goo blog サービス終了のお知らせ 

ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『大東亜戦争肯定論』 (下) - 1 ( 不平等条約改正 )

2016-11-16 19:10:22 | 徒然の記

   林房雄氏著『大東亜戦争肯定論』(下) ( 昭和59年刊 三樹書房・やまと文庫 ) を読了。

 安政元年にペリーとの間で結ばれた「神奈川条約」と、その4年後にハリスによって改定された「安政条約」について、私たちは中身をどれだけ知っているだろうか。

 屈辱の歴史を語る氏の言葉を、息子や孫たちのため紹介する。

  ・不平等条約の撤廃について 、明治維新政府は成立の当初から腐心した。イギリスを先頭とする欧米列国は、頑として日本の要求を認めず、日清・日露の役を経て「朝鮮併合」を敢行した後に、初めて、日本の改正要求に応じたのである。

  ・しかも条約の尻っぽとしての、外国人の「永代借地権」は昭和17年まで残った。

  ・安政元年の「神奈川条約」は、ペリーの黒船艦隊の脅迫によって締結された。もとより、日本の利益をまったく無視した不平等条約だった。

  ・この不平等条約をさらに完全にしたのが、安政五年 ( 1856年 ) の「安政条約」である。ハリスは、清国と交戦中の英仏東洋艦隊50隻が、幕府を攻めるであろうと脅し、「日米修好通商条約」という美名のもとに、次のような重要項目を内容とする一方的条約を押し付けた。

        1. 開港場に外人居留地 ( 租界 ) をつくること。 

      2. 日本側に自主権のない関税制度とすること。

          3.  治外法権を設けること。( 外国人の犯罪に、日本側の裁判権なし )

 ・これは日本の領土の一部占領に等しく、極言すれば貿易通商の利益は外国人のみに帰し、裁判では常に外国人が無罪になるという条約だった。

 ・世界情勢にも国際法にも暗かった幕府の当局者には、これが後に日本の独立と自由と、産業の発展に破壊的影響を与えることに気づかず、アメリカに続いて、オランダ、イギリス、ロシア、フランス、ポルトガル、ドイツ、スエーデン、ベルギー、イタリア、デンマークとも、同じ条約を結んでしまった。

 日本史の授業で私は、安政元年に「神奈川条約」がペリーとの間で結ばれた。安政五年 ( 1856年 )の「安政条約」はハリスとの間で締結されたと、事実だけを教わった。

 戦前は学校で、どういう教え方がされていたのか知らないが、私の受けた戦後の日本史の授業には日本人の魂が無かった。屈辱の条約であることや、中身を教えなかった。氏の著書で知った事実を紹介する。

 〈 外人居留地 ( 租界 )とは 〉  

   ・居留地の整地、道路、水道、兵営、火薬庫、病院など、建設費は全て日本側の負担

   ・行政権も警察権も外国にあり、無料同様の土地の借地権と所有権は永久の権利

   ・公園、競馬場も外国人専用で、日本人の立ち入りが禁止

 外人居留地 ( 租界 ) についての氏の意見を、紹介する。

  ・ 新政府は幕府を打倒したが、「安政条約」は引き継がざるを得なかった。

  ・横浜のみをとってみても欧米列強の駐留軍は時には万を越え、港は彼らの鋼鉄船によって制圧されていた。

  ・現在の読者は、これを簡単な問題として考えているかもしれぬが、日本は実に56年間、厳密に言えば、87年間不平等条約の支配下にあった。

  氏が87年間というのは、外国人の永代借地権の撤廃がやっと昭和17年にされたことを指している。日本が大東亜戦争に負ける、3年前のことだ。

 昭和17年頃の国際社会は弱肉強食で、欧米列強がアジアを食い荒らしていたと、私たちはこの事実を肝に銘じなくてならない。3年後の昭和20年に日本が敗戦国となり、米国から現在の「日本国憲法」を強要された。

 私が「不平等条約」について長い紹介をしているのは、「日本国憲法」が列強に押し付けられた「不平等条約」そのものだと考えるからだ。

  「日本国憲法」の前文を、反日左翼政党とお花畑の日本人が、素晴らしいと称賛している。「平和憲法を守れ」とも叫んでいる。アメリカを筆頭に、当時の列強がどんな国々だったのかを、よく知ってから言うべしと言いたい。

 出来そうもない崇高な言葉を日本にだけ押し付ける資格が、彼らにあったのか。

 参考のため前文を紹介するが、「お花畑」の日本人でなければ、欧米列強の身勝手さを理解するはずだ。

  「日本国民は恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する、崇高な理想を深く自覚するのであって、」

  「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

     「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を、地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」

 まず前文は、正しい日本語になっていない。助詞の使い方が間違っているだけでなく、外国語を翻訳したぎこちなさがそのまま残っている。

   われらとは誰のことなのか。

 日本人は、このような文章は書かない。われらがわれらがと、みっともない自己主張はしない。

 ご先祖の書かれた古い憲法が日本に二つある。聖徳太子の「17ヶ条の憲法」と、明治時代の「五箇条の御誓文」だ。ご先祖の作られた憲法は、「われら」の一方の側だけの主張でなく、為政者と国民が共に守るべき規範が語られている。

 前文が、戦争に参加した全ての国の憲法に書き込まれるのならまだ理解できるが、戦勝国の憲法にはない。

 「憲法改正」の困難さを説明するには、「不平等条約」の改正に苦労を重ねた明治政府の話を知ることが一番良いと思う。

 だから、氏が説明する明治政府の「交渉過程」を紹介をする。

  ・明治4年の、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などを首班とする随員百余名の、全権使節団の欧米派遣は決して、ただの視察旅行ではなかった。

  ・翌年が「安政条約」の改定期日であったため、まず米国から始めて、欧米諸国との改正準備交渉をするのが主目的だった。 

  ・だが使節団の希望は、首府ワシントンに到着すると同時に無残に打ち砕かれてしまった。

  ・グラント大統領も国務長官も、「治外法権撤廃」や「関税自主権」には一顧も与えず、返って、米国立案の改正案を押しつけてきた。

  ・それが実は改悪案に過ぎなかったことを知った使節団は、驚き怒ったが、どうすることもできなかった。

  ・大久保、伊藤は、留守政府の西郷、副島、江島、大隈、井上などと協議したが、アメリカの案で改定することは、日本のため百年の禍根を残すということで意見が一致した。

  ・ワシントン滞在約半年の後、使節団は条約の予備交渉を諦め、その目的を欧米文明の視察に切り替えた。イギリスの態度が、アメリカ以上に強硬であることが判明したからである。

 学校で習った日本史の教科書には、和服姿で革靴を履き、日本刀を手にした使節団の写真が載っていた。注釈には、欧米の視察をした明治政府高官と書いてあった。明治の元勲たちが怒りと悔しさに耐えたことや、欧米の傲慢さや非礼な扱いは書かれていなかった。

  ・一行は各文明国を巡遊し、各国に留学生を残しただけで虚しく帰国した。

  ・「不平等条約改正」の道は、ただ「富国強兵」と「文明開化」にあるのみという感慨は、使節団全員に共通したものであったに違いない。

 息子や孫たちは、知って欲しい。現在の日本のため、どんな苦労をご先祖がして来たか。自分たちで勉強をして、客観的な事実を得てほしい。

 皇室の崩壊がそのまま日本の崩壊につながるという事実も、、自分で見つけて欲しい。たとえ学校の授業でも、有名な学者の意見でも、今の日本での歴史の説明を鵜呑みにしないで欲しい。

 下巻の第一回目のブログは、以上のことを私に促した氏の意見を紹介した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする