10 夏の雪
夜。
窓の外で一匹の蛾が羽音をたてている。いや、蛾の羽音はきこえているのだろうか。き
こえてはいない。幻聴だ。羽ばたきするたびに鱗粉が降るように撒き散らされ、閉ざされ
た窓ガラスにこびりつく。その動きは部屋の白い壁に拡大されて投影されている。羽ばた
く蛾のかなたにある街灯の光の効果なのだろう。鱗翅目からでる鱗粉が夏の雪のように見
える。幻視だ。これはイメージだ。壁の蛾はまるで黒く巨大な吸血コウモリのようにみえ
る。夜。夏の月と星の光芒。銀河。
部屋の調度品は不吉に影を宿している。桃代が寝どこのまんなかで寝息をたてている。
――ねえ。妻がまだ起きていた。
――つぶしてしまって。蛾をツブシテ。気になって眠れないの。
妻が……一方的に言葉をつづける。……沈黙するつもりはなかつた。壁に描かれる黒白
の濃淡模様を眺めていると、拒絶と受けとったのか、キンチョ―ル家庭用殺虫剤の噴霧器をもって妻が部屋をでていく。
桃代が英語でネゴトをつぶやく。聖母幼稚園で英語のお勉強をしている夢をみているのだ。……静かな祈りの言葉のようだ。ホホに擦過傷がある。母に邪険におしとばされたときにできたものだ。表皮が5ミリ幅で2センチほど剥離していた。アカチンキがホホいっぱいに、わざとらしく、オオゲサにぬられていた。キズの殺菌消毒ならマキロンでもいいのに、おおげさに赤が目立つアカチンをどうしてつけたのだ。桃代は汗をかいている。枕カバーまで赤くそまってしまった。妻はまだそれには気づいていない。ぼくはこのことを妻には告げないだろう。また、さきほどのようなキマズイおもいはしたくない。
やがて、噴霧音。
そして、音のした方角をふりかえる。喉もとから血をふいて妻が倒れている。あれは、蛾ではなく吸血コウモリだったのか? 咬まれたのか。これはマボロシダ。幻視だ。マボロシダ。幻だ、ととなえているとゆるやかに視野がもとにもどってきた。
蛾は窓ガラスにへばりついている。動かない。喉のあたりに、まだ噴霧器をかまえたままの、嫌悪にゆがんだ顔。
彼女の体が窓ガラスの向こう側にある。
目でぼくを呼んでいる。
また次の夜。
昨夜の蛾はまだ窓ガラスに止まっている。いや、動かない。へばりついたまま死んでいるのだろう。ミチコはベランダにでている。ぼくは彼女にいわれたことをまだやっていない。そんなことはじぶんでやればいいのに、ぼくを呼びつづけている。窓ガラスを指で叩いている。
ぼくは小説を書かなければと白紙に向かっていた。言葉、たとえ一行、たてとえ単語であっても書かなければと――言葉とは疎遠なこの日常からぬけださなくてはと、意欲をこめた視線のさきで……まだ白紙のままの原稿用紙を机の上に残して、しかたなくベランダにでる。こんなことなら、初めからぼくがやればよかつた。夏の星ぼしの光芒はない。ぼってりと雨を宿した暗雲がいま上空にある。空の果てで、かすかに、ときおり稲妻が光る。その光を「空の珊瑚」ととらえたぼくの感性はどこにいってしまったのだ。
銀河はみられない。日照時間に支配される。天気あいての乾燥作業だ。明日は雨になれば休める。小説をいまから書きだせばかなり量産できるだろう。想像したとおりの夜空だ。
――明日は、雨、カシラ。
ぼくは、妻に目で呼ばれた用件を果たした。昨夜の蛾がまだへばりついていた。ガラス窓から、もってきたクリネックス・ティシューで蛾の死骸をつまみとる。ガラスはなんの痕跡ものこらないようにきれいに拭きとる。こんなことなら、昨夜……目で呼ばれたときにやっておけばよかった。
小説を書きだそうとしていたのに――中途挫折、あわれな望み、果たされなかった意気ごみの残滓を胸に秘めぼくは五段あるベランダの階段の一番下に座る。
――あすは雨になるわ。
妻が華やいだ声でいう。上のほう、ベランダから声はふってくる。
――ねえ、あなたすこし働きすぎるわ。仕事の量を減らすことをかんがえたら。
――それで生活できたら、むろん、そうしている。
――医療費の支払いがおおすぎるのよ。サラリーマンの一月分ですものね。
――桃代はよく寝ている。今夜は夜泣きしないでしょうね。
ぼくが返事をしないでいると彼女は階段を下り、寝室をのぞきこむ。肩を寄せあった二人の影が壁に映る。外灯がぼくの背後から射しているので、影は拡大され部屋が陰ってしまう。翳りの底で、桃代はスヤスヤ寝ている。寝息まできこえるようだ。
――あ、す、は……きっと、雨よ。すこし休むといいわ。この前、雨が降って仕事休んだのは、いつだったかしら?
ぼくは正確にはおぼえていない。彼女の胸に手をさしいれる。乳房をもむ。愛撫する。風呂に入ったのでぼくの手はすべすべになっている。彼女の柔肌を……もむ。唇をよせていく。唇をすいながら、愛撫をつづけた。
――あっ星がみえた。
雲がとぎれて月もでている。
――わたしは射て座の女。「空気が読めない」性格なの。
――それが……。
――わたし二人目の赤ちゃんができたの。
11 雨の日が好き
沈黙。
――ジヤマする気はなかったのよ。ごめんなさい。部屋にもどって原稿を書いたら。
ぼくの沈黙をどうトッタのだろうか。どうおもったのだろうか。妻の声が皮肉にきこえる。
――いまからでも、一枚くらいは書けるでしょう。ああ、やはり軽蔑しているのだ。同人誌の仲間が次つぎと賞をとってフルタイムの作家となっている。それなのに……遅筆で結婚してから、一作も完成した作品はない。
――一枚くらい書けるでしょう。乳房をもむ。なにか、たしかに存在しているものに、すがりたい。ここに彼女がいる。ここに妻の乳房がある。妻のおなかには赤ちゃんがいる。新しいぼくらの生命がやどっている。
もむ、愛撫する。たしかな手ざわり。そういえば、そういわなくても……机の上に筆記具がなかった。いつものことだが、東京作家クラブで「随筆賞」としていただいたモンブランの万年筆がみあたらなかった。それどころか、エンピツもボールペンもなかった。桃代がいたずらしたのかな、とかんがえているところを妻に呼よせられたのだ。
一日の労役の果てに、言葉へのpassionがよみがえる。過労でうまく機能しないイカレタ頭から、言葉をシボリだそうとする。精神が高揚する……モノ陰で、そうしたぼくのこころをウカガッテいたかのように、筆記具をカクシテしまうものがいる。そうだ。そうなのだ。ソダヤノソダサンソダクッテシンダソウダ。おもわず、子どもの頃の、地口遊びがあたまに浮かんで消える。「粗朶(タキギのこと。火を起こすときに、はじめに細い枝、ソダからつける)屋、薪を売る燃料店のこと。曽田さん。そだくつて(蕎麦が訛った)食って、死んだそうだ。……と解釈すればいいのだろうか。曽田という苗字の友だちをカラカウ言葉遊びだ。筆記具がみつからないので心の中でつまらないことをまたかんがえている。ぼくは正一という名前なので「しょうちゃん、しょうじゃないか、しょんまら、しょんせんごっこ、しょっても、しょっても、しょうきれない」とカラカワレタものだ。いまでも家庭の苦労があとからあとからウジのようにわきでて、重荷となり、背負う……しょう、とこの地方ではいう、しょいきれないことは、たしかだ。しょうがないな。仕様がない、なななな。やりかたがわからない。どうしたらいいのよ。この苦境からぬけだしたい。
満寿屋のデラックス原稿用紙が机の上に整然と積まれて、存在したところで筆記具がなければ、どうにもならない。
マイナスドラィヴァをもって時計の修理? とウソブイテ歩くぼくを柱の影に潜んでいて、ふいにあらわれては、なぐりつけ、ドラィヴァをとりあげたのは……だれだったろうか?????? おかしな幼児体験をいまになって、おもいだすものだ。お父さんよ。お父さんだったのでしょう。妻はふいに乱れたように、いや実際に錯乱しているのかもしれない。ぼくの回想につきあってくれている。だぶん、妻の推理は正しいだろう。お父さんに、まちがいないわ。でも、いまとなっては、たしかめるスベはない。その必要はない。
ぼくは引きだしからエンピツをとりだして、削るだろう。新鮮な木のにおいをかぎながら、時間のゆるすかぎりエンピツを削る。囚人のような生活、毎日科される労働にぼくを追いおとした。父。父への憎悪の炎をかきたてために。呪いの言葉を書きつらねる。粘りつく肉親の絆をたちきることのできないぼくのこころの弱さを嫌悪しながら、エンピツを削る。何本もの芯を尖らせながら、これから書かれるはずの文体について思索する。夢想する。
12 手がふるえる
夢みることを覚え、ぼくが作品らしいものを書きあげたのは、十代の終わりのころだった。町内に嫁いでいた二人の姉がたまたま家にいた。妹は高校生。そして母。四人の女たちが止めにはいらなかったら、制裁の憎しみをこめ父の鉄拳は、ぼくが気を失うまでつづいたろう。ぼくの不幸は小説家になろうと志したことにある。
言葉なんか覚えなければよかった。たった数千の単語。それを組み合わせて文章を綴る楽しみを見いだしてしまった。それが、ぼくの罪だとでもいうのか。あまりの悲しさに、ぼくは沈黙にいたった。
――なにかんがえているの? ぼくが回想のなかにおちこんでいると、妻のこえがした。ぼくは妻を愛撫していたのだった。
――よくがまんしたわね。
――なんどか家でしたさ。そのたびに、失敗した。
長男が後を継ぐという、大麻商の家庭の秩序、家訓を乱したといって殴られたのだったろうか。狂気じみた父をもてあまして、母は白髪になっていた。ふつうだったら、ちらほり白髪のみえる歳だったはずだ。皺のよった顔のなかの目をしばたたいていた。おまえだけが、頼りなんだよ。おまえだけが。
母のことをおもうと、もどってこないわけには、いかなかった。
いまはすっかり肥満し、さらに肉食している。肥りつづける老いた母は、いまはぼくとミチコの間に立ちふさがる分厚い壁となっている。いかに怨みごとをこころのなかでツブヤイテも、母は母である。父はそれなりに父なのだ。
部屋の壁面を黒い影がよぎった。と妻が悲鳴をあげた。乳房をもまれて喘いでいたはずの妻が小さな声で叫ぶ。そんなことあるものか。ミチコの影が映ったのだろう。ちがう。わたしはこの階段にすわっている。あなたのそばにいたでしょう。あなたの話しをきいていた。動いていない。
部屋はなにごともなかった。桃代は夏掛けのタオルをおなかのまわりにまきつけていた。頭が枕からずれていたが、静かな息をしていた。
ぼくはある予感から机をみた。やはりない。筆記具はなかった。やはりお父さんよ。そうおちがいない。削ろうとしていたエンピツがなくなっていた。おとうさんは動けるのよ。お父さんだわ。ぼくはいつものように、耐えられなかった。新たなエンピツを削ることはできなかった。回想から覚めきっていなかったからだ。父からうけた迫害がからだのなかで雪崩れた。
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