには当てはまらない。だから、おいそれと同じことが地方とか、田舎とか、もっというと街の小さな本屋さんに当てはまるかというと、そうではないというものがある。大体、ここに出られる本屋さん、書店の方々は、読書家で、それこそ出版社の人と同じような、感覚で本というものを捉えているようである。だから、
本を出す方も、どちらかというとタジタジのようで、まことにこのPR誌としては、痛いところを付かれているという気がして、それをそのまま出すのにも、また大いに勇気が必要な感じがあったと思う。何を言っているのか、このどこのものとも知れない、やろうがと、本屋さんも、出版社の方も思うだろうが、大体私は買うほうであるから、多少は我慢をしないといけないだろう。
売れない本を作る、というのも大切で、大体専門書は売れない。もともとむつかしいものは売れないか、というと、これは本箱に納まるからそうでもない。買っておいて、その後売れるということもある。これはかなり本筋からずれているが、買う方は読めないといけない。途中で放り出してもいいから読めないとという気持ちもあるし、ない知恵でどこまでの人が読めるか、そうゆうことは常に考えられないといけないだろう。それは本屋さんとか出版社の方々の仕事の領域を超えているかも知れない。それでも、欲しいという本がない、という現象もあって、この議論でもない話しに終りはないか。
すべての本が並ぶ本屋さんがあると大体人は卒倒する。どうゆう本がいいか、これこそ本屋さん、書店の方々の腕の見せ所でもあるようである。こうなると、書店の方々の読書というのは、無限にあって、寝ている暇、飯を食べている暇もないか。PR誌の一部を、TVを見ずに、見てそう思った。
秋が大きいとか、小さいとか、その感じがよくわかることしだけど、秋の花らしいもの、秋の花そのものも咲いていて、この夏のそれと似ているものもあれば、今頃正統的に出てくるものもある。
何度か出てくる、小さめのもも色か紫かの花で、ちょうど曇り空で
花の様子がよくわかる。
ことしは、夏も遅くに白い花を咲かせた、キカラスウリ。これは、
きょねんはなかったところで、一昨年だとあったというところのもので
多分、キカラスウリに違いなく、よく見ると葉の下に大きな実が隠れている。
まだ咲いていない、蕾があってこれこそ秋の花。
春のアネモネにも似ている花が咲くはずだが。
この白い花も、群生もこのようにパラパラも咲くようであちこちで
見かける。花のネットのライブラリを参考に似たものを探すと、
タマスダレが近く、この楚々とした感じは秀逸。
忘れそうな名前の花。でも出てきた。シュウメイギクだと思うが。
花の様子も見た目以上に手が込んでいる感じ。
アネモネの花にたしかに似ていて、これを見ていると心も落ち着くし
ゆったりとしたやさしさがあふれている気がする。
3枚目の、蕾の花は、このシュウメイギクだと思うが。