林房雄氏著『大東亜戦争肯定論』( 昭和59年刊 三樹書房・やまと文庫 )を読了。
氏は明治36年大分県大分市に生まれ、昭和50年に73才で死去。東大法学部を中退後、プロレタリア作家として出発したが、後に転向し、愛国者として生きた経歴を持つ。
本名は後藤寿夫。日本の小説家、文芸評論家だ。名前だけ知っているが、作品は一つとして読んだことがない。中間小説を書く流行作家という印象が強く、若い頃の自分は、獅子文六氏や丹羽文雄氏など中間小説家を軽視していたから、林氏の本は一冊も読まず、それでも恥なかった。
老境に差し掛かりつつある今、氏の著作を初めて手にし、若い頃の無知蒙昧を恥じている。知らなかった歴史を教えられ、背筋を伸ばし、襟を正して読む氏の本は、読書の秋に相応しい書物だった。
昭和38年から2年間中央公論に連載され、その後単行本になったという。今回手にした本は氏の死後に出されたもので、出版社も異なっているから、色々な変遷があったのだろう。昭和48年に記された氏の言葉が、目次の後のページに挿入されている。
・この本は、もっと読まれねばならぬ。特に戦後の世代、早くも30代に近づき、占領教育と左翼史観からの脱却を求めつつある青年諸君は、日本再建のための指針を読み取ってくれることと信じている。
昭和48年、私は29才だった。まさしく私の年代の者に向かって氏が書いた本だ。当時は高度成長時代で、月月火水木金金と、休日なしで日本中が働いていた時だ。林氏がどのような本を出していたのか、知る暇が無かったし、若い時の自分は、今よりもっと無知な人間だったから、読んでも理解できなかったに違いない。
下巻はまだ読んでいないが貫いている主題は、「大東亜戦争とは、いったい何だったのか。」という問いかけだ。石川達三氏は「太平洋戦争を起こしたのは、明治以来の軍国主義教育が原因だ。」と言ったが、林氏は、もっと長いスパンで考えようとしている。
11ページに書かれた氏の言葉を読んだ時、不思議な感銘を受けた。
・私は自身にたずねる。明治大正生まれの私たちは、「長い戦争 」 の途中で生まれ、その戦争の中を生きてきたのではなかったのか。
・私たちが平和と思ったのは、次の戦闘のための小休止ではなかったか。
・徳川二百年の平和が破られた時に、「 長い一つの戦争 」 が始まり、それは昭和20年8月15日にやっと終止符を打たれた・・のではなかったか。
氏はこれを「東亜百年戦争」と自ら名付け、その意味と歴史の事実を語る。国を思う人間としての、静かだが強靭な意志を感じさせられ、中間小説家と氏を軽視してきた自分を反省させられた。
敗戦後の日本が、どうして今も米国の属国に甘んじているのか、一人世界ののけ者となり、責められ続けているのはなぜなのか。
それを氏が、幕末の日本から説き明かしてくれる。それはもはや、石川達三氏の言う「太平洋戦争を起こしたのは、明治以来の軍国主義教育が原因だ。」という、そんな短い期間の話ではない。
私は暫く氏に導かれるまま、秋の夜長を、氏の著作と過ごしてみたい。長くなっても、氏の言葉を根気よく紹介し、いつかブログを読んでくれる息子や孫たちのため残したい。「三っの史観」という章にある、氏の言葉をそのまま紹介する。
・上山春平氏によれば、敗戦後の日本人は、アメリカの立場からの太平洋戦争史観、ソ連の立場からの帝国主義戦争史観、中共の立場からの抗日戦争史観を、次々に学習させられて来たそうである。
・確かにそうであった。あの戦争は、アメリカに従えば、デモクラシーのファッシズムに対する勝利であり、ソ連に従えば、米英帝国主義対日独帝国主義の衝突であり、中共に従えば、日本帝国主義による中国侵略の惨めな挫折である。
・が、いずれにせよ、上山氏は、この状況を次のように述べている。
・あの戦争をこれほど主体的に、これほど多元的角度から反省する機会を持った国民が、他にあるだろうか。こうした独自な国民的体験を、私はかけがえなく貴重なものと思う。
林氏は、上山氏のいう「独自な国民的体験」の上に立ち、日本人自身の「大東亜戦争史観」を築く時が来ていると説明する。ここで氏が述べるのが、「東亜百年戦争」という考え方だ。
つまり、「大東亜戦争は東亜百年戦争の一部であり、終局でもあった。」という捉え方である。予想していない思考だったため最初は戸惑ったが、読み進むうちに納得した。反日左翼マルキストの日本人を除けば、なるほどとうなづかされる意見だろう。
東亜百年戦争に関する説明はある種の謎解きにも似て、思わず引き込まれてしまう。
・では、その百年戦争はいつ始まったのか。さかのぼれば、当然明治維新に行き当たる。が、明治元年では、まだ足りない。
・それは維新の約20年前に始まったと、私は考える。薩英戦争も下関戦争も、その一部であり、開始はもっと以前だと考える。
・米国海将ペルリの日本訪問は嘉永6年、1853年の3月だ。明治元年からさかのぼれば、15年前である。それが始まりか。いや、もっと前だ。
・オランダ、ポルトガル以外の外国船の日本近海出没の時期は、ペルリ来航の更に7年以上さかのぼる。それが急激に数を増したのは、弘化年間だ。
・国史大年表によって、弘化元年から嘉永6年までの外国船と、海防関係の記事を拾ってみると、実に80件以上に上る。
太平の 眠りを覚ます 蒸気船
たった四杯で 夜も眠れず
ペルリ来航時の朝野の騒ぎを詠んだ狂歌として、日本史の時間に習った。林氏の説明では、その7年前から外国船が日本近海に現れ、幕府・朝廷のみならず、在野の学者、武士階級の間に深刻な影響を与えていたという。
東京湾をはじめ日本沿岸各地の砲台も、この頃から次々築造されたとの説明だ。
水戸斉昭や藤田東湖の「攘夷論」、平田篤胤の「日本神国論」が生まれ、抗戦イデオロギーが発生したと氏が言う。人物名と書名だけは受験勉強のため丸暗記していたが、本の中身も時代背景も頭に残っていない。
吉田松陰といえば、日本人が誰でも知っている歴史上の人物だが、彼がどのような考えをしていたのか、私は氏の本で初めて理解した。大東亜戦争を考える上で、大切な部分なので、次回のブログにすることとした。
73才で死去した氏は、もしかするとこの上下二巻の著作を、自分の遺言として書いたのかもしれない。同じ年の私は死は望んでいないが、隣り合わせの友みたいな近さがある。そうなれば「ねこ庭」のブログも、子や孫に残す遺言と言っておかしくはない。生きている間は相手にされなかったとしても、死後に私のブログを読めば、考え直すことがあるのかも知れない。
ちょうど先日、亡くなった叔父の蔵書を読み叔父に感謝したり、失礼の数々を反省したりした自分のように・・。しかしちょっと待て、取らぬ狸の皮算用は止めるべしだ。子供たちのことは、ブログと無関係な雑念だ。
林氏に比べなんという卑小な思考であることか。これだから小人は困る。
( キリがないから、本日はこれまで。)