5.15事件は、昭和7年の出来事だ。海軍の青年将校たちが、犬養総理大臣を自宅へ押し入って射殺した。
続く2.26事件は昭和11年の出来事で、青年将校ら1,483名が政府要人を襲い、高橋是清大蔵大臣、斉藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監ほか警官5名を殺害した。
林氏がわざわざ一章を設け、大川周明と北一輝について語っているが納得しないまま読み終えたというのが、正直なところだ。
5.15事件の背後には大川周明がいて、2.26事件には北一輝がいた。刑務所に入れられたが、大川周明は罪を問われることなく出獄し、北一輝はただ一人の民間人として軍人と共に処刑された。
その代わり大川周明は、敗戦後の東京裁判の法廷に引き出された。被告席で突然精神に異常をきたし、自分の前に座る東条英機の頭を叩き、MPに連れ出されている。記録の動画を見てこの異様な光景を覚えているが、氏の本を読む以前に二人について知っていたのはこれだけだった。
大川周明は明治19年山形県に生まれ、熊本五高から東京帝大の文学科で哲学を学んだ。語学は英、仏、独、サンスクリット語に通暁し、さらに支那語、ギリシア語、アラビア語を学んだ。
生涯求道者であった彼は最初はキリスト教に惹かれ、次にマルクスに心酔し、さらにプラトンの国家論に心を奪われ、最後には日本の思想家へと回帰する。それが熊沢蕃山であり、横井小楠であり、佐藤深淵であった。
こうして彼は「大アジア主義」と「日本主義」を自己の魂の中で結晶させ、「昭和維新」の理論的指導者として実行活動へ没入していく。
一方北一輝は、明治16年新潟県佐渡に生まれ、佐渡中学校で飛び級で進級するが、眼病を患い学業不振となる。家業の造り酒屋が傾いたことも加わり、彼は退学した。
経済的に恵まれた大川と異なり、北は苦学して学び、早くから社会活動に飛び込んでいる。24歳の時『国体論及び純粋社会主義』を著し、35歳の時には『支那革命外史』を出している。
彼の著作には、当時の経済学者、社会学者、社会運動家たちなど、多くの知識人から賞賛の手紙が送られ、福田徳三は北を天才と高く評価した。『貧乏物語』で有名な河上肇も、読後の喜びが抑えきれず彼を訪問したとある。
大川と北は互いに面識がなかったものの、当時の知識人の中では共に一目置かれる存在であった。中国革命の最中に宋教仁の誘いで上海へ渡り、活動に加わっていた北を、大川が訪ねたのは大正8年だった。この状況を、林氏が次のように述べている。
・東亜百年戦争の末期を代表する二人の革命的思想家は、相会うと同時に、二つの火炎星のごとく衝突して猛火を発し、別れて再び会うことがなかった。
もともと私は、こうした講談めいた語り口を好まないので、林氏の意見に共感を覚えなかった。二人は確かに非凡な人物なのだろうが、心に伝わるものがなかった。
吉田松陰や徳川慶喜の時のように、彼らが語った言葉が、具体的に紹介されていないところにも原因があるのかもしれない。
・大川周明の社会主義は王道政治と変化し、江戸末期の思想家へと回帰する。
・北一輝の社会主義は法華経の教えとつながっていき、マルクスとは無縁なものとなる。
・彼らの社会主義とは、いわば「経済的弱者の救済」であり、「富の公平な分配」に主眼があり、過激な思想であるが、階級闘争とか武力革命とかに力点が置かれていないらしく見える。
もしかすると林氏自身も、彼らの著作を読んでいないのか。それとも短い一章にまとめられないほど、複雑だったのか。なんとも中途半端な説明で終わる。
けれども章の最後に率直な意見を見つけ、安堵した。林氏らしい本音だと思う。
・私には、北一輝と大川周明の本質または正体が、まだ分からないと言っておくのが正直なところだ。
・ただ分かることはこの二人が、東亜百年戦争の末期を代表する魔王的思想家であったということだけだ。
・両者とも敗北を運命づけられ、しかもアジア解放の戦争だったという、日本の歴史が生んだ反逆的浪人学者であったこと。
いつか機会があったら、自分の力で二人の著作に触れたいと思う。博学な林氏でも手にしなかった本だから理解できない気もするが、希望は大きいほど良い。ボケ防止になるし、長生きをする必要も生まれる。
本が読める状態で長生きするのなら、息子や孫にも迷惑をかけないで済むので、一挙両得の希望だ。
今回は何となく中途半端な思いが残るが、林氏には感謝すべきと思う。長い人生には、こんな日もあるのだろう。本日はここで終わり。