写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

慣れの落とし穴

2012年06月09日 | 食事・食べ物・飲み物

 先日の昼、テレビでやっていたパスタ・ナポリタンを、表示されていた通りのレシピで作ってみた。奥さんの評価は上々、「また作ってあげるよ」と豪語しておいた。そして今日、1週間もたたないうちに又あの味が食べてみたくなった。

 「今日もナポリタンを作ろうっと」、近くのスーパーに具材の買い出しに走った。一つ一つメモを片手に、かごに入れていく。家に戻り、早速調理に入った。まずはオリーブオイルを入れたフライパンの中に薄切りのニンニクを入れてきつね色になるまで炒めて香りを出す。パスタを茹でるために片手鍋に水を注ぎ湯を沸かさなければ……。

 野菜をきざむ。ベーコンを切る、調味料を必要量だしておく。買ってきたばかりのトマトケチャップのビンのふたを開けておくなど、同時並行的に色々なことをしなければいけない。その間、奥さんはテレビをゆっくりと見ている。そうこうしていると、おっと、お湯が沸騰し始めた。パスタを入れなければ……。ビンから取り出した2束を、えいやっと投入した後、フライパンで野菜を炒め始めた。タマネギが半透明になったころに、ケチャップと共に混ぜればソースが完成。茹であがったパスタを入れて混ぜればナポリタンの完成である。

 皿に盛り、奥さんと向かい合って、さあお食事だ。「いただきま~す」、一口食べた。あれっ? 味がちょっと薄い。ソースはちょうどいい味だったのに、パスタの塩加減がやや薄い。「しまった、茹でるとき、一つまみ塩を入れるのを忘れていたぁ」。

 初回に作るときにはレシピを見ながら忠実にやったが、2回目はもうベテラン気分。記憶を頼りに作っていったが、まだまだ未熟。身についていないままやってしまった。まっ、それでも結構おいしく食べられた。こんなこともあり~なのが、男の料理。失敗は成功のもと、3度目は完ぺきにやるぞと気合を入れた。

 料理作りは、全体のことがちゃんと頭に入っていないと、何かが抜ける。6月から始まった錦帯橋の鵜飼の鵜匠は、6羽の鵜を見事に操る。料理も、鵜匠にも似た全体への目配り気配りが必要のようだ。


カシワバアジサイ

2012年06月08日 | 生活・ニュース

 庭のカシワバアジサイ(柏葉紫陽花)が、ハナミズキの木の下で今満開となっている。奥さんが何年前に植えたのだろうか、私の背丈以上に大きくなって葉を茂らせている。カシワバアジサイの原産地は北米東南部という。図らずも、我が家の庭にはハナミズキと共に、アメリカ生まれの花木をそろえて植えていることになる。

 葉の形がカシワに似ていることが、名前の由来だ。花は白色の円錐状で、大きなものはメガホンくらいになっている。一般のアジサイとは異なり、木のボリュームに比べ花が少ないのが特徴という。そういえば今年の花の数は20個。確かに木の大きさに比べると、花の数は少ないが花は大きい。

 日陰でひっそりと時を過ごしているこのアジサイも、ハナミズキと同じく花の季節には美しい花で楽しませてくれるばかりか、秋には紅葉となり1年に2度も美しさを演じてくれる中々の頑張り屋さんだ。

 ところでこのカシワバアジサイの花ことばは、「慈愛 」「汚れなき心」「清純」「優美」「皆を引き付ける魅力」。確かに姿形から見ると「清純」「優美」はぴったりで弥勒菩薩に見るような「慈愛」すら感じる。一方のハナミズキの花言葉といえば「私の思いを受けて下さい」「返礼」「華やかな恋」。たくさんの花を付けたときの華やかさから見ても、やや押しつけがましい花言葉となるのは致し方がないところか。

 デッキに座わり、カシワバアジサイの大きな房がやや頭を垂れているのを見ていると、そろそろ天からの雨を祈っているかのように見えた。今週末あたりが入梅だとか。今日の空はどんよりと低い。庭のアジサイの清純さ・優美さが薄暗い庭の中にあって私を引きつける。「お~い、アイスコーヒーでも飲もうか」、家に向かって言ってみた。返事は聞こえなかったが、台所からコーヒーミルの回る音がし始めた。


あわや太陽が…

2012年06月07日 | 季節・自然・植物

 金星が太陽の前を横切る「金星の太陽面通過」と呼ばれる珍しい天体現象が、6日午前7時10分から観測された。この現象は、太陽と金星、地球が一直線上に並んだ時に見られる現象で、日本では8年前に観測されたというが、その時は知らずに過ごした。次回は105年後で、世界全体で見ても、6日が今世紀最後のチャンスだと、テレビは朝から賑やかである。

 太陽を顔だとすれば、金星は黒く小さなホクロくらいにしか見えない。太陽にかかりはじめ、6時間余りかけてゆっくりと左側から入って横切る様子を、ニュースで映していた。観察するときには先日の「金環日食」の時と同じように、日食グラスを使うか、天体望遠鏡で太陽の像をいったん板に写して見る方法などを推奨していたが、グラスを持っていなくて実物の観察とはいかなかった。

 昼食を食べながら奥さんに「今、金星が太陽の中に入っていってるぞ」というと「金星が太陽の中にめり込んでいって、どうなるの?」というではないか。「いやいや、めり込む訳じゃあなくて、地球から見て太陽の前を通り過ぎるだけのことだけどね」と小学生に対しての説明のような話をした。「それはそうよね、めり込むことなんてないわよね」と、納得したような顔をした。

 この会話、奥さんは決して冗談で言った訳ではなく、真面目に金星が太陽にめり込んでいくと思ったようだ。この会話のあとで、私は少し反省をした。「金星が太陽の中に入っていってるぞ」という表現は、普通に理解すれば確かに「金星が太陽の中にめり込む」と理解されても致し方ない。正確には「金星が太陽の前を通過している」と言うべきであったろう。

 しかし、めり込むなんてことがあるはずはない。天体のことを知っている、知らないのレベルを超えた、とてつもない発想である。かくして2012年6月6日、我が家の茶の間では、金星が太陽に激突して太陽が大爆発し、地球が最後の日を迎えるというとんでもない天体ショーが繰り広げられていたのであった。それにしても、金星が太陽にぶち当たるなんてことが起きるのであれば、もっと騒いでいますよねえ。


初夏の焚き火

2012年06月06日 | 季節・自然・植物

 2か月前、生垣にしているカイヅカの枝の選定をした。切り落とした小枝の量は、リヤカー1杯分はゆうにあったが、枯れるまでそのまま庭の片隅に積んでおいた。花は散り、今は大きな葉を茂らせているハナミズキを眺めていると、葉をつけていない枯れた小枝がここかしこににあるのを見つけた。ノコギリを片手にハシゴを持ち出し、これの剪定も終えた。

 狭い庭は枯れ枝で一杯となっている。こんな光景を見ると腰を上げざるを得なくなった。裏の菜園に運び出し、昨年末に買い込んだストーブで燃やすことにした。このストーブ、鉄板製の屋外型で、高い煙突も取り付けた。何よりも、燃やす時に煙が出ない優れものである。

 木を燃やすのは、子供のころから風呂の焚きつけで腕を磨いているので簡単だ。新聞紙を3枚丸め、その上に小木を組んで火を付けると、煙突のドラフトが働いて勢いよく燃え始める。すかさず太い薪を投げ込み、これを種火にして庭の小枝を次々と燃やしていった。

 パチパチっッと木がはじける快い音を聞きながら、パラソルの下に腰かけ、しばし炎の揺らめきをぼんやりと眺めた。左に右に、小さく大きく炎が躍る。ずっと見ていても飽きることがない。何も考えることもなく、ただ無心になって見ていた。火勢が衰えると小枝をまた投入する。単純なその繰り返しを1時間も続けたころ、やっと小枝がなくなった。

 以前から、屋内に薪ストーブを置くことを何度も検討してみたが、なにぶんウサギ小屋では狭くて置くことが出来なかった。その代わりとはならないが、菜園にストーブを置いてみた。昼下がり、日陰に座って揺らめく炎を見るのも悪くない。世俗から少し離れたところで生きているような、不思議な境地で時間を過ごすことが出来た。

 突然背後から「暑いのに焚き火ですか?」の声に振り返ってみると、顔見知りの奥さん。最近、外の仕事で黒くなった顔を向け、精いっぱいの笑顔を返した。梅雨を前に、やっと庭の片づけが終わった。


照れ隠し

2012年06月04日 | 生活・ニュース

 「照れ隠し」とは、人前で気恥かしい思いをしたとき、人の注意をそらすためにとりつくろうことをいう。動作としては、笑ってみたり、頭をかいてみたりということは誰もがよくやることである。今朝、裏の菜園に出たときに、あるものが照れ隠しのような挙動をしているのを見つけた。

 5月の連休の頃に植えたキュウリの苗は順調に育っている。数日前、つるが巻きつくように格子状に棒を立てておいた。そのつるの巻きつき状況を見ると、人間が導いた訳でもないのに上手に巻きつき、茎が倒れないようにしている。1本の茎の何カ所から四方に水平につるを伸ばしている。

 一旦棒に巻き付いたつるは、何条にも巻き付き、少々の力では外れないほどしっかりと巻きついている。どれほど巻きつけば大丈夫だと、一体どこで判断しているのだろうか。たかがキュウリであるが、不思議な能力を持っているものだと、改めて感心する。

 一方、棒のない側に水平に伸びているつるは、所在なさげに宙に浮いている。いってみれば職場で仕事を与えられない窓際族といったところか。そんなつるの先を観察してみると、直線状に真っすぐ伸びたままのものが多い。何かにあたるまで無駄に伸び続けるのだろうか。

 ところが、面白いつるを何本か見つけた。巻きつくものが何もないところで、先の方をくるくると回転させている。つるとして生まれ、仕事らしい仕事を何もしてないのでは気恥かしい。この辺りでちょっと照れ隠しをしているかのように見える。キュウリのつるでも、そんな感情があるのかもしれない。そんな様子を眺めていると、我がサラリーマン時代のことを思い出した。

 暇な立場にあったとき、私はどんなことをしたっけ。死んだふり? いやいや、そんな時こそ忙しそうな振りをしていたのではないか? 今は昔のことを思い出していると、キュウリのつるが我が分身のように思え、急に愛おしくなってきた。頑張れ! 棒に当たらない照れ隠し中のつる達よ。