ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『満州事変への道 』- 3 ( 若い教授の、反日左翼迎合著書 )

2018-04-11 15:33:15 | 徒然の記

 馬場氏は、もはや「敗戦思考」の迷惑老人としか呼べなくなりました。

 ・田中に内在した国際関係のイメージは、日本の封建時代のそれに等しかった。

 ・列強はすべて封建諸侯のように、限りない権力と領土拡大を目指す、飢えた狼のようなものであり、ロシアもその例外ではない。

 ・近い将来、ロシアが氷結しない港を求めて、満蒙の地へ朝鮮へと、南下してくることは必然である。この体勢を見れば、満韓交換を意図した日露協商などは、無意味である。

 ・ロシアが一段と強大になり、南下してきた暁には、日本は、アメリカやイギリスに仲介を乞うという、恥をさらさねばならないであろう。

 ・シベリア鉄道がまだ単線で、それも全部完工されていない今、ロシアに一大打撃を与えねば、手遅れになってしまう。というのが、田中の主張であった。

  氏は、田中氏の外交感覚が時代遅れのものであると酷評します。

 ・危険を犯し体を張り、死神の口に飛び込んでいくのは、ヤクザが単身敵の中に切り込み、果てはさあ、殺せと、地面に大の字に転がるのに等しい。

 ・潔く見えても、武勇のはき違えであり本来の武士道ではない。それはドン・キホーテ的行動であり、田舎侍のそれであって、洗練された武士のとる行動でなかった。

 氏の肩書は津田塾大学の助教授で、本を出版した当時は30代の若者です。

 ・この田中の行動と合わせて、われわれが想起したいことは、昭和の軍国主義者たちもまた、理性を超越した日本の精神主義を信じ、太平洋戦争に猛進して行ったことである。

 列強がアジアを侵略していた当時、田中氏の思想は果たして時代遅れだったのでしょうか。断言するほどの知識を氏は持っていたのだろうかと、そんな疑問が生まれます。

 戦後に再評価された幣原氏を誉め、軍の指導者を酷評すれば、人道的平和主義の学者に認められる・・それだけの著書ではなかったのかと思えたりします。米国を後ろ盾に、流行の「東京裁判史観」で田中氏を切り捨てるのですから楽な話です。

 ロシアの南下に危機感を覚え、日本はどうすれば良いかと知恵を絞った田中氏に、「ねこ庭」はむしろ共感を覚えています。

 無謀な戦争ではなく、当時の指導者たちは常に終戦工作を忘れず、米国との外交交渉に努力をしていました。辛くも得た勝利だったとしても、日本に負けたロシアは東アジアでの南下政策を諦めています。

 日露戦争の敗北で、ロシアが矛先を バルカン半島へと向け、これがやがてオーストリアやドイツとの紛争を引き起こし、第一次世界大戦になります。

 田中氏の外交を「単身ヤクザの切り込み」と、学問の名に相応しくない下品な説明の方に、田舎侍の卑しさを見る思いがします。氏がしているのは、大東亜戦争に負けた日本の指導者たちを愚者扱いし、卑屈な「敗戦思考」を国内に広める行為です。

 田中氏について述べた後で、幣原氏外交の説明に入ります。大正13年に、幣原氏が外相に就任した時の演説を紹介しています。

 ・日本と列国は、互いにその正当な権利を尊重し、もって、世界全般の平和維持を計ることを、外交方針の根本主義とする。

 ・いわゆる侵略主義、領土拡張政策は、不可能な迷想である。

 ・およそ国際間の不和は、一国が他国の当然なる立場をも無視し、偏狭なる利己的見地に執着することによって発生するものである。

 ・これに反し、われわれの主張するところは、共存共栄の主義であります。

 ・いまや世界の人心は、この方向に向かい、覚醒せんとしております。国際連盟のごとき制度も、この人心の覚醒に根底を置いております。

 幣原外相の演説を好意的に解説するので、解説がそのまま田中氏への批判となります。

 ・幣原は、偏狭な、排他的な国益を考えたり、他国と無協調に独善的に、国益を追求しようとは思わなかった。

 ・彼には国益優先論はなかったが、もちろん、国益を増進しようとしなかったのではない。

 ・国益は、列国との協調を乱さない限りにおいて追求されるべきであり、個別の国益を超越し、世界の平和を維持すべき義務が、国際社会の一員として、それぞれの国にあることを彼は強調するのである。

 ・このことが幣原外交の、国際主義、協調主義と言われるゆえんである。

 評価できる部分があるとすれば、氏が最後に「両論併記」をしている箇所です。田中氏と幣原氏を並べて語っています。

 ・幣原も田中と同様、日本を愛したことに変わりはなかった。

 ・その愛する日本を、世界史の上でいかに位置づけていくかという点で、彼らは大いに異なっていた。

 ・幣原は、国内的には民主国家としての日本が、経済的に発達し、近代国家として成長していくことを望んだ。

 ・国際的には列国と協調し国際法を誠実に守り、平和国家としてのイメージを築いていくこと、これこそが国家百年の大計であると考えていた。

 ・田中は、日本を世界に位置づけていくためには、日本固有の文化と伝統を守り抜くことであると考えた。

 ・日本が西欧と同じになったり、物まねをしていたのでは、日本が無くなるのみならず、世界史の中に埋没してしまうと考えていた。

 ・日本の国体こそは世界に冠たるものと、信じて疑わなかった。

 二人の元首相が意見を異にしていても、共に国を愛する指導者であったと言っています。微かながら、氏が単なる反日左翼教授でなく、愛国の学者の一面もあるという説明です。

 氏の著書で語られる政界は、自民党以外に国を愛する党がいない現在の日本と違っています。維新の党を除けば反日左翼の野党ばかりですから、国の危機もそっちのけで、実りのない政争を国会で繰り広げています。

 スペースがなくなりそうなので、本日はこれで終わりたいと思います。次回は、著者が賞賛してやまない、幣原外交の欠点について「ねこ庭」の考えを紹介します。

 訪問された方がおられましたら、この退屈なこの「ねこ庭」を読んでいただき感謝いたします

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『満州事変への道』 - 2 ( 46年前だから出版できた、偏見図書 )

2018-04-10 05:37:25 | 徒然の記

 馬場中也氏が「まえがき」で、著書の目的を述べていますので紹介します。

 ・日中国交回復の悲願が実現せんとする今日、日本が中国へ、全面的侵略を開始した満州事変への道をあとづけすることは、日本人の犯した過ちを反省する意味でも、また、将来の日中関係を展望する意味においても、重要なことであると思う。

 ・小著はそうした観点から、1920年代後半における、日中関係を分析すると同時に、幣原外交と田中外交が、日本外交史上いかなる意義を持ったかを、合わせて考察したいと思う。

 氏は、田中元首相と幣原元首相を対比する形で話を進めます。田中氏は軍人として幣原氏は外務官僚として活躍し、最後は首相となり昭和史に名を残しています。

 氏は東京裁判史観を正しいものとして著書を書いていますが、昭和47年当時の学者や文化人はほとんどが

 「日本軍は無謀な戦争をし、多大な犠牲を中国に強いた。」という、日本国悪人説でした。

 年配者であるほど中国への贖罪意識を持ち、その思いを捨てられない人物が沢山います。必要以上の自国卑下思考を、自虐史観という人もいますが、「ねこ庭」は「敗戦思考」と呼びたいと思います。

 敗戦前後の政府のスローガンを並べますと、世相の変化が見えます。「一億玉砕」から「一億総懺悔」へと、政府が手のひらを返したのですから、学者や政治家、文化人、朝日新聞やNHKの変節を責めるのは、酷な気がしないでもありません。

 しかし戦後73年が経過しても「敗戦思考」に縛られ、自分の国を客観的に見ないと言うのもおかしな話です。報道も出版も変わらないと言うのでは、国民が騙されたままになります。

 スターリンが何を画策したか、ルーズベルトが日本に何をしたのか。毛沢東や蒋介石が、どんな手段で日本を欺いたか。

 大東亜戦争に関わった他国の事情が明らかになり、日本だけが間違っていたと言うより、手玉に取られ、欺かれていた事実が出てきています。それでも「敗戦思考」を持ち続ける人間を、放置しておいて良いのか。過去を正しい位置に戻さなければ、子や孫をダメにすると考えなくて良いのか。問題はここにあります。

 私や著者のような年寄りは、順番に死んでいきますから、「自虐史観」でも「敗戦思考」でも、好きなだけ抱いておれば良いと思います。

 しかし子や孫やひ孫たちを「敗戦思考」のまま放置するのは、親として祖父として忍びないものがあります。世間に溢れる「敗戦思考」を放任してはいけないと考えるのは自然の流れです。馬場氏の批判も、そのためにします。

 田中義一氏に関する、氏の説明を紹介します。

 ・日本には昔から、一か八かやってみるとか、当たって砕けろ、といった慣用句がある。

 ・ということは、そうした直接行動的な行動をする人々が、かなりいることを物語っている。田中の日露開戦への奔走には、この傾向が如実に見られた。

 ・理性的に考えれば、兵数においても武器においても、領土においても、実際の輸送力においても、日本よりはるかに勝るロシアのような強大国と、一線を交えることは、無謀に等しかった。

 ・それよりは外交交渉により戦争を回避し、日露協商を結んだ方が無難であった。

 やはり氏は、息子たちを惑わせる「敗戦思考」の迷惑老人です。つまらないことを、喋ります。

 ・しかし田中は、譲歩したり、妥協したりするよりは、一か八かやってみよう、やってみなければ分からないという、一種の直接行動的な、ギャンブル気質があった。

 ・彼は幣原外交にみられた合理性や緻密な論理よりも、常に情念に基づく、直接行動に訴えようとした。

 氏の説明によると、日露戦争を開戦へと導いたのは参謀本部にいた田中氏です。

 ・田中には元勲伊藤博文に背いても、あるいは氏と仰ぐ山縣や大山を偽っても、自己の信念を貫徹する信念があった。

 切腹を覚悟でロシアの輸送力を偽り、御前会議で説明したと話します。次に氏は、幣原氏の外交姿勢を語ります。

 ・彼の外交の一つの特色は、特に経済問題を重視したことである。

 ・ために幣原外交は、経済外交であるともよく言われる。

 ・新しい外交は、領土の拡大とか他国民を征服しようというのでなく、国家の経済利権の増進を図り、もって国民生活の安定を期するにあるとの信念があったからである。

 ・彼は常に、国益は平和的手段によって、あくまでも国際協調の下に追求されなくてならないと信じていた。

 ・この信念を実現するため、彼は三つのスローガンを用いている。すなわち、世界人類と共に戦争なき世界の創造、平和共存、正義の支配するところには武器の必要がない、この三つである。

 どれが3つのスローガンなのかよく分かりませんので、項目に分けてみます。

    1.   世界人類と共に戦争なき世界の創造

             2.   平和共存

             3.   正義の支配するところには、武器の必要がない

 現在の私たちは、中国の地域侵略や、ロシアのウクライナ侵略を目の前にしていますから、平和外交の無力さを知っています。

 「敗戦思考」の迷惑老人の話に戻ります。

  ・田中と幣原の青少年期を比較して、いまひとつ注目すべき点がある。

 ・幣原が人格形成の最も重要な時期を、両親から独立し、日本の三大都市、大阪、京都、東京で、過ごしたのに対して、

 ・田中は、因襲的風土色の強い萩、対馬、松山といった田舎で、生育したことである。

 ・幣原が洗練された都会的、近代的センスを身につけていたのに比べて、田中には常に、泥臭く、古風な雰囲気が漂っていたのも、両者のこうした生活環境、体験の相違に起因した。

 驚くべき偏見ですが、萩、対馬、松山の人たちは黙っていたのでしょうか。46年前には、こんな地方蔑視の本が世に出ていたかと思うと、時代の変化を教えられます。

 中央公論社も、今ならこのような本を出版しないでしょう。氏の本も別の意味で有名になったのではないでしょうか。

 「若者に読ませてはならない、有害図書」

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2018 若人に贈る言葉 ( 千葉日報の記事 )

2018-04-09 15:04:04 | 徒然の記

 4月2日の千葉日報の17面は、全面を使い、社会人となる若者へ贈る言葉が飾られました。

 激動の時代を生きてきた千葉県の名士が、社会人となる新人たちへ贈った、短い言葉で、顔写真が添えられています。

 郷土の先輩から入社する後輩たちへと、こうした紙面づくりはどこの地方紙もやっているのか。千葉日報だけがやっているのか知りませんが、読み取れる時代の風潮に興味を覚えました。

 掲載の順番は、おそらく重要な名士から始められているでしょうが、「ねこ庭」で紹介するため、順番を変更しました。簡潔な4字熟語を最初に並べ、言葉の多い名士を後にしました。誰がどの言葉を贈ったのか分からなくするため、16人の名士の名前だけ別に集めました。

  1. 誠心誠意     2. 初志貫徹     3. 人生開拓 

  4. 一期一会     5. 調和と協調    6. 凄みの管理 

  7. 美しい日本を   8. 継続は力なり   9. 人生万事塞翁が馬

  10. 初心忘るべからず、夢忘るべからず   11. 幸せを運ぶ感謝の心

  12. 人間最大の宝は、信用である      13. 若者の笑顔と友情が世界を作る

  14. 夢へ向かって前へ、前へ        15. やる気・根気・負けん気・元気

  16. 己に厳しく、己を偽らず、他人に愛と思いやりを

     17.  悲観主義は世界を狭くし、楽観主機が世界を広くする

        18.  閉じこもるな、友の数だけ未来が開ける

 顔写真と名前が掲載されるとなれば、今の日本では、こんな言葉しか言えないのだろうと、名士の方々には同情もあります。

 それにしましても、これが「激動の時代を生きてきた」先輩の言葉なのかと、私は首をかしげました。特段、ひねくれ者の感想とは思いませんが、ここにある言葉には、現在日本の課題が、何一つ示唆されていません。

 いわば、戦後の日本に広がった、綺麗な「お花畑」のさえずりのエールです。

 たったひとつ、「美しい日本を」とあるだけで、後の方々は、害にも益にもならない、小・中学生向けの標語みたいなものばかりで、誠心誠意、調和と協調、幸せを運ぶ感謝の心・・など、私が社会人一年生なら、何も感動いたしません。

 いったい、どんな夢へ向かって前へなのか、あるいは何に対しての、やる気・負けん気・元気なのか、中身が何もありません。

  それならお前はどんな言葉を贈るのかと、質問されたら、一瞬返事に窮します。

 「獅子身中の虫に騙されるな」とか、「反日・左翼に一票を入れないように」など言えば、千葉日報が困るでしょうし、掲載もされないでしょう。

 それでもと、なお千葉日報に依頼されましたら、

  「ご先祖さまへの感謝」「温故知新」「自分郷土を大切に」「自分の仕事を大切に」とか、そのくらいのことは言います。

 「郷土の千葉日報を読んで、偏見のない様々な情報を掴み、自分の仕事に活かしましょう。」・・、ここまで言えば、少しやり過ぎでしょうか。

 肝心のことを言い忘れていましたが、千葉の片隅に住む年金生活者が、千葉日報に質問されるなど、そもそもありえない空想でした。

 最後に、16人の名士の方々の、肩書きと名前を、順不同で、まとめて紹介いたします。誰も褒めていませんので、「ねこ庭」が「贈る言葉」と氏名を別にした理由も、ご賢察いただけるものと思います。

   1.  千葉県新聞販売組合 組合長 松本安弘氏

   2.  公益社団法人 千葉県獣医師会 会長 市川陽一朗氏

   3.  公益社団法人 千葉県医師会 会長 田畑陽一郎氏

   4.  千葉テレビ放送 代表取締役社長 上田誠也氏

   5.  千葉連合会長(日本労働組合連合会千葉県連合会) 会長 小谷裕氏

   6.  ユアサ・フナショク(株) 代表取締役社長 諸澤隆芳氏

   7.  学校法人 江陵学院 理事長 鎌田淳一氏

   8.  一般社団法人 千葉県警備業協会 会長 横倉健氏

   9.  千葉県遊戯業協同組合 理事長 田中伸也氏

 10.  千葉県モラロジー協議会 会長 風澤俊夫氏

 11.  一般社団法人 千葉県民間病院協会 理事長 木村章氏

 13.  千葉県自転車・軽自動車商協同組合 代表理事 山口道博氏

 15.  一般社団法人 千葉県産業循環協会 会長 杉田昭義氏 

 16.  千葉県理容生活衛生協同組合 理事長 増田稔氏

 17.  医療法人柏葉会柏戸病院 理事長 柏戸正英氏

 18.  一般社団法人 千葉県商工会議所連合会 会長 石井俊昭氏 

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『満州事変への道』 ( 46年前の、色褪せた反日著書 )

2018-04-07 17:27:06 | 徒然の記

 馬場伸也 ( ばんばのぶや ) 氏著『満州事変への道』(  昭和47年刊 中公新書  )を、読了。

  自分の国を大切にし愛するという思考に立つ「ねこ庭」は、著者の考えがどこに位置しているのかが常に気になります。「反日・左翼」か、「国を大切にする保守」かとの判断に基づき、ブログのほとんどを書いています。

 戦前の日本を語るため、馬場氏は二人の人物に焦点を当てています。

 田中義一元総理と幣原喜重郎元総理です。田中氏を侵略的軍国思想の持ち主として批評し、幣原氏は平和的自由主義者として評価しています。

 氏は客観的事実を述べながら、曖昧な言葉で田中氏を批判し幣原氏を褒めるので、反日の「醜さ」が目立ちません。最後まで読みますと、結局氏が言いたかったのは、「日本だけが間違った戦争をした。」という、東京裁判史観でした。

 氏の経歴を調べてみましたので、紹介します。

 ・昭和12年、京都生まれ。昭和34年同志社大学卒

 ・シカゴ大学、カリフォルニア大学に学ぶ。

 ・マッギル大学で助教授をしたのち、津田塾大学助教授

 ・国際社会学専門、日本平和学会会長、日本カナダ学会初代会長

 氏が同志社大学を卒業した昭和34年当時は、まだ日本が戦後の貧しさを引きずっていた頃です。

 外貨を政府が厳しく管理し、簡単に使わせないようにしていたため、海外へ出かけられるのは、政治家、財界人等の限られた人物でした。気軽に国外へ出られず、海外旅行は国民の憧れの夢でした。

 そういう時に大卒後の氏が、シカゴ大学やカリフォルニア大学で学べたというのは、普通の家庭ではできません。

 東京裁判史観を正しいとする氏に、米国での留学が無縁とも思われません。氏が大学を卒業した昭和34年の日本の状況を、調べてみました。

  1 月  メートル法施行、NHK教育テレビ、フジテレビ開局

  2 月  黒部トンネル開通

  3 月  千代田区に無名戦士の遺骨を安置する「千鳥ケ淵戦没者墓苑」完成

  4 月  皇太子結婚式、安保阻止国民会議第一次統一行動、東京日比谷で中央集会

  5 月  IOC総会、第18回オリンピックの開催地を東京に決定

  8 月  在日朝鮮人帰還協定・赤十字が調印( 12.14第一船出発 )

  9 月  伊勢湾台風、死者・不明5098人

   11 月   水俣病問題で漁民1500人、新日本窒素水俣工場に乱入。警官隊と衝突
      安保阻止第8次統一行動の国会請願デモ隊約2万余人、国会構内に入る

   12 月  三池争議始まる。
     ラジオ東京テレビ(現・TBS)が「兼高かおる世界の旅」を放送 

 「あとがき」を紹介すると、著者の思考が分かります。46年前の出版ですから氏の叙述そのものが色あせ、「バカなことを言いなさるな。」とたしなめたくなります。

 ・小著を執筆中に、日中国交正常化への道が急速に展開し、ついに今日、1972年9月29日、両国の国交は回復した。

 ・日本と中国に住む数億人の人々と共に、私も心から、この喜びを分かち合いたいと思う。

 ・けれども私たちは、国交が樹立されたからといって、日本の中国への侵略を忘れ去って単純に喜ぶべきでない。

 ・毛沢東主席は、田中角栄首相との会談で、喧嘩してこそ仲良くなれると、賠償も請求せず、寛大な態度を示した。

 ・そのための基礎となるのは、やはり、「平和五原則」を厳守することであると思う。

 「平和五原則」とは、

  1.  領土主権の相互尊重  2.  相互不侵略  3.  相互内政不干渉

  4.  平等互恵   5.  平和共存、の五つである。

 ・日本では、中国のいいなりになったとか、大幅に譲歩したとか、そういう意見も既に出ているが、もともと平和五原則は、すべてが国際法上の基本原則で、中国から押しつけられたものでも何でもない。

 ・日本は過去においても、この原則を遵守すべきであった。

 ・既に述べたように、幣原は常にこのことを強調してきた。

 ・破ったのは、田中義一や森恪、あるいは軍閥といった、一部の人々だけではない。世論もまた中国への内政干渉を主張し、満蒙特殊地域論を唱え、山東出兵を支持してきたのである。

  ・この度日本と中国は、この基本原則を侵害しないことを、両国共同で、世界に声明したのである。条約や共同声明は、遵守されなければならないというのも、国際法上の基本原理である。

 氏は、日本は戦前の過ちを繰り返すなと、声高く述べています。

 46年が経過した現在、中国は尖閣の領海を侵犯し、沖縄を自国の領土だと言い始めました。チベットを強引に併合し、南沙諸島では、台湾、 ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイも領有権を主張していますが、中国は相手にしません。南シナ海のほぼ全域に権利が及ぶといい、南沙諸島では人工島造成を進め、軍事拠点を建設しました。

 西沙諸島の領有権は、ベトナムとの戦いに勝利した中国が、西沙諸島全体を実効支配しています。ベトナムと台湾が領有権を主張していますが、無視しています。

 氏は平成元年に52才で亡くなっていますが、存命なら、どんな思いで中国の現在を語る説明すのでしょう。自分の国を愛することができず、敵国と一緒になり、日本を断罪する学者や文化人が、新聞とテレビに顔を出しています。

 こんな「獅子身中の虫」を退治するためにも、頑張らなくてなりません。

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がんばれ 千葉日報 - 2

2018-04-05 13:26:00 | 徒然の記

 千葉日報を手にする時、「千葉に越して来てよかった。」と、しみじみ思うことがあります。

 何だかんだ苦情を言っても、やはり千葉日報は「偏向報道」の少ない新聞です。

 北海道、名古屋、東京など、地方紙の反日ぶりを知っていますから、あんなところに住み、日々反日の記事を読ませられたら、私はきっと長生きできません。

 昔、「おらが国さの、大臣」と、選挙民が土地の代議士を誇りにしていましたが、代議士の格が落ちましたので、今ではそんなことで胸を張る人間は少数派になってしまいました。以前から少数派である私は、最近、地元の千葉日報が誇らしくなって参りました。

 「おらが国さの、千葉日報」と、自慢したい気持ちになります。

「おらが国さの北海道新聞」、「おらが国さの名古屋新聞」あるいは、「おらが国さの、東京新聞」とは、間違っても言う気になれませんが、千葉日報には不思議な親近感があります。

 倒産間近の朝日を筆頭に、日本の新聞社が左に大きく傾き、傾き加減が半端でないため、「普通の新聞」である、千葉日報がまともに見えているのかもしれません。

  私が一番気に入っているのは、千葉の情報が数字とともに、詳しく報道されるところです。千葉県の人口、千葉県の高齢化率、千葉県の空き家率、千葉県の出産人口、千葉県の年度予算等々が、全国都府県との比較で報道されます。自分の住んでいる土地が、全国の何番めに位置しているのかすぐに分かります。

 千葉県には、全国に誇れる古墳や古代遺跡や、成田空港やディズニーランドなどがあり、これに関する特集記事が連載で組まれます。

 首都圏とを結ぶ千葉県中央道、高速道路の進捗状況など、利害の絡む市町村だけでなく、満遍なく伝えられます。県会議員や国会議員まで登場しますから、将来の千葉の発展という夢と、利権に群がる人間が手に取るように分かります。

 モリカケ問題では、全国紙と歩調を合わせ、政権批判の大見出しで県民をたぶらかせていますが、一方では次のような記事も掲載します。3月30日の小さな、囲み記事ですが、結構目立つ場所に、載せています。

 「TPPより森友か」「麻生氏、報道に不満」

 こういう見出しで、二段組みの記事です。面白いので全文を紹介します。

 ・麻生太郎財務相は、29日の参院財政金融委員会で、連日報道されている森友学園をめぐる決裁文書改ざん問題に関し、森友の方が、TPPより重大だと考えているのが、日本の新聞のレベル、と発言した。

 ・報道姿勢に不満を示したと、見られる。

 ・麻生氏は最近の新聞報道で、森友問題に比べ、TPPに関する記事が少ないことに言及し、日本の新聞のレベルは、こんなもんだと思って、経済部のやつに、ぼろかす言った覚えがある、と話した。

 千葉日報も新聞社の一員なのに、他人事のような書きぶりです。「自分のことは棚に上げ、他人をシッカリ批評する」というのは、「ねこ庭」に似た厚かましさなので笑ってしまいました。

 麻生氏を褒めているわけでもなく、新聞全般をこき下ろしているのでもなく、論評なしの事実報道です。

 なんと判断するのかは、読者にお任せ・・と、こうしたいい加減さが、私は好きです。だから、「頑張れ、千葉日報」と、言わずにおれなくなります。

 「おらが国さの、千葉日報」が、もっと部数を伸ばすよう、微力ながら応援したくなります。「両論併記」が、いかに大切であるか、いかに難しいことであるか。

 共同通信社にがんじがらめの千葉日報が、読者である県民に教えてくれています。

 

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木更津市長の意見 ( 千葉日報の記事 )

2018-04-03 22:46:52 | 徒然の記

 3月28日の、千葉日報の記事です。

 防衛省が、今年秋に導入するオスプレイ5機を、木更津駐屯地に暫定配備する方向であるという報道があり、これを受け、 木更津市の渡辺芳邦市長が、次のように述べたという記事です。

 ・定期の機体整備もしっかりした運用体制になっていない中、暫定整備先を急に木更津市に絞ったという報道があったことは、大変遺憾で、不快に感じている。

 一面の記事の見出しには、大きな活字で、

 「オスプレイ暫定配備報道に」「市長 " 遺憾で不快 "  と、書かれています。忙しい県民が新聞の見出しを見ますと、渡辺市長が、沖縄や鹿児島や新潟県の知事のように、「政府のやることは、なんでも反対。」「自衛隊なら、なんでも反対。」の、反日政治家かと誤解してします。

 記事を読みますと、市長の意見は筋が通っています。

 ・防衛政策に協力するのは、地方自治体の役割だと思っている。

 ・整備と配備では、次元が違う話。まず防衛省の考えを、確認したい。

 もともとオスプレイは、長崎県佐世保の陸上自衛隊に作られた離島防衛の専門部隊のため、佐賀空港に17機が配備される計画で検討されていました。

 そのうちの5機が、今年度に米国から輸送されるため、防衛省は地元と調整を続けていました。しかし今年の2月、佐賀県神埼市の住宅に自衛隊のヘリコプターが墜落し、少女が軽傷を負うという事故が発生しました。

 このため地元の反発が強まり、調整が難航し、先が見えなくなりました。

 九州の他駐屯地には適地がなく、現在オスプレイの定期点検施設が設けられている木更津市を、暫定的配備を含め検討しているというのが実情でした。

 市長は次のように語っています。

 ・佐賀が駄目だから木更津という理屈も、おかしい。

 ・佐賀の状況も説明してもらわなければ、受け入れることはできない。

 日本国中に、反日・左翼の活動家がいて、何かあれば「戦争反対」「独裁者安倍を許すな」と、旗や幟を立てて騒ぎます。県外の人間だけでなく、およそ無関係な韓国人まで動員し、市政に波風を立てます。

 それだけに市長は自衛隊に気を使い、地区の住民にも気を使い、慎重な姿勢で臨もうとしているのだと思います。

 ここで「ねこ庭」は、渡辺市長の名誉のため、政府・防衛省と千葉日報に、千葉県民の一人として、意見を述べさせて頂きます。

 記事を読む限りでは、政府・防衛省と市長の間に、キチンとした説明がされていないことが、一目瞭然です。

 防衛に協力するのは、地方自治体の義務だと大上段に構え、市長に丁寧な説明をしないというのでは、国や防衛省が強権的と受け取られても致し方ありません。まして情報が先に新聞社にリークされたというのなら、市長の立場を困難にします。

 微妙な折衝ごとの場合、途中でマスコミに漏れ記事が出回りますと、反日・左翼活動家たちがぶち壊しにやってくると、こんなことは今の日本の常識でありませんか。

 政府・防衛省が誠意に欠けているという事実が、市長の言葉から推察できます。「佐賀の状況も説明してもらわなければ、受け入れることはできない。」・・、当然の話です。

 今後防衛省が守らなくてならないのは、次の2点です。

  1. 佐賀県との折衝状況を、策を巡らせることなく市長へ伝えること。

  2. 情報管理を徹底し、折衝状況を外部に漏らさないこと。

 次に、千葉日報社への苦言です。

 記事をよく読めば、渡辺市長の真意が理解できますが、見出しの活字は読者の誤解を誘い、千葉県内の左翼議員や活動家を喜ばせます。「不快」という市長の言葉の意味は、「オスプレイの暫定配備」が不快というのではなく、市長の頭越しにオスプレイの暫定配備の検討が進められているのが、「不快」というのですから、このような見出しは適切と言えません。

 読者を変に扇動するような、偏見を煽るような「見出し」は、朝日新聞とか、毎日、東京などという、低級な新聞に任せれば良いのです。

  政府と防衛省は、成田闘争の苦い経験をもう忘れたのでしょうか。

 新しい空港が必要になった政府は、昭和35年頃から新空港用地の検討を進めていました。空港建設に当たり、開港を急当時の建設省は、国策の遂行のためと現地の農民への説明を軽視しました。

 強硬姿勢が起爆剤となり、空港用地周辺のの「民有地取得問題」や「騒音問題」をめぐり、近隣農民の激しい反対運動が起こりました。

 その反対運動に「革命」を目的とする過激派勢力が介入したため、死者を生じる警察との衝突や、各種テロ事件が頻発しました。

 反対運動派内部で、主導権を巡る派閥抗争・内ゲバといった、余計な事件も発生しました。18年後の昭和53年に成田空港が開港しても、テロ事件は収まらず、厳重な警戒の中での航空機の離発着でした。

 やっと過激派との話し合いが決着し、2期工事が認められ、農民の集団移転が可能になったのは、平成7年に、村山首相が過去の謝罪をした時でした。検討段階からしますと、実に35年が経過していました。

 政府や関係省庁が地域住民を軽視し、国策優先と強権で推し進めれば、どんな騒ぎになるのか。立派な前例があります。しかも同じ千葉県です。建設省と防衛省と、管轄する省は違っても、過去の教訓を学ばなくてどうするのでしょう。

 最初のボタンを掛け違えると騒乱につながり、結局は国益を損なうことになるのですから、今が一番肝心な時です。

 当時と異なり、現在は国民の安全保障への理解も深まり、反日左翼への不信感も高まっています。だからといって、地域住民や、その代表である市長を軽視すれば、朝日新聞やNHKや反日野党などが、虎視眈々と狙っています。隙を見せるのは、禁物なのです。

  以上本日は、政府・防衛省と千葉日報に対し、千葉県民の一人として、謹んで意見を申し上げました。 

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