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世界で一番悲惨な言葉

2012-07-08 00:07:08 | Weblog
世界で一番悲惨言葉は、
チェコ人と「満蒙開拓団」の女性である。

チェコ人の言葉は、
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
「どうしようもない、つらい時期だった」
と、やりきれなさ、絶望感がある。

「満蒙開拓団」の女性の言葉は、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない
「これまで生きていて、『幸せ』だと思ったことはない」
と、衝撃である。

チェコ人は、世界から見捨てられ、
「満蒙開拓団」は、国家から見捨てられた。

チェコ人の「世界のだれも、助けてくれなかった!」、
を写真で示すと、プラハのヴァーツラフ広場にある「慰霊碑」である。


ぴかぴかの石には、ヤン・パラフとヤン・ザイクの顔が映り、
ヤン・パラフは、1948年8月11日から1969年1月19日、
ヤン・ザイクは、1950年7月3日から1969年2月25日とある。

ソ連が、「プラハの春」を踏みにじったことに抗議して、
20歳の学生、ヤン・パラフは1969年1月19日に、
国立博物館の前でガソリンをかぶり、焼身自殺をした。
同じ場所で、1969年2月25日に、
18歳の学生、ヤン・ザイクは、
後を追うように焼身自殺をした。
石に刻まれた年月日がそのときを示す。

手前の茶色の石には、3行の文があって、
1行目はチェコ語、2行目は英語、3行目はドイツ語。
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM
共産主義の犠牲者たちを記念して」

チェコに民主化運動「プラハの春」がおきると、
ソ連は戦車でプラハの繁華街ヴァーツラフ広場に侵攻して、
そのまま占拠した。そして、民主化運動を、もとに戻させた。
チェコ事件1968年である。

「プラハの春」は、
言論を自由にし、
出版物の検閲を廃止し、
国外旅行の規制を緩和し、
市場経済の導入を進めよう、
という民主化運動だった。

チェコの改革運動、「政治を、国民の皆さんにもどしたい」
と、「プラハの春」を進めた、時の共産党第一書記、
アレクサンデル・ドゥプチェクは失脚した。
「プラハの春」は終わった。

チェコは恐怖社会にもどった。
秘密警察は弾圧を再開した。
民主化運動をすれば、仕事を失い、
投獄され、人生を失う。
大学生は退学させられる。

恐怖社会に、チェコ人は口をつぐんだ。
ビロード革命まで、21年間も。
「どうしようもない、つらい時期だった」

ヴァーツラフ広場。2006年5月。

円形の花壇の中にある、小さい十字架と碑。見逃すぐらいだ。
奥は、馬にまたがるヴァーツラフ像、その奥は国立博物館。

「世界のだれも、助けてくれなかった!」
と、チェコ人が言うのは、つぎである。
アメリカは、
ソ連のチェコ侵攻は国連憲章に反する内政干渉で、
即時撤退をすべきだ、としたが、
国際連合安全保障理事会で、
ソ連は拒否権を行使して、
葬(ほうむ)り去った。

そのとき、アメリカはヴェトナム戦争が泥沼状態だったから、
共産主義陣営の内輪もめには、これ以上、
手出しができなかった。

チェコには、
身内の共産主義陣営からも、
民主主義陣営からも、
援助の手は差し伸べられなかった。

世界から見捨てられたと感じた。
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
「つらい時期」は、1989年に無血革命(ビロード革命)で、
共産党政権を倒すまで、21年間も続いた。
「どうしようもない、つらい時期だった」
「この悲惨な状況は21年続いた」

世界50数か国を訪問して、現地人から、
こんな悲痛な叫びを、聞いたことがない。
だれに相談することもできない閉塞(へいそく)状態である。
日本人に言うからには、よほどの絶望状態だったんだろう。

“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM”
「共産主義の犠牲者たちを記念して」
とは、人民を幸せにしなかった共産主義との決別だ。
悲惨さを体験したチェコ人でなければ、出てこない言葉だ。

1989年11月17日、無血革命(ビロード革命)のときは、
イギリスに滞在していたから、共産主義の崩壊は、
より身近に感じた。
1989年11月10日には、ドイツの「ベルリンの壁」が崩壊し、
1990年に東ドイツが崩壊して、東西ドイツが統一した。
1991年には、共産主義の盟主、ソ連までが崩壊した。
そしてロシアが誕生した。


生き地獄」を見た「満蒙開拓団」の女性の言葉、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない
「これまで生きていて、『幸せ』だと思ったことはない」
を、写真で示したい。

“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM”
「共産主義の犠牲者たちを記念して」
の代わりに、
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF MILITARISM
軍国主義犠牲者たちを記念して」
があればいい。

阿智村の長岳寺に、「日中友好不再戦の碑」がある。

表には、つぎのように書かれている。
「日本と中国は 平和と友好で永劫に 手を握りましょう 1966年初夏」

碑の裏はつぎである。
「旧西部8ヶ村から終戦前に、
王道楽土建設の名のもとに、
誤った軍国主義政治のため、かりたてられて、
中国に渡ったこの地方の開拓民は、
およそ900名に及び、
600名犠牲者を出した。
この不幸な体験から
戦争はまっぴらだ、
2度とあんな目にあいたくない
中国と仲よくしよう』
と私達は心から誓って、
関係者1万余名の浄財カンパにより、
この碑を建立した」

まさしく、
軍国主義犠牲者たちを記念して」の碑だ。
軍国主義」は国民を「幸せ」にするものではない。
「軍国主義」との決別を表している。

「阿智(あち)村」は、どこにあるか?
悲惨満洲移民の市町村別比率」

長野県の満洲移民」、長野県立歴史館発行から作成。
「阿智村」は長野県の南部である。

生き地獄」を見た「満蒙開拓団」の女性の言葉、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない
「これまで生きていて、『幸せ』だと思ったことはない」
も写真で示したい。

長野県の南部の「泰阜(やすおか)村」には、
「後世に伝う血涙の記録 満州泰阜分村」がある。

信濃文化経済社発行、昭和54年2月11日。

この「後世に伝う血涙の記録 満州泰阜分村」に女性の手記がある。
「『おかあちゃん、いやだ』と泣く我が子を、
無我夢中で河に突き落とす。
濁流にのまれて行く子を、
親は放心状態で見ていた」

「11月初めごろから発疹チフスが流行した。
収容所の死体置き場が、山のように高くなっていた」

「満人たちはこのころから、お米お金を持って、
子ども主婦を買いに来た」
収容所にこのままいて死ぬか、
満人の家に行くか、2つに1つしか道はない。
生きていれば、日本に帰れるかもしれないと考えた人は、
満人の家へ子どもを犠牲にしてやる人もいた。
また自分が主婦になった人もあり、さまざまであった」

この「生き地獄」の逃避行の結果は、
市町村の帰国者比率」に表れた。


泰阜村から826人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は327人である。
帰国者比率は39.6%である。

泰阜村の死亡者ほかを見ると、
死亡者は432人、
残留者は31人、
不明者は36人で、
総数499人になる。

もし、あなたの家族が5人として、満州に渡ったとすると、
2人だけが、日本に生きて帰ることができたことになる。
3人は、亡くなったり(2.6人)、残留したり(0.2人)、
行方不明(0.2人)になった。

5人家族が2人になるとは、悲惨な結末だ!
「満蒙開拓団」は食糧の確保と、
ソ連国境の防衛のためという、
「国策」で満州に送り込まれたが、
「満蒙開拓団」は国家に見捨てられた。

「満蒙開拓団」の碑は、阿智村のほかにも、
信州には、犠牲者が出た町村ごとにある。
その中から、高森町、諏訪市、松本市の3つの碑を示す。
生きて日本に帰ることができた人、遺族は、
平和実現を願ったり、
先に逝った同志を悼んでいる。

「高森町満蒙関係殉難者 慰霊碑」。大丸山(おおまるやま)公園、高森町。

長野県知事 吉村午良 書。

碑の裏はつぎである。
 顧みれば昭和7年 時の政府によって始められた
満州国の開拓事業は 満蒙の天地に比類なき民族協和の
楽土建設という日本民族の理想と祖国防衛という使命達成のために
推し進められた 重大な国策であった
 高森町からもこの国策にしたがって
一家を挙げ あるいは青少年義勇軍等として雄図を抱いて
この大事業に挺身したもの 実に600有余名の多きに及んだ
 これら先駆者が 祖国の運命を遙かに想いながら
営々として開拓に励み その理想もようやく達っせられんとした
昭和20年夏 思わざる祖国の敗戦により
血と汗の結晶は一瞬にしてついえ去った
 満蒙の地には頼みとした関東軍はすでになく
孤立無援の日本人居留民は難民と化し
祖国の土を踏むことを唯一の望みとして
時には零下30度の極寒の中を同胞相携えて死闘の行進を続けた
その間 飢えと寒さ 迫害と病にたおれた人々は
町内で実に270有余名に達している
然るに いまだ帰ることなき遺骨のあるなかで
戦後35年が空しく過ぎ去った
 ここに 同志相図り 町内全戸及び町外関係者からの浄財により
これら殉難者の御霊を合祀し
故郷の山河に還りて安らかに瞑せられんことを念ずるとともに
再びこのような戦争の惨禍を繰り返さない誓いと
世界平和実現の願いをこめてこの碑を建立する
 昭和56年4月
 高森町満蒙関係殉難者慰霊碑建設委員長 林 小六
                遺族及び生還者   一   同

「第七次両角中隊 少年義勇隊之碑」。温泉寺、諏訪市。

衆議院議員 小川平二 書。

碑の裏はつぎである。
昭和19年3月 当時国策の一環であった半軍半農の
旧満州開拓青少年義勇隊 第7次郷土中隊として
諏訪 上伊那 下伊那3郡により273名の、
当時15才 16才の少年隊員で結成され
茨城県内原訓練所に入所 2ヶ月程訓練を受け 祖国の為
大陸の荒野に立たんと胸弾ませ渡満したのも束の間
翌20年8月11日関東軍の指令により出動
8月15日終戦と共にソ連軍捕虜となり
捕虜生活中病死または栄養失調に臥し
76名の隊員を喪う
31年9月帰還の途に着き約1ヶ月かかり10月
日夜忘れえぬ故郷の地に帰還出来ました
此の碑は 我等帰還者により亡き友の霊を弔う
慰霊碑建立の声が盛り上り
昭和50年5月頃より隊員から寄付を願い
町村より台石を寄贈頂き 尚温泉寺の御厚意に頼り
永代供養として建碑出来たものである
建立には諏訪隊員が主体となり 建設委員の奉仕により
約7ヶ月かかり建碑の完成を得ました
 昭和51年3月14日 建立

拓友の碑」。護国神社、松本市。

河原正男 書。

碑の裏はつぎである。
 思えば昭和14年満蒙開拓青少年義勇軍
大いなる夢と希望を抱いた300余名の
14、5才の少年が国策の第一線
興亜の大業をめざして遠く異国の地に骨を埋める決意も固く
懐かしい故国を後に敦賀港より壮途につきました
 満洲国勃利訓練所への道は遠く1日48キロの行程に
大陸の野の花を見るゆとりもなく空腹と疲労を克服し
1人の落伍者もなく到着
涙なくして開拓の途は歩めない辛苦の4年有余
やがて大東亜戦争勃発 数多くの者が応召され
或は病に倒れ終戦を迎えました
 其の間の労苦は筆舌に尽し難いものがあります
不幸にして病に倒れ 戦果に散り
永遠に満蒙の地に眠る同志に対し
哀惜の感に堪えません
 終戦後 同志を捜し求むる術もなく
20数年の歳月は水の如く流れ去りましたが
同志の熱意により
ここに「拓友の碑」の建立を見ましたことは
同志と共に歓喜に堪えません
  当時中隊長佐藤剛吉
 昭和48年4月17日 拓友会一同建之

高森町、諏訪市、松本市の3つの碑から、
満蒙開拓団」、「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
「国策」として満州に送り込まれ、
国家に見捨てられたことがわかる。

「満蒙開拓団」の女性の悲惨な言葉、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない
「これまで生きていて、『幸せ』だと思ったことはない」
を、写真で示すと、阿智村の長岳寺にある、
日中友好不再戦の碑」になる。

「軍国主義の犠牲者たちを記念して」の碑である。
軍国主義」との決別と、
軍国主義」は国民を「幸せ」にしなかったことを表している。

それに、「後世に伝う血涙の記録 満州泰阜分村」や、
市町村の帰国者比率」は、
軍国主義」が国民を幸せ」にしなかったことを、
表した資料である。

世界で一番悲惨な言葉は、
「世界のだれも、助けてくれなかった!」チェコ人、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない」満蒙開拓団。

世界から見捨てられたチェコ人、
国家から見捨てられた「満蒙開拓団」から、
世界で一番悲惨な言葉が出てきている。
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