ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

講演会記録 - 3 ( 皇室解体の流れとその体制 )

2021-05-23 21:58:48 | 徒然の記

 反日左翼学者を通じ「皇室撤廃」を図る共産党を頭の隅に置きながら、今回は話をさらに原点に戻します。

 小室母子問題で揺れる皇室について様々な意見があり、最も多いのは、眞子さまと秋篠宮様への怒りと失望の声です。当事者個人の問題であっても、このままでは皇室が国民に信頼されなくなるという危機感からの意見です。

 「ねこ庭」はこの意見に同感し、当事者の方々への憤りもあります。しかし皇室の再生を願うのなら個人の方々を追及するだけでなく、その制度にも目を向けなくては十分でないと考えます。

 敗戦後の皇室と宮内庁の制度が、国民の願いにふさわしい体制であるかどうか、ここを検討しなければ、小室母子に似た事件が再発すると思えてなりません。

 ホイットニー少将以下GHQ内の社会主義勢力は、「皇室撤廃」を目指しましたが、占領期間中にはできませんでした。その代わり彼らは、「皇室崩壊」の仕組みを工夫しました。繰り返しになりますが、「日本国憲法」と「改正・皇室典範」、「改定・国民の祝日に関する法」がそれです。

 宮内省から宮内庁へと作り替えられた組織は、「皇室護持」のためでなく、長期的な「皇室崩壊」の制度でした。昨年放送された、NHKの『昭和天皇拝謁記』のおかげで、「ねこ庭」はこの事実が確認できました。

 「小室母子の不祥事の原因は、眞子さまと秋篠宮様の個人的責任だけでなく、宮内庁の組織にある。」

 これが「ねこ庭」意見です。お二方の個人的責任については、多くの人が述べていますので、体制の問題を取り上げようと思います。

  ・朝日新聞は慰安婦問題の大ウソで国民の信頼を失い、倒産の危機にあります。

  ・NHKも、今回の犯罪的違法番組で昭和天皇を冒涜したため、国民に嫌悪され、解体の危機に陥るのではないでしょうか。

 昨年の9月『昭和天皇拝謁記』を見終えた時の、「ねこ庭」での感想です。しかし『昭和天皇拝謁記』は、世間でなんの話題にもならず、NHKの責任も語られませんでした。保守政治家も評論家も、多くの国民も関心を示さないまま、いつの間にか消えてしまいました。

 ところが今年になり、小室母子の事件がネットの世界で騒がれるようになりました。国難の問題であるにも関わらず大手メディアが報道せず、ネットの世界だけが熱くなっています。このまま行けばいつか国論が分かれ、皇室不要論が出てくるような畏れがあります。

 するとやはり、NHKの『昭和天皇拝謁記』が思い出されます。『拝謁記』は、ウイロビー准将の権力と芦田総理の後ろ盾を武器に、宮内庁長官田島氏が昭和天皇を追い詰めていく事実を伝えています。保守の顔をした獅子身中の虫が、陛下のお側でどの様な言動をしていたのかを、明らかにしていました。

 NHKの報道とは別にネット調べた情報を、「ねこ庭」の過去記事から紹介します。

   ・昭和23年6月、芦田均首相によって田島が宮内府長官に任命される。
 
   ・昭和天皇は、宮内府長官・松平慶民と、侍従長・大金益次郎を交代させることに難色を示されたが、芦田は宮中改革を実行するため交代を断行した。
 
   ・田島が宮内府長官で三谷隆信が侍従長のコンビが、成立した。
 
   ・宮内府は宮内庁と改称され、宮内府時代の機構が縮小・改変され、二人は「 宮中クリスチャンコンビ」  として、戦後の宮中改革に尽力した。
 
 皇室へのキリスト教の浸透はほとんど話題になりませんが、
 
  田島道治宮内庁長官   三谷隆信侍従長  浜尾実東宮侍従
 
  杉井侍従        入江相政侍従長  村井長正氏 
 
  前女官長の松村淑子氏、 女官長の井上和子氏が、クリスチャンでした。
 
 「田島、神谷、小泉は宮中の民主主義教育の促進や、美智子皇太子妃の実現などに功績を残すことになった。」
 
 上皇陛下と美智子様の出会いは、当時「軽井沢でのテニスコートの恋」と、マスコミがトップニュースで報じましたが、あれは偶然の出会いでなく、田島長官、三谷侍従長、小泉信三氏による計画だと言われています。
 
 真偽の程は分かりませんが、ネットではこのように説明されています。
 
  ・「開かれた皇室」や「庶民と向き合う皇室」を熱心に語ったのは、小泉氏でした。
 
  ・当時の皇太子殿下と美智子様は、小泉氏の言を是とされ、皇室の改革に向かわれました。
 
  ・田島氏の協力を得て、お二人のご教育は最初から昭和天皇より隔離され、陛下の手の届かないところで実施されたとも聞きます。

 皇室財産を没集され、皇位安定のための11宮家を皇籍離脱させられ、宮内庁そのものが別組織となり、信頼する松平宮内府長官と大金侍従長を交代させられ、この時期の陛下はまさに孤独の戦いをされていました。

 美智子様とのご結婚についても、反対できないお立場ではなかったかと考えられます。その一つの証拠が、今は亡き皇后陛下ではなかったかと思われます。陛下の決められたことに逆らわれない皇后陛下が、最後までご結婚に反対されていました。

 「美智子さまに冷たい、皇后陛下」と、女性週刊誌が書き立てていましたが、事実の背景を知ると皇后陛下のお気持が察せられます。今も昔もマスコミは、「報道しない自由」を使い国民を騙しますが、しかし今回の本題は、当時のご結婚問題でなく宮内庁の体制です。

 横道へ逸れたためか、それとも全てが息子たちや「ねこ庭」を訪れる方々に必要な情報だったためか、自分では分かりません。分かるのは、今回もブログを終われなかったという結果です。

 すっかり日が暮れてしまいました。続きの次回は明日になります。

コメント (2)
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講演会記録 - 2 ( 皇室撤廃 )

2021-05-23 15:25:30 | 徒然の記

 本日は、共産党の基本戦略である「 皇室撤廃 」について述べますが、「ねこ庭」を訪ねられた方々に、念押ししておかねばならないことがあります。

 日弁連で共産党は、指導者クラスを掌握することで、組織の主導権を握っています。学界についても同様で、同党は学者集団のリーダーを掌握し、彼らを通じ戦略を実行しています。姿を隠したまま学者組織を動かしているので、国民の目には見えません。

 非合法組織だった共産党は、戦前は弾圧されたため人に知られないよう、秘密裏に活動していました。政治家は別として、学者、評論家、作家、音楽家、あるいは弁護士は、戦前は党籍を隠して仕事をしていました。それがそのまま現在に繋がっていると、そう考えると分かりやすくなります。 

 これから紹介することも共産党が直接実行したのでなく、共産党員である学者を通じて行ったという意味になります。

 話が大きく飛び、明治時代の宮内庁の歴史を、ネットの情報から紹介します。

  ・明治22年、大日本帝国憲法の発布とともに皇室典範が裁定され,皇室自律の原則が確立しました。

  ・明治41年、皇室令による宮内省官制が施行され、宮内大臣は皇室一切の事務につき、天皇を輔弼(ほひつ)する機関とされました。

 皇居内にある当時の宮内省は、天皇直属の組織でした。宮内省には、内蔵寮 (  くらのつかさ ) という官庁があり、ここが皇室経済を取り仕切っていました。

 明治維新後の皇室は、徳川家を凌ぐ財を持たれる日本一の資産家となっていました。「皇室自律の原則が確立」というのは、そういう意味です。寮という字は「りょう」でなく「つかさ」と読み、役所のことだそうです。

 GHQと協力した左翼学者たちの改革で、皇室は資産のほとんど失われました。国民の中には、「皇室は国民の税金で生活ができている」と言う人がいますが、これは正しくありません。

 戦前の皇室は日本一の大富豪で、各地に広大な御領地を持たれ、国民に恩賜されるほどの裕福さでした。戦前の宮内省の組織を、参考のため紹介いたします。

  ・大臣官房・侍従職・式部職・宗秩寮

  ・諸陵寮・図書寮・侍医寮・大膳寮・

  ・内蔵寮・内匠寮・主馬寮・総務局・警衛局のほか、

  ・外局として内大臣府・掌典職・皇后宮職・東宮職・皇太后宮職・

   帝室会計審査局、

  ・御歌所・帝室博物館・正倉院管理署・帝室林野局

  ・学習院・女子学習院・李王職

  ・地方機関として京都地方事務所・・・等がありました。

 GHQは左翼学者の強力で「皇室典範」を改変し、皇室財産を全て国庫に編入して皇室を無一文にしてしまいました。ご先祖から伝えられた財産の全てを、GHQが力づくで奪ったのですから、昭和天皇の屈辱は大きかっただろうと思います。

 現在の東京大学は明治天皇が御下賜されたものだと、こうした事実を知っていれば「私たちの税金で皇室がある」と言うのは間違いで、むしろ皇室はGHQという強盗に財産を盗まれた被害者ということになります。

 ネットの情報の紹介を続けます。

  ・終戦後宮内省の事務は、他の政府機関に移管されたり、分離独立させられたり機構の縮小が図られました。

  ・昭和22年5月3日、日本国憲法の施行とともに宮内省から宮内府となり、内閣総理大臣の所轄の機関となりました。

  ・これに伴って職員も大幅に削減され,終戦当時6,200人余りであった職員は、宮内府発足とともに1,500人弱となりました。

  ・宮内府には宮内府長官の下に、宮内府次長が置かれ,長官官房・侍従職・皇太后宮職・東宮職・式部寮・図書寮・内蔵寮・主殿寮と京都地方事務所が置かれました。

  ・昭和24年6月1日には総理府設置法の施行により、宮内府は総理府の外局として宮内庁となりました。

  ・田島道治は日本国憲法施行の翌年の昭和23年6月、宮中改革を進めたいGHQの意向を受けた当時の芦田均総理大臣に任命され、宮内庁の前身の宮内府長官に就任しました。

  ・田島氏は、反日NHKが報道した『昭和天皇拝謁記』の違法メモを残した人物です。宮内府が宮内庁と変わった後も「長官」として残り、皇室崩壊の施策を進めました。

 ネットの情報では婉曲に、「宮中改革」と書かれていますが、実態は長期的「皇室崩壊施策」でした。

 令和元年8月にNHKが『昭和天皇拝謁記』を全国報道したことも、この流れに沿ったものだと、「ねこ庭」では考えています。国家公務員法違反である恥ずべき犯罪番組作りに協力したのは、日本の近現代史の専門家と言われる4人の学者でした。

 日本大学の古川隆久教授、志學館大学の茶谷誠一准教授、成城大学の瀬畑源非常勤講師、京都大学大学文書館の冨永望特定助教の4人です。彼らは反日・左翼学者ですから、おそらく共産党と無縁でないと思います。
 
 共産党の基本戦略「 皇室撤廃 」について、今回で終わる予定でしたが、スペースが足りなくなりました。
 
 久しぶりの晴れ間が私の心とは裏腹に、爽やかな青空を見せています。バラは散りましたが、都忘れと京かのこなど小さな花が咲いています。話題は暗くても、明るい日差しの「ねこ庭」です。次回もどうか足をお運びください。
コメント (7)
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