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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『大東亜戦争肯定論』 - ( 林房雄氏との出会い ) 

2016-11-04 20:26:18 | 徒然の記

   林房雄氏著『大東亜戦争肯定論』( 昭和59年刊 三樹書房・やまと文庫 ) を読了。

 氏は明治36年大分県大分市に生まれ、昭和50年に73才で死去。本名は後藤寿夫。日本の小説家、文芸評論家だ。東大法学部を中退後、プロレタリア作家として出発したが、後に転向し、愛国者として生きた経歴を持つ。

 中間小説を書く流行作家という印象が強く、若い頃の自分は、獅子文六氏や丹羽文雄氏など中間小説家を軽視していた。名前だけ知っているが、作品は読んだことがない。氏の著作を初めて手にし昔の無知を恥じ、背筋を伸ばし襟を正して読んでいる。

 昭和38年から2年間中央公論に連載され、その後単行本になった。今回手にした本は氏の死後に出されたもので、出版社も異なっている。目次の次のページに、昭和48年に書かれた氏の言葉が挿入されている。

  ・この本は、もっと読まれねばならぬ。

  ・特に戦後の世代、早くも30代に近づき、占領教育と左翼史観からの脱却を求めつつある青年諸君は、日本再建のための指針を読み取ってくれることと信じている。

 昭和48年、私は29才だった。この言葉は、私の年代の者に向かって書かれたものになる。当時は高度成長時代で、休日なしで日本中が働いていた時だ。氏がどのような本を出していたのか、知る暇が無かった。

 下巻はまだ読んでいないが貫いているテーマは、「大東亜戦争とは、いったい何だったのか。」という問いかけだ。石川達三氏は「太平洋戦争を起こしたのは、明治以来の軍国主義教育が原因だ。」と言ったが、林氏は、もっと長いスパンで考えようとしている。

  11ページにある氏の言葉を読んだ時、不思議な感銘を受けた。

  ・私は自身にたずねる。明治大正生まれの私たちは、「長い戦争 」 の途中で生まれ、その戦争の中を生きてきたのではなかったのか。

  ・私たちが平和と思ったのは、次の戦闘のための小休止ではなかったか。

  ・徳川二百年の平和が破られた時に、「 長い一つの戦争 」 が始まり、それは昭和20年8月15日にやっと終止符を打たれた、のではなかったか。

 氏はこれを「東亜百年戦争」と名付け、その意味と歴史の事実を語る。国を思う人間の、強い意志を感じさせられ、中間小説家と氏を軽視してきた自分を反省した。

 敗戦後の日本が、どうして今も米国の属国に甘んじているのか。一人世界ののけ者となり、責められ続けているのはなぜなのか。

 それを氏が、幕末の日本から説き明かしてくれる。石川達三氏の言う「太平洋戦争を起こしたのは、明治以来の軍国主義教育が原因だ。」という、短期間の話ではない。

 私は暫く秋の夜長を、氏の著作と過ごしてみたい。いつかブログを読んでくれる息子や孫たちのため、残したい。「三っの史観」の章にある、氏の言葉を紹介する。

  ・上山春平氏によれば、敗戦後の日本人は「三っの史観」を次々と学習させられて来たそうである。

     1.  アメリカの立場からの太平洋戦争史観

           2.  ソ連の立場からの帝国主義戦争史観

           3.   中共の立場からの抗日戦争史観を、次々に

  ・確かにそうであった。あの戦争は、アメリカに従えば、デモクラシーのファッシズムに対する勝利であり、ソ連に従えば、米英帝国主義対日独帝国主義の衝突であり、中共に従えば、日本帝国主義による中国侵略の惨めな挫折である。

  ・が、いずれにせよ、上山氏は、この状況を次のように述べている。

  ・あの戦争をこれほど主体的に、これほど多元的角度から反省する機会を持った国民が、他にあるだろうか。こうした独自な国民的体験を、私はかけがえなく貴重なものと思う。 

 氏は、上山氏のいう「独自な国民的体験」の上に立ち、日本人自身の「大東亜戦争史観」を築く時が来ていると説明する。ここで氏が述べるのが、「東亜百年戦争」という考え方だ。

 つまり、「大東亜戦争は東亜百年戦争の一部であり、終局でもあった。」という捉え方である。予想していない思考のため最初は戸惑ったが、読み進むうちに納得した。反日左翼マルキストの日本人を除けば、なるほどとうなづかされる意見だろう。

 東亜百年戦争に関する氏の説明は、ある種の謎解きにも似て思わず引き込まれてしまう。

  ・では、その百年戦争はいつ始まったのか。さかのぼれば、当然明治維新に行き当たる。が、明治元年では、まだ足りない。

  ・それは維新の約20年前に始まったと、私は考える。薩英戦争も下関戦争も、その一部であり、開始はもっと以前だと考える。

  ・米国海将ペルリの日本訪問は嘉永6年、1853年の3月だ。明治元年からさかのぼれば、15年前である。それが始まりか。いや、もっと前だ。

  ・オランダ、ポルトガル以外の外国船の日本近海出没の時期は、ペルリ来航の更に7年以上さかのぼる。それが急激に数を増したのは、弘化年間だ。

  ・国史大年表によって、弘化元年から嘉永6年までの外国船と、海防関係の記事を拾ってみると、実に80件以上に上る。

   太平の 眠りを覚ます 蒸気船

     たった四杯で 夜も眠れず

 ペルリ来航時の朝野の騒ぎを詠んだ狂歌として、日本史の時間に習った。氏の説明では、その7年前から外国船が日本近海に現れ、幕府・朝廷のみならず、在野の学者、武士階級の間に深刻な影響を与えていたという。

 東京湾をはじめ日本沿岸各地の砲台も、この頃から次々築造されたとの説明だ。

 水戸斉昭や藤田東湖の『攘夷論』、平田篤胤の『日本神国論』が生まれ、抗戦イデオロギーが発生したと氏が言う。人物名と書名だけは受験勉強のため丸暗記していたが、本の中身は教わらなかった。

 吉田松陰といえば、誰でも知っている歴史上の人物だが、彼がどのような考えをしていたのか、私は氏の本で初めて知った。大東亜戦争を考える上で重要な人物なので、次回のブログにすることとした。

 73才で死去した林氏はこの上下二巻の著作を、自分の遺言として書いたのかもしれない。同じ年の私は死は考えていないが、隣り合わせの友みたいな近さを感じる。そうなれば「ねこ庭」のブログも、子や孫に残す遺言と言っておかしくはない。生きている間は相手にされなかったとしても、死後に私のブログを読めば、考え直すことがあるのかも知れない。

 亡くなった叔父の蔵書を読み、叔父に感謝したり、失礼の数々を反省した自分のように・・。しかしちょっと待て、取らぬ狸の皮算用は止めるべしだ。子供たちのことはブログと無関係な雑念だ。これだから小人は困る。

 キリがないから、本日はこれまで。

コメント
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