ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

ジャカルタ路地裏ノート - 7 ( インドネシアのテレビと政治 )

2019-07-03 20:15:40 | 徒然の記
 今回は、インドネシアの国政選挙とテレビについて、倉沢氏の意見を紹介します。
 
 「スハルト時代の最後の1997 ( 平成9 )年の選挙の時、第1党になったのは野党の開発第一党で、得票率は50パーセント、与党ゴルカルは38パーセント、白票が10パーセントだった。」
 
 「スハルト時代から、これほど多くの人が、野党に票を入れたというのは非常に興味深い。」
 
 開発独裁の長期政権で、スハルト一族が金権腐敗の政治を続け、国民に愛想をつかされた結果でした。 それは丁度、平成21(2009)年に、金権腐敗した自民党が政権を失い、民主党と交代した時の姿に似ています。
 
 この後で、金権腐敗に劣らず恐ろしいのが、反日左翼だと、日本国民は勉強しましたが、本題を外れますのでこの話はやめます。
 
 本題は、政権交代した国政選挙で大きな役割を果したのが、テレビだったという氏の説明です。
 
 「ポーリング・センターという、民間の調査会社が行った調査によると、選挙の全期間を通じ、国民の93~96パーセントが選挙報道を見ており、60パーセントの人が、選挙の登録方法を知ったのは、テレビからであったと伝えている。」
 
 広い国土で、電波の届かないところに住む人間もいて、まだ電化されていない地域があるというのに、本当だろうかという疑問に対し、氏が次のように説明しています。
 
 「実はこの国で、テレビへのアクセスを持った人々は、国民の85パーセントに当たると言われている。」「テレビが急激に普及した背景には、1989 ( 平成元年 ) から、国営テレビの独占が破られ、民間放送局の誕生した事実がある。」
 
 「民間放送局は視聴率の原理で動き、視聴率が高くないとスポンサーがつかない。それで競って、面白い番組を作るようになった。」
 
 氏の説明によりますと選挙報道といっても、民間放送局のテレビは、楽しく面白く、内容が工夫され、娯楽の少ない国民が争うように観たのだと言います。
 
 「スハルト時代には民間テレビ局に対して、いくつかの制約が課されていた。例えば民間テレビ局は、独自のニュースを放映することは許されず、国営テレビのニュースを、一斉に流すことが義務付けられていた。」
 
 「これが時とともになし崩しにされ、 〈 ニュース 〉 とは言わないが、〈 情報番組 〉 と称して、 ある種の報道番組が許されるようになっていた。」
 
 スハルト独裁政権は、国営テレビの支配もしていたのです。民放の登場により、テレビが格段に面白くなり、同時に村落部での電化が進むと、テレビが急速に民間に広まりました。急激なテレビの普及と重なった時に、今回の選挙が来たのです。氏の説明が続きます。
 
 「広大な面積と、さまざまに異なる文化的背景を持つ住民が、一緒に暮らすインドネシアのような国において、短期間の内に集中的な啓蒙活動や、政治的なプロパガンダを実施する際、映像が極めて有効な役割を果たすことは、誰もが考えることであろう。」
 
 「実はこの国では、60年近くも前、第二次世界大戦中に、この地を占領した日本軍によって、いち早くその試みが行われている。」
 
 隣組だけでなく、ここでもまた日本軍の話が出てきました。善悪の判断に言及せず、氏は学者らしい客観論を述べます。
 
 「軍政監部と呼ばれた日本軍の統治機構の中に、宣伝部という部局が作られ、ここが住民の啓蒙と宣伝を握った。」
 
 「その際最も活用したのが、映画であった。識字率の低い住民に対し、異なる文化やイデオロギーを教えるには、映像は最も効果的なものであると考えられていた。」
 
 「日本の国策映画会社であった、日本映画社の支社をジャカルタに置き、毎月、ニュース映画2本と、文化映画を2本作り、映写機をトラックに積み、村々を巡回し、住民に見せたのである。」
 
 「他に娯楽のない時代だったから、日本軍の見せる映画は、この上もない楽しみだったのである。」
 
 「映画の中では、後に大統領、副大統領になるスカルノやハッタが、しばしば登場し、国民に語りかけた。知名度のなかった民族主義者が、国民的英雄になり得たという点も、あったのである。」「1945 ( 昭和20 ) 年のインドネシア独立に際し、」「日本の軍政監部宣伝部は、情報省と名を変えて生き残った。」
 
 情報省は、スハルト政権にも引き継がれ、メディアへの規制・監督とともに、政権の必要とする情報を、選別して国民に流すという役目もしました。
 
 「従ってテレビを、政治的プロパガンダのため使うという発想は、この国にとっては、目新しいことではない。」と、氏が説明します。
 
 本日で氏の書評をやめ、その代わりとして、昨年の6月にブログで紹介した、マレーシア人のラジャ・ダト・ノンチック氏の詩を再度紹介します。題名は不明ですが、平成元年 ( 1989 )に、首都クアランプールで書かれたものです。
 
  かって 日本人は 清らかで美しかった
  かって 日本人は 親切でこころ豊かだった
  アジアの国の誰にでも
  自分のことのように 一生懸命つくしてくれた
 
  何千万人もの 人の中には 少しは 変な人もいたし
  おこりんぼや わがままな人もいた
  自分の考えを おしつけて いばってばかりいる人だって
  いなかったわけじゃない
 
  でも その頃の日本人は そんな少しの いやなことや
  不愉快さを超えて おおらかで まじめで
  希望にみちて明るかった
 
  戦後の日本人は 自分たちのことを 悪者だと思い込まされた
  学校でも ジャーナリズムも そうだとしか教えなかったから
  まじめに
  自分たちの父祖や先輩は
  悪いことばかりした残酷無情な
  ひどい人たちだったと 思っているようだ
 
  だから アジアの国に行ったら ひたすら ぺこぺこあやまって
  私たちはそんなことはいたしませんと
  いえばよいと思っている。
 
  そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると
  自分の国や自分までが えらいと思うようになってきて
  うわべや 口先では すまなかった 悪かったといいながら
  ひとりよがりの 
  自分本位の えらそうな態度をする
  そんな 今の日本人が 心配だ
 
  ほんとうに どうなっちまったんだろう
  日本人は そんなはずじゃなかったのに
  本当の日本人を知っているわたしたちは
  今は いつも 歯がゆくて 
  悔しい思いがする
 
  自分たちだけで 集まっては 自分たちだけの 楽しみや
  ぜいたくに ふけりながら 自分がお世話になって住んでいる
  自分の会社が仕事をしている その国と国民のことを
  さげすんだ目で見たり バカにしたりする
 
  こんなひとたちと 本当に 仲良くしていけるのだろうか
  どうして
  どうして日本人は
  こんなになってしまったんだ         
 
 ノンチック氏の詩には、私の思いがそっくり述べられています。
息子たちに言います。戦後日本の教育が形だけの反省をさせ、国民が盲従してきた事実を、この詩が指摘しています。よく読んでください。ノンチック氏が批判し反省を促しているのは、戦前の日本人ではありません。むしろ経済大国になった、戦後の日本人に対してです。
 
 今後私たちが決別すべきものを、もう一度心に刻みましょう。
 
  1.   自虐的東京裁判史観
  2.  反日・左翼思想
  3.  祖国を否定し、自己の利益だけを追求するグローバル思想
  4.  捏造報道をする、変節した反日のマスコミ
     5.  上記を主張する、日本人の魂を失った政治家、学者、評論家たち
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする