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田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

5 蠅   麻屋与志夫

2022-12-10 04:58:18 | 超短編小説
5 蠅  
 戦争が末期をむかえようとしていた。
 その切迫した空気は、幼いぼくらにはとうてい予感することはできなかった。
 昭和二十年の夏、軍隊の駐屯していたぼくらの国民学校では、ようやくそれでも空虚な日々がその傷口をひろげはじめていた。

 どうしたことか、その日は運転手がキーをぬくのを忘れ、ぼくがアクセルをふみこむと、校庭に置き去りにされていた軍用トラックは筋肉のにぶいこすれあう音をたて不意にめざめた犀のように巨体をゆすって動きだした。
 予期しなかった始動にぼくはすっかり動転し、にぎりしめた黒い魔法の輪、ハンドルから手をはなすことができなくなっていた。
 フロントウインドにきりとられた光景……空ドラムやぼろ布の山積された校庭のそれは、この瞬間からいままでのぼくらの楽しい遊戯の広場とは異なった局面をみせはじめた。
 空ドラム。重油のしみこんだまだら模様の古材。
 すっかり原型をとどめていない軍靴や軍手、軍足、雑のう、そして焼却されるのをまつぼろ布の山。
 みひらかれた瞳の中へ収斂してくる風景のなかの品々には、もはや子供の領分における遊戯のための玩具としての属性はうしなわれていた。
 それらかずかずの物体はむしろ障害物、あるいは険悪な異次元からやってきた怪獣のようにさえみえるのだった。
 怖れのため叫び声をあげるべきであったろうが、なぜかぼくにはそれがはずかしいことのようで、どうしてもできなかった。
 極端なこの羞恥がどこからやってくるのかぼくにはまるでわかっていなかった。
 トラックはのろのろと、それでも八月の陽光と、樹木の影、廃物の累積の峡間をぬって砂ほこりをまきあげながら走りつづけていた。
 
 ブレーキをかけるすべをしらなかった。
 もしその技術をしっていたとしても、ぼくはブレーキをかける操作はしなかったろう。
 動きだしたトラックはガソリンの最後の一滴まで疾走しなければ、というような理屈になぜかそのころぼくはとらわれていた。
 それは……特攻隊機が確実な死むかって飛翔していくように、ぼくらも少年航空兵に応募してやがて死に直面するはずである未来がまっているという一種凛烈な感覚にささえられた日常を送っていたためだろう。
 
 最後まで死をかけてやりぬくといった散華の思考にとらわれていたといえば誇張になるだろうか?

 ……ともあれ、ぼくはようやく動かすはことのできたトラックを停止させようとはしなかまった。
 ビー玉でも道路にうえこまれているのだろうか、きらきらした、さすような鋭い光がぼくの眼をとらえる。
 群葉の緑は夏の午後の猛だけしい光にそりかえり、それでもしたたる緑の滴のあつまりのように道の両側にあるのだった。
 
 手の中ににぎりしめれば濃緑色のねとねとした汁をぼくはつくりだすことができる。
 鼻孔に緑の匂いが充満する。
 それはぼくのすきな夏の芳香。
 かぎりなき自然の生命力を謳歌するかぐわしい香りが未発育なぼくの肢体を鼓舞する。
 ――セクシャルな粘液としての緑の滴。
 しかし、ぼくは自然の情感にのみひたっているわけにはいかなかった。
 戦場ではすでに敗色濃厚な日夜を兵士たちがそれでも抗戦と玉砕の陰惨なつみかさねによって過ごしていたが、ぼくら幼いものたちは、汎神論的色彩によってしか戦争というものをとらえることはできなかった。
 鉛の兵士たちを狙撃してたおす遊びの中の死と、現実におこなわれている戦域での死はまったく等価であった。   

 つまりぼくらはまったくのところ子供だったのだ。
 しかしぼくらの周囲でもようやく余計者や廃物である品々が凶器にかわるような変容がはじまりかけていたのだ。
 運転席は極度の緊張のためぼくの身体からながれだした汗でぬめぬめしだした。
 ぼくはとまってはけない。
 
 それ右折だ……あ……正面に敵兵いる。
 それ、警笛の機銃掃射をあびせるんだ。
 えい、ちくしょう、これでもか……。

 ぼくは独白をつづけ、その想像の敵にむけられた独白の鮮烈さのために一層興奮し、陽にあぶられた大地にくっきりとあざやかな車輪の跡をのこし英雄になった快楽に酔っていた。
 快楽は永遠につづきそうに思えたが、不意にあらわれた人影によってはかなくも中断されてしまった。
 男は車と平行に走っていたが、やがて運転席の扉に敏捷に飛びつく。ぼくの隣りへすべりこんできた。
 学校の裏側の湿地帯に居住している朝鮮人の青年に違いない。
 
 かわってやるからどいてろ。
 子供の領分への侵入者は異臭を口もとからただよわせていた。
 
 どうするのさ。
 逃げるんだ。
 逃げる。どこへ?
 わかるものか。

 化石した表情のまま彼はいった。
 トラックはすばらしいスピードで夏の埃と影と光の舗道を走りだしていた。
 きりさかれた風景が両側へ流れる。
 彼の蒼白に冴えた顔をみていると、その緊迫感が座席の動揺とあいまって、ぼくにもつたわってきた。
 樹液のように恐怖が体内にはいりこんできてぼくは顔まで青ざめるのがわかった。
 寒いわけではなかったが、軽い身震いが身体をおおった。
 
 彼の行動には、ぼくの容喙を拒否する、冷酷で堅牢なよろいで武装されている感じがあった。
 怖れのためとぎれとぎれにぼくは彼に問いかけた。
 沈黙の重みにとうてい耐えられそうにもなかったから。

 どこまでいくの?
 
 ぼくは自分のおちこんだ事態をよりよく理解しようとするのだった。
 言葉はただ、運転台のある狭い空間にこだまする。
 
 青蠅が足もとのほの暗い部分でちいさなうなり声をあげていた。
 そのうちの数匹が彼の胸のあたりのいまはすでに退色してもとの色がすっかりわからなくなっている(たぶん黄緑色の作業衣だったろう)にとまった。
 じっとして彼の体臭でもかいでいるように動かなくなる。
 いたずらに言葉を消耗させるだけの……言葉のむなしい散乱にあきて、ぼくは彼の胸の蠅の動きに視線をおとす。
 
 やがて一匹の蠅が群れを離れ(いつのまにか、蠅はきゅうげきにその数を増しているのだった)フロントウインドにとまる。
 蠅が移行したグラスの表面になにかわからないが、跡、あるいはかぼそい点線が捺印される。
 フロントウインドの中の世界では樹木とあらゆる角、あらゆる面は夏の光をあびてきらきら輝いていた。
 舗道がつき、密集した家並が消え砂利道になりふたたび舗道がはじまった。
 しかし道の外の世界には建造物はない。
 緑にもえたつ樹木だけがある。

 いくさおわるね。
 ニホン負けだよ。
 彼がつるされた鶏の声でいう。
 
 いくさおわるよ。
 うそだい。
 後頭部をふいになぐりつけられたような衝撃にぼくは<ウソだい>とはげしく否定する。
 そんなことがあってたまるものか。
 
 ウソなもんか。
 もうじきわかるさ。
 どのくらいまてばいいの?
 もうじきだ。
 そのときがくればおれたちも解放されるんだ。
 カイホウ?
 自由になれるってことさ。
 ジユウってどういう意味なの? 
 自由の魅力。
 自由の定義。
 自由のイメージ。
 自由という言葉をぼくはそのときはじめて耳にした。
 ぼくの語彙には自由という言葉はなかった。
 ね、自由ってどういうこと。
 
 そのあとで朝鮮人の青年がどういう解釈をぼくにふきこんだか、すでにぼくは忘却している。
 かえりたいよ。
 しばらくしてぼくはいった。
 もどるわけにいかない。
 彼はふたたび暴力的にいった。
 ぼくかえりたいな。
 もどりたいよ。
 ぼくがかえらなければみんなが心配するよ。
 心配させておくさ。
 止めてよ。
 いますこしまて。                              
 いつまでまてばいいの?
 ともかくまてよ。
 まっていれば、帰してくれるの?                          
 ああ、そうだ。
 まっていれば、そのうち、おれがいいとおもう場所にきたら止めてやる
からな。
 それまでまつんだ。
 
 ぼくは、またなければならないだろう。
 いつまでまてばいいというのだ。
 トラックは斜陽のなかへつっこむように、草原にのびた道をすばらしい速度感と充実したエンジンの轟音をひびかせて走っていた。
 ぼくは黒いハンドルをにぎる男のひからびてごつごつした魁偉な指をみつめながら、不思議と恐怖のうすらぐのを覚えた。
 ぼくはまたなければならないだろう。
 なにを……またなければならないというのか?
 草原のはてに駅がみえはじめていた。
 彼はあそこからぼくを送りかえしてくれる気なのだろうか。
 ハンドルに上半身をかぶせ、彼は低く口笛を吹きだしていた。
 しかしそれがとぎれとぎれになり彼はますますふかくハンドルのうえにかぶさり無数の蠅がその顔にまで群がっていた。
 やがて彼は蠅に全身をおおわれ、黒くうごめく蠅のレースにつつみこまれてしまう。
 トラックは、それでもなお執拗に彼の意思をのせて草原の彼方の駅へと走りつづけていた。
 ようやく窓からふきこむ夏の埃と草いきれにまじって、ぼくのかたわらに血の匂いをかぐことができた。
 彼はすっかり蠅のなかに埋葬されていた。
 ぼくは光暈の中の駅が遠ざかってしまうようないらだちにおそわれていた。



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4 ロープ 麻屋与志夫

2022-12-09 09:32:46 | 超短編小説
4  ロープ  
幼い知覚のなかでぼくらがそだてあげた幻影の群にあって、ひときわ神秘的で残酷な光景にいろどられている、木立の葉ごもりで朝鮮人部落のひとびとが屠殺する牛。
幻影におびやかされたあげく、ぼくらはそれを実在の空間でたしかめようとしていた。

――すでに犠牲となったものたちの白骨が累々とちらばっている森への冒険にでかけよう。
その信憑性を確認しようとしてN建設所有の材木置場にひそかにつくりあげた<そうくつ>に集合したその夜になって、部落のの若者が流言蜚語、ひとびとの戦争への確固たる勝利の信念をゆさぶるような攪乱的活動をして憲兵に射殺されたことが知らされた。

だが、彼は即死ではなかった。ぼくに医学の知識があれば、あるいは彼が傷ついていることをもっとはやく察知できていれば……彼は死ななくて済んだかもしれない。

その事件の後なので、ぼくらの夜の計画に対する意見は二つにわかれてしまった。

計画実施を固執するものと、さきに延ばそうというもの。
予期しなかった出来事のため、ぼくらが時間どおりに出発できなくなってしまったことは、否むすべもなかった。

それでも目前にちらつく巨大な牛であった白骨の造形する形状を想定する。
あるいは不断の崩壊へと転落していく瞬間の崖で――いままさに殺されようとする牛が月にむかってほえる絶叫が、ぼくの病む耳にひびきわたる。

戦争には負ける。
食糧がもうない。
テッちゃんの父ちゃんが玉砕した。
などという流言蜚語に病む耳をもつぼくは、どうしても出発しようと、延期には反対者としての位置をゆずろうとはしないものたちのなかにいた。

部落の若者が射殺されるような事件の突発したあとではたぶん、牛を殺す祭儀も、とりおこなわれることはないだろうというのが、出発を逡巡するものたちおおかたの意見だった。

強制立退をいいわたされた家々の柱なのだろうか、落書きがしてあつたり、刃物の上痕のある光沢をおびた古材の上に腰をおろしていたぼくらの〈上官〉が柄にもなく、互いに対立している言葉のゆがみの沼に鉛測を垂れ測定でもするような顔をしていたが、別個の考えを披瀝する。
彼が上官の地位を獲得することができたのは、ぼくらのなかにあつて、まさしく申し分のない円筒状の男根をもち、未開人のようになんの恥じらいもなくそれを勃起させる特技と、あまつさえ、白濁した精液を上空をいくB29にむかって発射させる勇気をもちあわせていたからだった。

国民学校に駐屯している兵士たちが夜になると二階の廊下に一列横隊に並ばされ、下士官がスリッパの裏側でなぐるという情報を彼は聞き込んできたのだ。

どうしてだ。
どうしてなんだ。

黒々と窓ガラスに映った兵士たちの上半身が強打をあびてゆらぐさまを、兵士の顔をよぎる怖れをすでに眼交にしている錯覚にとらわれてぼくは聞き返していた。

理由なんかあるもんか。
それはどうでもいいことなんだ。
あいつら、下級の兵士をしごくことが習慣になっているんだ。
要するに、夜ごとにスリッパの連打を彼らにあびせる。
軍人精神をたたきこむ。
それで充分すぎるくらいな理由になるんだ。

ただひとりの中学生である彼は教練の時間にでも学んだにちがいない指導者的観念について説明する。
ぼくらは上官にしたがうことを余儀なくされた。
ぼくらの予定は不意に変更されることになる。
中庭にある温室のかたわらの灌木類の茂みに潜んでぼくらは陰湿な遊戯のためにすでに甘酢っぱい唾液をなんども飲みこんでいた。
みんなが身体をひきしめているのが感じられる。
閉ざされた窓には、ときおり、黒く巨大な影があらわれる。
その大きさは、光の屈折のためとわかっていたが、ぼくらは怖れのために震えていた。

はじまるぜ。
いまにはじまるぜ。

実証主義者であるぼくらの上官は、彼のいったことが証明されるときを待つあいだも、そう独白しつづけた。
彼はぼくの脇にいた。
周囲はすでに暗くなっていた。
凝視しても彼の表情はよくはみえなかつた。
ぼくの胸のあたりにふれている彼の腕がかすかに律動していた。
怖くて震えているのだろうか?
ぼくのところからだと二階の窓は温室の屋根にさえぎられてよくみえなかた。
窓をみあげた姿勢で、あらゆる筋肉組織をひそやかにはたらかす。
目撃者としてすこしでも有利な場所へとぼくは移動した。
この移転でぼくは温室の扉――透明ガラスをとおしてそのなかを見ることになった。
内部には温度調節のための小さな裸電球が等間隔を置いて天井からさがっていた。
それらかずかずの光の陰影の片隅になにかうごめくものがあった。
ぼくらがひそむ暗がりでは上官と友だちが、やがてはじまるはずのスリッパの一撃をうける兵士を彼らの内部に思い描いていた。
血だらけの兵士の頬を想像してさらに彼らは前進した。
しかしこのとき、温室でかすかにひとの気配がした。
そこでぼくは貪欲な好奇心にかられて地面を匍匐した。
ぼくはすでに窓をみあげてはいなかった。

だれかがいる。
だれであるかはわからないが、ガラスで密閉された温室にだれかいる。
観葉植物の時代ではなかった。
温室ではトマトゃキュウリといった野菜が栽培されていた。
棚の下に藁が敷いてあり、ぼくはその藁のなかにみた。
人間の腹部らしいものを。
それはなめらかで明かりのためか淡青色にみえた。
人間としてはみることはできなかった。
淡くなんめりとした腹部に多毛な腕がのびて、なでまわす。
下腹部。
胸の隆起。
腰。
背中。
うなじ。
人間狩だ。
だれかが人間を獲物にして狩猟をしいてるのだ。
このときになって、ぼくはからみあう二個の物体をはっきりとみとめることができた。
男は体操教師のHで、彼の肩ごしに顔をゆがめ、髪をふりみだして狂女のようにうごめいているのは集団疎開につきそってきた音楽を教えるYだった。
あんなことをしている。
あんなことをしている。
目前で公開された、はじめてみる性交のうごめき。
もっとも人間臭い儀式にぼくは立ち会わされて眩暈をおぼえた。
音楽の女教師が矮小で醜いYにおさえつけられている。
彼女の両手は彼の背を両側からささえていた。
両腕は櫂のひとかきでもするかのように動いていた。
でも、ぼくにはその動きは彼を拒んでいるように感じらけれた。
ぼくは動けなくなってしまった。
びしっという音が頭上でした。
ぼくのところからは死角になって窓はみることができない。
音はくりかえしてきこえた。
スリッパで兵士がたたかれているのだ。
上官がいつのまにか、ぼくのかたわらにいた。
彼も温室のなかの異常に気づいていたのだ。
窓をみあげていたもののなかで、怖れの叫びをあげたものがいた。
逃げろ。
上官がぼくの耳もとで囁いた。
逃げるんだ。
温室の明かりが消えた。
怖い。
怖い。
まただれか叫んでいる。
灌木の茂みに沿って、校舎のつくった影の領域をきらめく閃光のすばやさで逃亡した。
校舎の角を曲がるとき、ぼくはふりかえった。
二階の窓が開かれ兵士たちがぼくらに叫びかけていた。

夢をみた。
夢のなかでは音楽教師のYは人魚になってあらわれた。
ぬめぬめした彼女にまといつかれるのをさけるためぼくは家畜がされ白骨が散乱している森へ逃げ込んだ。
いくら人を呼んでもだれもたすけにはきてれなかった。
ぼくは人魚に殺されるはずはなかった。
彼女はぼくを恨めしそうな目でみつめた。
二つの目は海藻色をして深い情感をたたえていた。
彼女に導かれていく空間は、未知の愉楽の海につきでた岩の上、そこに横たわるのが怖かった。
彼女はYに犯されていたのだ。
それを助けようとしなかったぼくらを恨んでいる。
ぼくは岩の上で人魚に殺されると思った。

目覚めたときそうした夢のため、汗をかいていた。
ながした汗は夢のなかでのおののきのためであったが、現実性をおびた恐怖はおもいがけない方角からやってきた。
学生服につけた名札がないのだ。
昨夜、灌木の茂みを逃げるとき、もぎれたにちがいない。
道におとしたのならいいのだが。
名札のとれたあとの布地の空白が恐ろしかった。
どうしたらいいのだ。
体操教師のあいつにでもひろわれたらどうしょう。
Hに体刑をくわえられている光景を想像する。
殺されるかもしれない。
いやきっと殺される。

いつであったか、奉安殿に礼拝するのを忘れた朝、ふいにあらわれた彼は(まるでそれまでぼくの背中にへばりついてぼくを監視していたみたいだった)ぼくのほほをなぐりつけた。
やけた鉄板をおしつけられたような痛みがあった。
彼の手形をおされたようなみみずばれとなった。
三週間もひかなかった。
あいつは獣に対する調教師のようにぼくらをなぐる。
そのなぐりかたがあまりに苛烈なのですくみあがってしまう。
竹の笞で生徒をなぐりつけているうちに、笞が茶筅のように細く割れてしまったことがあった。
家に帰ってからそのことをぼくらは話すことができない。
そのことが、彼に知られるといっそう強暴な体刑がまちうけているからだ。
彼はぼくらを<しごく>ことに快楽をみいだしている。
笞をふりあげるときの彼の顔は愉楽にみちている。

あるとき、ぼくらは校庭の西の隅にある便所の掃除をしていた。
女の子たちは真剣にやっていた。
敵国の言葉は勉強する必要がないので不要となった英和辞典の薄くて上質な紙で捲いた乾燥イタドリの葉を、ぼくらはたばこのようにすっていた。
便所の裏側だった。
汚水栓の上に車座になっていた。
黄昏てきた微光のなかで汚水栓が鉄製であることにあらためて気づいたものがいた。
これらの円盤の栓もそのうち弾丸になって、鬼畜米英の兵士たちのどてっぱらにくいこむだろうなどと、和やかに話し合っていた。
敵兵の軟弱さを神かけて疑わない季節のなかにぼくらは生きていた。
たぶん、ぼくがいいだしたのではないかと思うが、Hのことが話題になった。

たしかだよ。
まちがいないったら。
いつだったか、あいつが御殿山公園を女とあるいているのみちゃったんだから。
ぼくはやせっぽちで、体操教師の発達した上半身の筋肉には劣等感を覚えていた。
彼はよくぼくをその肉体的劣勢のため、揶揄したり、いびつたりする。
そういう彼も脚は短く少し背も曲がっているので、全体的には矮小で醜かった。
体操の時間は憂鬱だった。
鉄棒にぶら下がったままで懸垂のできないぼくは、マグロのようだといわれ、なぐられる。
跳び箱がとびこせず、戦場行軍ではいつも最後尾だといってなぐられる。

そんなわけで報復の意味もふくめて、彼の噂をするのはたのしかった。
あいつは、長髪を切らずにぎとぎと銀だし油をつけているだろう。
胸のポケットには赤いハンカチなんかいれちゃってさ。
それで鼻かむから、いつも赤ッパナなんだ。
ああいうやつは、あれするのがとつてもすきなんだ。
ぼくはイタドリたばこをうけとってすいだしていた。
ぼくの提供した話にすっかり同級生が圧倒されていた。
しかしこのときもHは、まるで密告をうけてかけつけた憲兵のようにとつぜんぼくの視野いっぱいにあらわれた。ぼくはよりよくHの実像を認識するまえに草の上になげだされて意識をうしなっていた。
ぼくがなくした名札はHが拾ったにちがいない。
今度こそぼくはあいつに殺される。
そう確信していた。
ぼくは殺されるだろうということに固執した結果、翌朝になっても登校することができなかった。
ぼくは岩山へとつづくされた家畜の骨が累積されているという森のなかの小径を逍遥していた。
汗ばみながら歩きつづけていた。
すると、道のむこうから背骨が曲がった農夫が大地をなめるような姿勢のまま走ってきた。
ぼくの姿をみても農夫は声をかけてはこなかった。

道がきゆうに暗い森におちこむ。

その森のなかでもひときわ鋭く天にむかつて立つケヤキの梢に女教師が、獲物をとらえるために装填された罠に不用意にもかかってしまったという姿でロープのさきに揺らいでいた。

すっかり物体となったYはロープのさきで振り子のように揺らいでいた。

振り子が停止するまでには、まだ時間があるはずだった。

●昨日は開戦記念日でした。戦時中のことを思い、旧作を再録してみました。


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3 空の珊瑚 麻屋与志夫

2022-12-08 21:15:50 | 超短編小説
3 空の珊瑚 

 ふいにやってきた雷雨のため――北関東特有の雷は空のはてで光った一条の稲妻とともにおそってくるのだが、ぼくらの戦場行軍は最悪の事態に遭遇していた。
 のぼりつめた山の尾根で暗雲をきりさく光をみたとき体操教師のHはぼくらを避難させるべきだった。山腹に穿たれた軍用物資隠蔽庫をかねた横穴壕にどうにか逃げこむことができたはずだ。
 Hの髪はポマードでぎとぎとしていた。銀だし油付けているとぼくらはいっていた。そのべったりと頭皮にへばりついている髪を中央から櫛目がわかるほど丁寧にわけていた。
 刃物でそぎおとしたようなほほと分厚い唇に一瞬あらわれて消えた加虐的な微笑をぼくは見逃すわけにはいかなかった。昼間の光の中にいるのに、覚醒した時なのに、ぼくは悪夢をみているような恐怖を感じた。あのことを目撃しているために、……ぼくはHから危害をくわえられるのではないかと怖れつづけている。
 行軍の隊列は、はるか眼下に淡紅色の羊羹をならべたようにみえる校舎と、横穴壕との中間地帯にさしかかっていた。寒さと喉の渇きのためともすれば停滞する蛇行の群を叱咤する教師の声だけが雨の中にむなしくひびいていた。
 さらさらに乾いて顆粒状をした土は、水をすいこんだ海綿のようにぼってりとし、茶褐色に変容する。素足の下で固まり、大地そのものが足下で岩壁にでもなってしまったような錯覚、あるいはタイムマシンで未知の領域にやってきたような……翼竜の時代に素足で地面を踏みしめた原始人のような感触を、その硬化した大地からうける。それは喜びをぼくらにあたえた。ぼくらはただもくもくと歩きつづけていた。
 歩行者の踏みこむ重量をささえきれずくずれる土壌をぼくは、忌みきらった。粉末となり……ぼくらを脚もとからすいこむような土はいやだった。
 大地は鋼鉄の硬度、けっして他者に侵されることのない強靭さをそなえているものと信頼しきっていたから、ぼくは乾いて侵されやすい黄土に足跡をのこすにはある種の嫌悪感と不安な予感をもってしまうのだった。
 雨は強くなった。
 雷鳴はとどろき、下界は色彩を喪失していた。罠から遁れる獣のようにただひたすらぼくは歩きつづける。懸命に歩いているのに、ぼくはかなり遅れていた。視野はせばまり雨音だけが聞こえた。雨によって隔絶されてはいたがかすかに友だちたちが前方を進む気配が感じられ、ぼくはそれをたよりに歩いた。ぼくはついに不安に耐えきれず彼らに声をかけた。山と丘陵を越え、雑木林をぬけ、河にかかった橋を渡って学校へもどるまでの四キロにあまる全行程において、ぼくらは沈黙をしいられていた。叫び声をあげた瞬間……Hが不正行為の審判者となってぼくの眼交に立っていた。それは、彼がまるで影のようにいままでぼくの背中にへばりついていたみたいな幻惑、悪魔の目で監視されていたのだといった恐怖をともなっての出現であった。
 ほほにかなりはげしい衝撃があった。
 Hの影を、きらめく巨大な珊瑚にも似た稲妻が照らした。黒々とうかびあがった彼の影はしかしぼくの視線のさきで消滅した。……ぼくはほほにうけた衝撃よりはるかに大きな……地割れのような、大地の揺れる感覚を全身の筋肉に採集したまま斜面を転落した。
 ぼくはアメーバに還って海をただよっている。海というものをそれまでに眺めた記憶はなかったが、失神の瞬間に空に光った稲妻を巨大な珊瑚とおもったように、海は空が反転したようなものだとおもった。ただよいつづけていた。ぼくの体はなかった。鼓動だけがただよいつづけるぼくのものであるようだった。いやそれは、波濤が渚で崩れる音だ。海辺で叫んでいる声があり(Hの声らしかった)、ぼくは接岸を希求していたにもかかわらず、沖へと流されているようだった。水平線に、マネキン人形のように硬直して、しかし艶やかさをおびた音楽教師のYが海面から腕だけだし、その腕が淫靡なさそいこむような動きで、ぼくを招いているのだった。
 伝声管をみみもとにおしとつけられているのだろうか。体操教師のHの冷酷な声が増幅されてひびく。その追いかけてくる声からも逃れなければならない。彼の声にはあきらかな殺意があり、その声が無数の鋭くきらめく短剣となってぼくに迫ってきたから。
 トラックの古タイヤが漂流していた。映像をともなわないHの、声だけの追跡からのがれるため、ぼくはタイヤにしがみつき、両腕に力をこめ……かきあがろうとする。タイヤの中央は勿論、円形の空洞になっていたが、ようやくのことではいあがったぼくが覗きこむと、その空洞はどうしたことか、海底まで通路のようにつづいていた。通路は遠近法を無視して、底にいくほどたしかな広がりをみせていた。その底辺に見覚えのある朝鮮人の青年が仰臥しているのだった。どうやらそれは、あのトラックを運転した男らしかったが、はっきりしなかった。彼は死者には似つかわしくない逞しい腕をぼくにむけだきしめようとするような招き方をしている。――だがぼくは恐怖の叫び声で現実の空間に横たわっている自分の体をとりもどすことができたのだった。
 雨は降りつづいていた。ぼくが意識をとりもどすまでにどれほどの時間の経過があったというのか。雷雨のながりのごくまばらな降りかただった。群葉の先端からしたたる滴のような降りかただった。
 ぼくは、木の茂みをわけ、級友たちのいる尾根に登るため、路のない路を探し、どうにか、Hの残忍な制裁をあまんじてうけいれなければならなかった地点にたちもどることができた。
 しかし――矮小で臆病者のぼくを、尾根から突き落したHの率いる勇壮な少国民である級友たちの誇りある戦場行軍の列は乱れていた。肉体鍛練の領域はみるも無惨な死者たちのよこたわる黄泉の国となっていた。
 うめく声。苦痛にゆがんだ顔。変色した皮膚。噛みつくような歯ぎしり。どうしたんだ。なにがあったのだ。空襲だ。きっと、鬼畜米英の空軍が爆弾を落としたのだ。しかし、飛行機の影もなく、しだいに空は明るくなる。ぼくが級友たちの方に近寄っていくと災禍をまぬがれたものたちが、茫然自失といった、まだ自分たちが焼け焦げることもなく生きているという恩恵にひたる喜びをしらぬげにたちつくしていた。渦を巻きながら遠ざかる雷雲を背景にして、彼らは、黒く朽ち果てた杭の羅列、あるいは倒木のようにみえた。
 ぼくが、さらに対象をよりよく見定めようと前かがみになると、集団疎開の奥村が、鏡の中を覗きこむような眼差しでぼくを見つめてきた。
 マグロ、おまえ、無事だったのか?
Hによってつけられたあだ名で呼びかけられ、ぼくは小石をたたきつけられたように、こころが砕けるのを感じた。しかしぼくは応じないわけにはいかない。
 ああ、崖の下に落ちていたんだ。
 それでたすかったんだ。落雷があった。おまえのいた後のほうのものはみんな雷に打たれた。いまHが学校へ急報するために走って行った。
 奥村の指さす方角、はるか山裾の、ようやく陽のてりだした道を、まだ暗く陰っている部分にある校舎めざしてHがあやつり人形のようにぎくしゃくした動作で遠ざかっていくのがみえた。
 あいつ、まるで逃げていくみたいだ。おれたちを置きざりにして逃げていくみたいだ。そういってしまうと、いままであれほど怖れていたHがけっしてぼくの死刑執行人ではなく、不潔で歪んだ欲望の権化、忌むべきただの男におもえてくるのだった。
 それからぼくはもう動かなかった。友だちの顔をひとりひとり確かめ、五人の級友がこの世界に肉体はまだ留まっているのに、魂はどこかはるか彼方、たとえば雷雲の去った晴天の空間を飛翔して二度ともどっとこない彼岸へ去っていったのだと悟った。
 だがしかし、ぼくは、彼らはけっして死ぬことはなく、ぼくがさきほど落ちこんだ海のような処を漂い、音樂教師のYや朝鮮人の青年と波にたわむれ、体をこすりあわせ、快楽の叫びをあげたりして生きつづけているのだ、という幻想にとらわれた。
 現実世界にもどれたぼくは、……Hの指の跡があざやかな小さな珊瑚の色と形をともなってほほに残り、それがいつになっても消えないのではないかという不安と戦いながら生きつづけなければならなかった。

再録です。



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2 青鬼の面

2022-12-03 18:48:50 | 超短編小説
2 青鬼の面
千手堂の向って左の漆喰の外壁に『青鬼』の面が掛けられていた。
頭からは金色の鋭くさきのとがった二本の角がはえている。
口は耳までさけて鋭い歯がはえていた。
とくに、上下二本ずつの歯が長く、牙のようだった。
見ているだけでも、鳥肌が立った。
恐怖のあまりぶつぶつが全身にあらわれるものもいる。
ぼくもヒロチャンも毎日遊びに来ているので、そんなことはなかった。
でも、こわいことは怖かった。
「この堂の周りを息もつかずに回ってきて、鬼を見上げると『赤鬼』に変わる」
「挑戦しよう」
ぼくはすぐに応えた。
後生車のかわりに新しい遊びをみつけだした。
ヒロチャンが走りだしていた。
ぼくは青い面を見上げて、待った。
なかなかヒロチャンはもどってこない。
ぼくは心配になって逆まわりで走りだした。
ヒロチャンは鰐口の緒にすがって肩で息をしていた。
「だめだよ。とても息がつづかないや」
「ショウチャン。やってみて」
 彼にできないことが、運動音痴のぼくにできるわけがない。
「やって。やって」
励まされてぼく走りだした。
時計回りに走っている。
まず最初の角。
次の角は全体の四分の一の長さだ。
苦しくなってきた。
なんとか走る。苦しい。息が止まりそうだ。苦しい。
もうだめだ。よろけながらおおきく息を吸う。
三番目の角を曲がり切れなかった。
歩いて角をまがる。
ヒロチャンが到達した賽銭箱の前の鈴緒にはだいぶ距離があった。ヒロチャンが姿をあらわした。
「どうだ。きついだろう」
ぼくはまだ息切れがしてた。
すぐには応えられなかった。
ヒロチャンの背後では夕映えがはじまっていた。
西山の稜線に真っ赤な太陽がかかっていた。
日没にはまだなっていなかった。
銅鑼の緒までは五メートル。
それが彼とぼくとの体力の差をあらわしていた。
その差を縮めるためにぼくは努力しなければならない。
夕焼け空をカラスが森に帰っていった。
うらさびた鳴き声が聞こえてきた。
ぼくはいますこし堂の周りを走ってヒロチャンに追いつけるように訓練していくといってのこった。

ぼくはあまり走ったので喉が渇いた。
手水舎にいって柄杓で水をのんだ。竜の口からでている水はつめたくて美味しかった。ぼくは竜の眼にギョロリトにらまれた。
逢魔が時が近づいていた。
なんのてらいもなく、遊びこけていた千手堂の周辺の風景が禍々しいものにかわっていた。ゾッと鳥肌が立った。恐怖のぶつぶつはぼくの全身を冒し、ぼくは動けなくなっていた。
からだが震えだした。こんなことなら、ひとりでのこらなければよかった。
ぼくはよろよろと堂の方にもどった。堂の白壁が夕日をうけて光っていた。しだいに赤くなっていく。この時、閃いた。
あの斜陽の光がまともに鬼面にあたったら、どんな変化が起きるだろうか。
樹木の細い枝をすかして正に真っ赤な太陽の光が青鬼の面を直射した。
一瞬、目がなれるまでなにがおきたのかわからなかった。
青鬼の面は見えなかった。目がよくみえるようになった。壁にあるはずの青鬼の面は消えていた。
「なにを探している」
息がかかるほど、間近で声はする。
ぼくはふりかえった。誰もいない。おそるおそる視線を上に向ける。
そこには、誰もいない。ほっとした。
「なにを探している」声がする。さらに上に視線を向ける。
青鬼の面が宙に浮いている。
「おまえが探しているのは、これか」
一瞬青い面が血を噴き出した。それはまさに血だった。そして最後の一滴を口元から垂らすと、そこには赤鬼が立っていた。
真っ赤な斜陽の光を全身に浴びていた。大きい。屋根にとどきそうだった。
いや、屋根のぐしまでとどいている。
ぼくは恐怖のあまり腰がふらついて、その場にすわりこんでしまつた。
「なにか、おれがしてやれるとはないか」
ぼくは応えられなかった。
「斜陽を浴びた一瞬だけおれの顔が真っ赤に見える。そう思いついた賢いボウズ」
ぼくはその時、Hのことを思つてしまった。
鉄棒のうまい男で、大車輪ができた。懸垂も際限なくできた。
鉄棒にぶら下がったままのぼくを「マグロ、マグロ」と一番ののしっていた。かれは学年の英雄だった。

戦争がおわって鉄棒の授業はなくなっていた。
彼にそれを納得できないでいた。ぼくが巨大な赤鬼にであった翌日。

Hは大車輪に失敗した。大怪我をした。片足が不自由になってしまった。

だれも彼が大車輪をするのを見るものはいないのに。
彼はそれに気づいていなかったのだ。戦争は終わっているのに。
Hの帝国は滅びた。だれも彼の周りにはいなくなっていた。
まだ卒業式にはまがあった。彼は転校していった。
そのあとの彼の行方はわからない。


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1 天気輪//後生車

2022-11-25 08:39:09 | 超短編小説
                                          
超短編小説 第2部

「書くことがなかったら、おれたちのことを書けばよい」stand by me より。

1天気輪
ぼくらは十二歳だった。
その年の夏戦争がおわっていて。
十二歳だったぼくは、すでに中津博君と友だちになっていた。
戦争のはじまった年から彼を知っていた。
父親が工事現場の事故で重傷という知らせをうけた彼が校門から走り去る後ろ姿が、一番古い彼との思い出だ。
小学校の二年生のときだったと記憶している。
戦争が終わった年にはぼくらは小学校の最上級生になっていた。
戦争がおわってよかったことがぼくには一つだけあった。
体操の時間がなくなった。
いや、時間はあったのだが鉄棒はもちろん教練とよんでいた剣道や空手や竹やりで米兵を刺し殺す訓練はしなくなっていた。
とくに、鉄棒による体力強化の時間がまったくなくなったのが噓のようだった。
ぼくは虚弱だったので懸垂すらできなかった。
ぶらんと鉄棒にぶらさがったままのぼくを「マグロ」と担任のH先生が呼んだ。
魚屋にぶらさがっているマグロのようだ。
そのあだ名はぼくを生涯苦しめ、この歳になるまで、いまでもぼくをマグロとよぶやつがいる。
まあそのことは、あとでゆっくり書くことにする。
体操のH先生は卑屈なほどおとなしくなっていた。
なにもしないで、ぼくらを遊ばせておいた。
ボンヤリと青空を見上げていた。
ぼくはなにか、拘束から解放されたような気がした。
『リンゴの唄が』はやりだした。
そうした暗い学生生活の中でぼくらは敗戦を迎え、中津君とは進路がちがうのでわかれなければならないという不安にかられ、より一層遊び時間を増やしていった。
中津君の家の裏に千手観音堂がある。
土地の人は「千手さん、千手さん」と呼んでいる。
ヒロチャンは小柄だが全身筋肉でできているようでたくましかった。
ケンかのときはその筋肉がすばらしい効力を発揮した。
一度殴られると、敵はもう戦力を失って茫然としてしまう。
ぼくは彼をアラクマサンと敬意をこめてそう呼んでいた。
アラクマサンというのは横山隆一が朝日新聞に掲載していた『フクチャン』にでてくる柔道の強い家庭教師だ。
観音堂の横に『天気輪』があった。
六尺ほどのコンクリート柱があった。
その上部に正方形の穴がほられていた。
そのなかに鉄の軸があり丸い輪がはめられていた。
それを下に向って回す。
「あした天気になれ」といいながら回した。
ところが、どうかすると輪が止まった瞬間、逆回転することがある。
上に向って回る。
せっかく天気になってくるようにねがったのに、明日は雨ということになりぼくらはがっかりするのだった。
だって、雨が降ればここ、千手堂にはふたりで遊びにこられない。
物資が不足していて、傘など、どこの家にもなかった。
あるとき、ヒロチャンが回した金輪が逆回転した。
「大丈夫」あすも晴れるよ。
大丈夫、明日も晴れるよといってから、ぼくはそのときわかった。
ひらめいたのだ。
ぼくの前に、ヒロチャンの背中があった。
すごく寂しそうだった。
ぼくの眼にはそう映った。
ヒロチャンは天気輪を見ているが、天気輪としては見てはいないのかもしれない。
なにかほかのことをねがっている。
明日晴れますように。いやちがう。
ヒロチャンは後生車として見ているのだ。
穴のおくの死者の国いる父を見ているのだ。
暗い穴は無限につながりその奥に人の後生がみられるのだ。
この穴は黄泉の国につながっている。
そして、そこには死んだ人たちがいる。
彼はそこに死んだ父を見ている。
父と会っている。
なぜか、そう覚った。
彼が、あまりに悲しそうな顔をしていたからかもしれない。
『あなたが闇を覗くとき、闇もあなたを覗いている』このニーチェの言葉をぼくが知るのはずっとあとになってからだ。
ぼくは、彼をなんといって慰めてやればいいのか、わからなかった。
「正一ね。事故で急死した人や、自殺した人はこの世に未練がのこって後生が悪いの。あの塔はその人たちの冥福を祈るためにある後生車なんのよ」
中津さんには親切にしてあげなさい。母の言葉がよみがえっていた。
ぼくの眼の前では、ヒロチャンの肩がふるえていた。
彼をなんといつて慰めてやればいいのわからなかった。
それからというもの、ぼくは後生車の前には、ふたりで近寄らないようにした。
仁王門をくぐったところにある大きなイチョウの木の葉が、黄葉した葉を散らしていた。
そうした季節だった。

『十二歳だったあの時のような友だちは、それからできなかった。もう二度と……』stand by me より。

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コンビニのエイトインコーナーにて 麻屋与志夫

2022-09-30 16:26:43 | 超短編小説
9月30日 金曜日
コンビニのエイトインコーナーにて
天井の照明が大理石まがいの床できらめいていた。
五名ほど掛けられるコーナーの横に電子レンジが置かれている。
いま労務者ふうの若者が買ってきた弁当を温めている。
レンジの下は、Garbage canに投げ入れられたカップが蓋の部分につかえている。
半分開いた黒く見える底からいやな臭いが立ち上ってくる。
若者はおいしそうにコンビニ弁当を食べている。
食事の住んだ人があたふたとでていく。
奥の席の男は卓に顔を伏せて寝てしまっていた。
だいぶ疲れているようだ。
家庭があるのだろうか。
つきあっている彼女はいるのだろうか。
男たちはみんな若者だ。



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笑話 たい焼きはどちらが表なんで、と与太郎が聞く 麻屋与志夫

2022-09-05 10:27:44 | 超短編小説
9月5日 月曜日
笑話

「たい焼きは、どっちが表なんで」
長屋の与太郎がご隠居にききました。
「たい焼きはな、畳屋の熊さんがよく焼いている。片面が焼けると畳み針でひっくり返すだろう」
「へい、へい」
「裏返すというから、針で鉄板にうらがえされて、熱い方が表だ」
「さわっても、分からなかったら」
「鉄板からはがすときにまた、針をさしてとりだすだろう」
「へいへい」
「その穴のある方が表だ」
「へい、でも、針の孔が見つからなかったら」
「そんな、針孔をつつくようなことをきくな」
おそまつ。



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眠られぬ夜に  麻屋与志夫

2022-08-26 06:28:55 | 超短編小説
久しぶりで超短編です。
妻の絶叫で夜半起きてしまいました。
眠られぬまま、しかたなく超短編をを書きました。

絶叫
将平の妻が深夜絶叫した。
「夢だ。夢だよ」
「ちくわに食べられた夢をみたわ」
夕食のおかずはちくわだった。さらっと油でいため青さ粉をふりかけたので磯のにおいがしておいしかつた。
将平はちくわにじぶんの背骨をイメージした。穴があき、くず折れそうだ。
「バックボーンのしっかりした少年だ」
恩師にほめられたことがあった。
いまはもはやガクガク、曲がりだした。そのうち九十度くらいに曲がって、地面を舐めるような歩行姿勢になるだろう。
それにしてもちくわの夢なんてwet dreamじゃないのかな。
女性の場合はなんていうのだろうな?
将平より二回りも若い妻はすやすやと寝息をたてている。

少年や
「少年や六十年後の春のごとし」耕衣
六十年さらに角兵衛春の風、将平は嘯いていた。還暦の六十なんて、まだまだ若い。そして、若い妻と結婚した。
いまが青春。がんばるぞ。
カクベイとは将平が社長をいまだに勤めている株屋では、相場が倍になるという隠語だ。
長生きするのも楽じゃないな。はたして、幾つまで生きられるのだろう。

公園のベンチにて
公園のベンチに座っていると最近よく老婆に声をかけられる。
「お幾つですか?」
「三十歳です」
驚いている老婆に、「還暦が過ぎてから」とつけくわえた。耄碌爺とは思われたくない。
「あら、わたしではダメね。十二歳ですもの」
エスプリの効いたこたえがもどってきた。さすが生き馬の目をぬくといわれる兜町だ。
この辺りは、男女を問わず株屋がおおい。
生き馬の目をぬいて、またこっそり戻しておくくらいの芸をもった連中がわんさかいる。
老婆も、株式仲買人だったのかもしれない。


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「朝だよ。起きないか」麻屋与志夫

2022-03-16 08:26:28 | 超短編小説
3月15日 火曜日
「朝だよ。起きないか」 超短編

ベッドから起き上がった。
そろそろ愛猫のルナが妻の寝床からわたしのところにくるころだ。
毎朝決まったルーティンでルナは動いている。
わたしは、妻を起こしたことがない。

「おーい。朝だよ。起きないか」
そうした声をかけたおぼえはない。
夜が遅いので、朝には弱い。
眠れるだけ寝ているといい。

わたしは、起き上がったまま……。
下半身はまだふとんのなかだ。
春の朝のものうい、ほんのりとした暖かさをたのしんでいた。

わたしの視線の先、部屋の向こうの端に動くものがある。
妻の鏡台のあたりだ。
和服を着るのが好きな妻が等身大の「姿見」を買ったのはいつのことだったろう。
妻は化粧に長くかかる。
と、よく父親にしかられたと娘時代のことを話していた。
どんな子どもだったのだろう。

妻がめずらしく早く起きた。
そんな気配はなかったのだが。
まちがいなく妻が和服をきて、鏡に向かっている。
すでに化粧はすましているらしくこんどは振り返って帯の具合をたしかめている。
――帯のよしあしで着物姿はきまるのよ。
着物よりも高価な帯をなんぼんも妻はもっている。

それにしても、朝からどこへ出かけるというのだ。
昨夜はなにも今日の予定についてはいつていなかった。
きゅうに思い立って、東京の娘たちに会いにいくのか。
いや、息子の下の女の子が小学校に上がるという。
そうだ、末の孫娘に会いにいくのだ。

こうしてはいられない、わたしもはやく支度をしなければ。
そこで気づいた。
わたしは老人性膝関節症が悪化して歩行がままならぬ身だ。
外出はむりだ。
妻だけで出かける算段なのだろう。
妻は帯のしめかたがきにくわなかったのか。
するすると帯をとき、着物を脱いで、肌襦袢になってしまった。
ほかの着物、結城つむぎかな、を肩にかけて鏡に向かい首をかしげている。

「出かけるなら、おそくなるよ」
妻に声を掛けながら、わたしはベッドから床に足を下ろした。
いつものことだが、ぐらっと体がかたむいた。

朝、立ち上がる時がつらい。
ひざの痛みが頭頂葉までひびく。
おもわず、「痛い」と嘆く。
いつもであったら、妻が優しい言葉をかけてくれる。
それがない。
見ると鏡の前にもいない。
もう出かける準備ができてシューズボックスから草履でもだしているのだろうか。
それにしてもおかしい。
わたしは部屋の反対側に寝ている妻のベッドに近寄る。
紗のカーテンを開ける。

妻がいない。

掛け布団が盛り上がっていない。
ルナがいつものように妻の枕元に寝ている。

でも妻の存在はない。

「おい。朝だ。早く起きないか」

わたしは妻に初めての言葉をかけた。



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親切もほどほどに 麻屋与志夫

2022-03-06 08:58:00 | 超短編小説
3月7日 月曜日
親切もほどほどに。超短編

「葉ッパがついていますよ」

 前をいく女の髪に葉ッパがついていた。

 とってあげた。

 葉ッパといっしょにウイッグまでとってしまった。

「見たわね」

 女の頭皮はワニ膚だった。
 
 は虫類の女だ。

 もう逃げられない。



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