「国債を買って 戦線へ弾丸を送りましょう」。
これは戦争ポスター。1941年、大蔵省、逓信省発行。
国債で戦費を集めて、戦争(支那事変)を推し進めようとした。
「支那事変国債 郵便局売り出し」、
「10月24日⇒11月4日」
日本の戦争は、日中戦争(支那事変)、1937年7月7日~、
太平洋戦争(大東亜戦争)、1941年12月8日~1945年9月2日へ突入した。
日本は、生糸が外貨獲得の稼ぎ頭で、
つぎに、お茶、そして、マッチだった。
生糸、お茶、マッチで稼いだ金で戦争に挑んだ。
石油ほかの資源は侵略で手に入れ、
食糧は、銃後を守る農村婦人の活動に頼り、
満蒙開拓団にも、厳しい生産が割り当てられた。
国民の貯蓄に目を着けたり、国債の売り出しに力を入れて、
戦争を推し進めてきた。
国債の売り出しに関する資料として、
☆国債の収納袋、
☆常会で国債の周知徹底、
☆戦争ポスターによる宣伝がある。
国債の売り出しには、郵便局が主体で進めている。
「支那事変国債」、収納袋の表。
「国債へ挙国一致の力こぶ」
「銃とる心で国債報国」
「国債でせめて銃後のご奉公」
「十円券から千円券まで6種類 枚」
「小淵沢郵便局」
この収納袋は、
「変わったものが保存してあったよ」
と、友人が見せてくれたものである。
厚めの封筒で、大きさはA4。
「支那事変国債」、収納袋の裏。
「ぜひ御一読ください」
「△郵便貯金をしている人は、郵便局から買った国債を、
特に低い金利で安全に保管してもらえます」
「△国債の元利金は全国の郵便局、
日本銀行本支店および代理店で支払います」
ほかが、書いてある。
しかし、敗戦で、国債は紙くずとなった。
大空襲、原爆で国土は焦土と化し、310万人が命を失い、
国民に希望はなく、その日、その日を生きていくのがやっとだった。
それに、ハイパーインフレで、国債の価値はなくなった。
大日本帝国は崩壊した。
そして、日本が更生するまで、
7年近く、日本は連合軍の占領下にあった。
つぎに、松本文書館には、常会の記録がある。
いかにして、国債を集めるかは、町内の常会の協議、徹底事項だった。
新村地区の常会の月々の協議事項の記録がある。1941年。
9月の常会協議事項として、
1.国債、債券の消化に関する事項、
2.国民貯蓄組合の設立に関する事項、
3.家庭用砂糖配給に関する事項、
5.米配給に関する事項、
9.海軍志願兵徴募割当に関する事項、
などの記載がある。
12月常会に取り上げる事項として
1.新生活様式の実践に関する事項、
2.国債、債券の消化に関する事項、
3.貯蓄実践強調期間に関する事項、
4.防火に関する事項、
12.兵役法の改正に関する事項、
13.一般民間金属類の回収に関する事項、
ほかの記載がある。
いかにして、国債を集めるか、
いかにして、貯蓄させるかについては、
砂糖の配給、米の配給などの物資の統制とともに、
常会の重要事項、徹底事項で、繰り返し取り上げている。
この常会の記録は、松本市文書館講座、
「文書にみる戦時下の松本」で知った。
戦時下で生きる重要事項、徹底事項で、
みなさんの常会でも残っていると思う。
つぎに、戦争ポスター。
戦争ポスターは、長野県の阿智村から見つかった。
戦争ポスターは焼却せよ、という国の決定、
「大東亜戦争関係ポスター類焼却の件」
昭和20年8月21日に出されている。松本文書館。
戦争ポスターの焼却を命じている。
そして、学校や各種団体に通達すること、
この通達そのものも焼却することを命じている。
このために、全国のすべての戦争ポスターは焼却された。
「戦争ポスターは焼却せよ」、2012年8月19日、
を参照してください。
当時の阿智村村長は、
「尊い教材になると考え、命がけで蔵に保管した」。
1937年~1945年までの「戦争ポスター」135枚が、焼却を免れた。
「阿智村ポスター」と呼ばれ、阿智村が管理している。
阿智村には、「満蒙開拓平和記念館」があり、
満蒙開拓団や、満蒙開拓青少年義勇軍の資料が、
保管され、展示されている。2013年4月25日にオープン。
「阿智村ポスター」は、数点ほどが展示されている。
「阿智村ポスター」には、
「支那事変国債」の戦争ポスターがたくさんある。
「支那事変国債」。1938年、大蔵省発行。
航空兵が砲弾をかついでいる。
「郵便局売り出し」
「12月13日より 12月24日まで」
「十円券より千円券までの6種類」
「この國債は郵便局で何時でも買上げます」
「第3回 4回 貯蓄債券」。1938年、大蔵省、日本勧業銀行発行。
戦車を使って、キャタピラーに標語がある。
「売出期間 6月10日より 25日まで」
「1枚10円」、「1等割増金千5百円」
「支那事変国債」。1939年、大蔵省発行。
狙撃する兵士の前で、銃後を守るエプロンの婦人が、
タスキをかけて、支那事変国債の購入を呼び掛けている。
「郵便局売り出し」
「2月21日より 3月4日まで」
「十円券より千円券までの6種類」
「この国債は郵便局で何時でも買上げます」
「支那事変国債」。1940年、大蔵省発行。
日の丸の地球上を、無数の戦闘機が飛ぶ。
「戦線へ弾丸を!」
「郵便局売出し」
「8月22日より 9月2日まで」
「この国債は郵便局で無料で預ります」
「支那事変国債」。1941年、大蔵省、逓信省発行。
戦闘機が飛ぶ。
「郵便局売出し」
「6月20日より 7月1日まで」
支那事変から大東亜戦争へ突入する。
「大東亜戦争国債」。1942年、大蔵省、逓信省発行、日本銀行発行。
戦艦が走る。
「勝利だ 戦費だ 国債だ」
「郵便局売出」
「4月23日より 5月4日まで」
国債の戦争ポスターは、次から次へと作られた。
135枚の阿智村ポスターの内、41枚が国債である。
1941年に11枚、1940年に9枚、1939年に8枚、1938年に8枚、
1942年に4枚、1937年に1枚、合計41枚を発行した。135枚の3割を占める。
姫路市立美術館の田島奈都子さんの資料から、国債関係を抽出した。
戦費のねん出に、国は躍起になっていたことがわかる。
そして、いづれの戦争ポスターもカラー印刷、
グラデーションと手が込み、金がかかっている。
食糧が不足し、1939年に米が「配給制」になる。
物資も足らなくなり、1940年に「贅沢品禁止令」がでて、
「ぜいたくは敵だ!」の風潮が徹底されていたときである。
「欲しがりません、勝つまでは」は1942年の標語。
国民は、窮乏生活を強いられたときでも、
「戦争ポスター」には、潤沢に金をかけた。
モノクロの、みすぼらしい戦争ポスターを作れば、
戦局は思わしくない、負けるだろう、と国民に思われる。
負けることはわかっていた戦争でも、豪華な戦争ポスターに、
しなければならなかった。
支那事変国債、大東亜戦争国債は戦時中の話。
ここからは、戦後70年の現在の話、赤字国債。
日本には、国債、借入金を含めた膨大な借金がある。
1057兆2235億円(2015年6月末)。
国民1人当たりにすると、832万円になる。
返済のメドがないこの借金は、増え続けて、
2015年の末には、1167兆円に増えるという。
この借金の状況は、「借金時計」ほかが、
インターネットにあるので、参照してください。
「東山魁夷が想う京都」、2012年2月19日から引用すると、
日本の借金は、つぎのようになる。
「島国の決定的打撃は、2011年3月11日に起きた。
東日本大震災と原発事故である。
トヨタ、ホンダ、キャノンでもうけた金は、
箱物、道路、ダム、そして原発に注いできた。
それでも物足らずに、赤字国債を発行して、
ムダな箱物を造り続けてきた。国力は低下した」
「赤字国債のツケは、つぎの世代にバトンタッチされる。
膨大な赤字国債は、つぎの世代では返済しきれない。
さらに、つぎの世代までかかりそうだ。
原発の廃炉には、半世紀かかる。
廃炉には、国民の税金を使う」
福島第一原発、1~4号機の廃炉費用は、いくらかかるのだろうか?
試算不能という。
いったい、どれだけの税金が、使われるのだろうか?
天文学的数字になるという。
廃炉に向けて、
そして、戦争参加に向けて、
赤字国債の標語は、つぎになる。
「国債を買って、廃炉を進めましょう」
「国債を買って、戦線へ弾丸・兵器を送りましょう」
70年前の、戦争した狂乱期と同じになる。
これは戦争ポスター。1941年、大蔵省、逓信省発行。
国債で戦費を集めて、戦争(支那事変)を推し進めようとした。
「支那事変国債 郵便局売り出し」、
「10月24日⇒11月4日」
日本の戦争は、日中戦争(支那事変)、1937年7月7日~、
太平洋戦争(大東亜戦争)、1941年12月8日~1945年9月2日へ突入した。
日本は、生糸が外貨獲得の稼ぎ頭で、
つぎに、お茶、そして、マッチだった。
生糸、お茶、マッチで稼いだ金で戦争に挑んだ。
石油ほかの資源は侵略で手に入れ、
食糧は、銃後を守る農村婦人の活動に頼り、
満蒙開拓団にも、厳しい生産が割り当てられた。
国民の貯蓄に目を着けたり、国債の売り出しに力を入れて、
戦争を推し進めてきた。
国債の売り出しに関する資料として、
☆国債の収納袋、
☆常会で国債の周知徹底、
☆戦争ポスターによる宣伝がある。
国債の売り出しには、郵便局が主体で進めている。
「支那事変国債」、収納袋の表。
「国債へ挙国一致の力こぶ」
「銃とる心で国債報国」
「国債でせめて銃後のご奉公」
「十円券から千円券まで6種類 枚」
「小淵沢郵便局」
この収納袋は、
「変わったものが保存してあったよ」
と、友人が見せてくれたものである。
厚めの封筒で、大きさはA4。
「支那事変国債」、収納袋の裏。
「ぜひ御一読ください」
「△郵便貯金をしている人は、郵便局から買った国債を、
特に低い金利で安全に保管してもらえます」
「△国債の元利金は全国の郵便局、
日本銀行本支店および代理店で支払います」
ほかが、書いてある。
しかし、敗戦で、国債は紙くずとなった。
大空襲、原爆で国土は焦土と化し、310万人が命を失い、
国民に希望はなく、その日、その日を生きていくのがやっとだった。
それに、ハイパーインフレで、国債の価値はなくなった。
大日本帝国は崩壊した。
そして、日本が更生するまで、
7年近く、日本は連合軍の占領下にあった。
つぎに、松本文書館には、常会の記録がある。
いかにして、国債を集めるかは、町内の常会の協議、徹底事項だった。
新村地区の常会の月々の協議事項の記録がある。1941年。
9月の常会協議事項として、
1.国債、債券の消化に関する事項、
2.国民貯蓄組合の設立に関する事項、
3.家庭用砂糖配給に関する事項、
5.米配給に関する事項、
9.海軍志願兵徴募割当に関する事項、
などの記載がある。
12月常会に取り上げる事項として
1.新生活様式の実践に関する事項、
2.国債、債券の消化に関する事項、
3.貯蓄実践強調期間に関する事項、
4.防火に関する事項、
12.兵役法の改正に関する事項、
13.一般民間金属類の回収に関する事項、
ほかの記載がある。
いかにして、国債を集めるか、
いかにして、貯蓄させるかについては、
砂糖の配給、米の配給などの物資の統制とともに、
常会の重要事項、徹底事項で、繰り返し取り上げている。
この常会の記録は、松本市文書館講座、
「文書にみる戦時下の松本」で知った。
戦時下で生きる重要事項、徹底事項で、
みなさんの常会でも残っていると思う。
つぎに、戦争ポスター。
戦争ポスターは、長野県の阿智村から見つかった。
戦争ポスターは焼却せよ、という国の決定、
「大東亜戦争関係ポスター類焼却の件」
昭和20年8月21日に出されている。松本文書館。
戦争ポスターの焼却を命じている。
そして、学校や各種団体に通達すること、
この通達そのものも焼却することを命じている。
このために、全国のすべての戦争ポスターは焼却された。
「戦争ポスターは焼却せよ」、2012年8月19日、
を参照してください。
当時の阿智村村長は、
「尊い教材になると考え、命がけで蔵に保管した」。
1937年~1945年までの「戦争ポスター」135枚が、焼却を免れた。
「阿智村ポスター」と呼ばれ、阿智村が管理している。
阿智村には、「満蒙開拓平和記念館」があり、
満蒙開拓団や、満蒙開拓青少年義勇軍の資料が、
保管され、展示されている。2013年4月25日にオープン。
「阿智村ポスター」は、数点ほどが展示されている。
「阿智村ポスター」には、
「支那事変国債」の戦争ポスターがたくさんある。
「支那事変国債」。1938年、大蔵省発行。
航空兵が砲弾をかついでいる。
「郵便局売り出し」
「12月13日より 12月24日まで」
「十円券より千円券までの6種類」
「この國債は郵便局で何時でも買上げます」
「第3回 4回 貯蓄債券」。1938年、大蔵省、日本勧業銀行発行。
戦車を使って、キャタピラーに標語がある。
「売出期間 6月10日より 25日まで」
「1枚10円」、「1等割増金千5百円」
「支那事変国債」。1939年、大蔵省発行。
狙撃する兵士の前で、銃後を守るエプロンの婦人が、
タスキをかけて、支那事変国債の購入を呼び掛けている。
「郵便局売り出し」
「2月21日より 3月4日まで」
「十円券より千円券までの6種類」
「この国債は郵便局で何時でも買上げます」
「支那事変国債」。1940年、大蔵省発行。
日の丸の地球上を、無数の戦闘機が飛ぶ。
「戦線へ弾丸を!」
「郵便局売出し」
「8月22日より 9月2日まで」
「この国債は郵便局で無料で預ります」
「支那事変国債」。1941年、大蔵省、逓信省発行。
戦闘機が飛ぶ。
「郵便局売出し」
「6月20日より 7月1日まで」
支那事変から大東亜戦争へ突入する。
「大東亜戦争国債」。1942年、大蔵省、逓信省発行、日本銀行発行。
戦艦が走る。
「勝利だ 戦費だ 国債だ」
「郵便局売出」
「4月23日より 5月4日まで」
国債の戦争ポスターは、次から次へと作られた。
135枚の阿智村ポスターの内、41枚が国債である。
1941年に11枚、1940年に9枚、1939年に8枚、1938年に8枚、
1942年に4枚、1937年に1枚、合計41枚を発行した。135枚の3割を占める。
姫路市立美術館の田島奈都子さんの資料から、国債関係を抽出した。
戦費のねん出に、国は躍起になっていたことがわかる。
そして、いづれの戦争ポスターもカラー印刷、
グラデーションと手が込み、金がかかっている。
食糧が不足し、1939年に米が「配給制」になる。
物資も足らなくなり、1940年に「贅沢品禁止令」がでて、
「ぜいたくは敵だ!」の風潮が徹底されていたときである。
「欲しがりません、勝つまでは」は1942年の標語。
国民は、窮乏生活を強いられたときでも、
「戦争ポスター」には、潤沢に金をかけた。
モノクロの、みすぼらしい戦争ポスターを作れば、
戦局は思わしくない、負けるだろう、と国民に思われる。
負けることはわかっていた戦争でも、豪華な戦争ポスターに、
しなければならなかった。
支那事変国債、大東亜戦争国債は戦時中の話。
ここからは、戦後70年の現在の話、赤字国債。
日本には、国債、借入金を含めた膨大な借金がある。
1057兆2235億円(2015年6月末)。
国民1人当たりにすると、832万円になる。
返済のメドがないこの借金は、増え続けて、
2015年の末には、1167兆円に増えるという。
この借金の状況は、「借金時計」ほかが、
インターネットにあるので、参照してください。
「東山魁夷が想う京都」、2012年2月19日から引用すると、
日本の借金は、つぎのようになる。
「島国の決定的打撃は、2011年3月11日に起きた。
東日本大震災と原発事故である。
トヨタ、ホンダ、キャノンでもうけた金は、
箱物、道路、ダム、そして原発に注いできた。
それでも物足らずに、赤字国債を発行して、
ムダな箱物を造り続けてきた。国力は低下した」
「赤字国債のツケは、つぎの世代にバトンタッチされる。
膨大な赤字国債は、つぎの世代では返済しきれない。
さらに、つぎの世代までかかりそうだ。
原発の廃炉には、半世紀かかる。
廃炉には、国民の税金を使う」
福島第一原発、1~4号機の廃炉費用は、いくらかかるのだろうか?
試算不能という。
いったい、どれだけの税金が、使われるのだろうか?
天文学的数字になるという。
廃炉に向けて、
そして、戦争参加に向けて、
赤字国債の標語は、つぎになる。
「国債を買って、廃炉を進めましょう」
「国債を買って、戦線へ弾丸・兵器を送りましょう」
70年前の、戦争した狂乱期と同じになる。