ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日中戦争 』 ( 臼井勝美氏の著書 )

2018-04-19 21:10:03 | 徒然の記

 臼井勝美氏著『日中戦争』( 昭和42年刊 中公新書 ) を読了。

  氏の略歴を紹介します。

 ・大正3年に栃木県に生まれ、昭和23年京都大学を卒業後、外務省入省

 ・外交文書の編集に携わる。日本の歴史学者として著名

 ・九州大学助教授をへて昭和50年筑波大教授、のち桜美林大教授

 ・特に大正から昭和前期における、日中関係史研究の第一人者

 前回読んだ、馬場伸也 ( ばんばのぶや ) 氏著『満州事変への道』も、同じ中公新書で、日中戦争を扱っていますが、東京裁判史観に立つ馬場氏と異なり、氏は事実を中心に叙述しています。

  馬場氏は、田中義一氏と幣原喜重郎氏を中心に日中戦争を説明しましたが、臼井氏は、関係するほとんどの人物を登場させます。内容が広がり複雑になりますが、客観性が増し偏見が少なくなります。

 氏は「まえがき」のなかで、本書執筆の理由をつぎのように述べています。

 ・日中戦争はすでに過去の出来事として、歴史家の研究対象となっていますが、今日の事態を考える上で、なにがしかの助けになるかもしれません。

 過去の歴史を忘れるな、日本は歴史認識が足りないと、事あるごとに中国の政治家が言うのは、日中戦争時の話が中心です。

 書き出しの部分を、紹介します。

 ・日本のファシズム運動の中心的存在として、青年将校たちに大きな影響を与えていた北一輝が、2・26事件の関係者として代々木原の一角で銃殺に処せられたのは、昭和12年の8月19日であるが、この時既に日中両国間では、全面戦争が開始されていた。

 ・それは、アジアを舞台にした最大の戦いであった。

 ・十九世紀の中葉、イギリス、アメリカなどの欧米諸国によって、開国されてから数十年、それぞれ苦難の道を歩んできた、アジアの二大民族の文字通りの死闘であった。

   北一輝が『日本改造法案大綱』の草稿を書いたのは、大正8年の夏、中国の上海にいた時です。

 おりしもベルサイユ講和条約で、中国が返還要求した山東省のドイツ権益を、日本へ渡した事に対し、激しい排日運動が起こっていました。

 北は当時の状況を回顧し、「ベランダの下は見渡す限り、私の故国日本を怒り憎みて叫び狂う群衆の、大怒涛であった。」と伝えています。

 歴史では、日本だけが中国を侵略した国であると語られますが、そうでなかった事実を、息子たちには知って欲しいと思います。日本の侵略が正当化されるものでありませんが、事実を把握することは大事です。
 
 氏はここで、北一輝、大川周明、石原莞爾の各氏が、大正8年当時の欧米列強と中国を、どのように見ていたかを、教えてくれます。
 
 〈 北一輝 〉
 
 ・英国は全世界にまたがる大富豪にして、露国は、地球北半の大地主なり。
 
 ・国際間における無産者の地位にある日本は、正義の名において、彼らの独占より奪取する戦争の権利なきか。
 
 ・国内における、無産階級の闘争を容認しつつ、国際的無産者の戦争を、侵略主義なり軍国主義なりと考える欧米社会主義者は、根本思想からして自己矛盾なり。
 
 国際社会で無産国家の日本が、他国を侵略しても、列強から文句を言われる筋合いはないと、北一輝はこのような意見を持っていました。
 
 上海にいた北を日本から迎えに来たのが大川周明で、国家改造運動の中心となる二人は、ここで初めて顔を合わせています。大川の目にも、第一次大戦後の現状維持を基本とする国際連盟が欺瞞に見えていました。
 
 〈 大川周明 〉
 
 ・国際連盟は、隷属する国民より自由を回復する権利を奪い、弱小国民から、より強大にならんとする権利を奪う。
 
 ・ヨーロッパの世界制覇に挑戦する気勢が、全有色人の間にみなぎってきており、アジアは惰眠より覚めねばならない。
 
 ・日本が、英、米、ソ、華などと対抗していくためには、積極的に、自給自足のための経済領域を、持たねばならない。
 
 ・その発展のためには満蒙以外になく、満蒙を編入した大経済単位を確保し、日本経済を革新しなければならない。
 
 ・日本の生存のためには、満蒙問題の解決が必要であり、やむを得ない場合は、武力解決も辞さない覚悟を持つべきである。
 
 〈 石原莞爾 〉 (  関東軍参謀 )
 
   ・今後の戦争においては、総動員計画による全面戦争のための、体制整備が必要である。
 
 ・それには速やかに敵側の一定地方を占領し、その占領より得られる資材・財源を活用し、全面戦争を有利に展開させる。
 
 ・これにより、疲弊することなく、長期戦の遂行が可能となる。現実の問題としては、満蒙地方が最も優位なる占領対象地域である。
 
 ・満蒙が日本の国防上必要なのは言うまでもないが、朝鮮統治の安定を図る上からも、また経済的に日本の不況を救うためにもそれは重要である。
 
 ・満蒙における日本の権益の危機を救う唯一の道は、これを併合して日本の領土とすることである。
 
 「東京裁判史観」に縛られた馬場氏は、『満州事変への道』の中で、田中義一首相が特別な侵略主義者であるように説明し、平和外交を掲げる幣原氏が日本の良心であるように叙述しました。臼井氏の著作を読みながら、「ねこ庭」は馬場氏の説明の誤りを確信しました。
 
 田中氏のような一部の軍人の考えが日本を破滅に導いたのでなく、ほとんどの指導者たち、あるいは国民が、北、大川、石原氏と似た考えを抱いていた事実を語っていない。
 
 昨年の5月に、岡義武氏の『近衛文麿』(岩波文庫)で読みましたが、若き日の近衛公が、雑誌に投稿した記事が紹介されていました。あの時は意外に思いましたが、当時の世界情勢を考えると、侵略は当然の意見でした。もう一度、近衛公の論文を紹介します。
 
 「われわれもまた戦争の主たる原因がドイツにあり、ドイツが平和の撹乱者であったと考える。」
 
 「しかし英米人が、平和の撹乱者をもってただちに正義人道の敵となすのは、狡獪なる論法である。」
 
 「ヨーロッパの戦争は、実は既成の強国と未成の強国との争いであった。現状維持を便利とする国と、現状破壊を便利とする国の争いである。」
 
 「戦前のヨーロッパの状態は、英米にとって最善のものであったかもしれないが、正義人道の上からは、決してそうとは言えない。」

 「英仏などはすでに早く、世界の劣等文明地方を植民地に編入し、その利益を独占していたため、ドイツのみならず全ての後進国は、獲得すべき土地、膨張発展すべき余地もない有様であった。」

 「このような状態は、人類機会均等の原則に反し、各国民の平等生存権を脅かすものであって、正義人道に反すること甚だしい。」

 「ドイツがこの状態を打破しようとしたことは、正当であり、かつ深く同情せざるを得ない。」

 近衛公の国家平等論は、先進国と後進国の植民地保有の平等で、北、大川両氏が似た考えをしています。さらに言えば、「機会均等」「門戸開放」と言って中国大陸に出てきたアメリカも、同じことを言っていました。

 東京裁判で日本だけが断罪されましたが、当時の世界では他国への侵略が当然視されていたことを、なぜ日本の歴史家たちは隠そうとするのでしょう。政治家もマスコミも右へ倣えの姿勢ですが、これこそが日本人が身につけた「敗戦思考」です。

  胸を張ることではありませんが、「日本だけが間違った戦争をした」というのは捏造の最たるもので、中国の政治家が日本だけを攻撃するのは、「敗戦思考」で萎縮した日本人が、うなだれてばかりいるからではないでしょうか。
 
 本日は、ここで一区切りとしますが、一日も早く日本が、反日左翼の汚染から抜け出す日が来ることを願いつつ、千葉の片隅から愛国の発信を続けたいと思います。
コメント
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