「満蒙開拓団」で、
家族といっしょに満州に渡った、
15歳の女性は、地獄の逃避行をした。
農業専従の移民のはずだったが、
戦局が悪化すると、父と弟は、
緊急補充兵として「根こそぎ動員」された。
開拓団には女性、子ども、老人が残された。
ソ連の満州侵攻によって(1945年8月9日)、
女性、子ども、老人の地獄の逃避行が始まった。
20歳になっていた女性は、母を助け、
5人の妹をひきつれて逃げた。
4人の妹は、飢えと病気で死に、
家族がバラバラになった。
女性は、髪をザンギリにし、顔に炭を塗って逃げた。
死をくぐりぬけて、たった1人で日本に引き揚げた(1946年)。
やがて、父と弟が引き揚げてきた。
母と一人の妹は満州で生きていた。
母と妹が帰還できたのは1953年だった。
長野県の伊那谷で開催されたセミナーで、
その「満蒙開拓団」の女性が、
ゲストで出席されていた。
合間を見て、近寄って聞いてみた。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
その「満蒙開拓団」の女性は、
カッ! と目を剥(む)いて、答えられた。
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない」
さらに、念を押された。
「これまで生きていて、『幸せ』だ、と思ったことはない」
女性の態度に唖然(あぜん)とした。
つぎの言葉が出なかった。
「今でも、中国には残留婦人、残留孤児がいる」
「満蒙開拓団の犠牲があって、
今の、あなたの『幸せ』がある」
「調子に乗るな!」
と、ガツンと殴られた思いだ。
「満蒙開拓団」の女性に幸せはない。
「幸せ」を感じたことがない人が、いるのだ。
衝撃だった!
チェコ人から、悲惨なことを言われたことがある。
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
「どうしようもない、つらい時期だった」
「この悲惨な状況は21年続いた」
チェコの民主化運動「プラハの春」は、
ソ連が、戦車でプラハの繁華街ヴァーツラフ広場に、
侵攻し、占拠した。そして、民主化運動を、もとに戻させた。
チェコ事件1968年である。
ソ連に抗議して、2人の学生が、
ヴァーツラフ広場で焼身自殺をした。
世界50か国を訪問して、チェコ人の、
「世界のだれも、助けてくれなかった」が、
世界で一番、悲惨な言葉だと思っていた。
この悲惨な言葉を写真で表したい。
ヴァーツラフ広場には、慰霊碑がある。
犠牲となった2人の学生の下には、
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM”
「共産主義の犠牲者たちを記念して」とある。
1968年のチェコ事件から始まった「つらい時期」は、
1989年に無血革命(ビロード革命)で、
共産党政権を倒すまで、21年間も続いた。
希望が持てない生活、生命が脅かされる生活が、
21年も続くとは、絶望になる。
生活に「希望」が持てないとは、「不幸」であり、
「生命」が脅(おびや)かされるとは、「平和」ではない。
チェコについては、次を参照してください。
「チェコもヨーロッパへの回帰」、2008年6月13日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/7331297ad5e2ad05171944b59b71e0b1
「チェコの二つのプラハの春」、2008年6月17日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/6d334ca4f44161d434c06296e57d20ab
「プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨」、2009年4月15日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/8b07996a29d81579bde2e8e789e4dd56
「これまで生きていて、『幸せ』だと思ったことはない」
と、言われた「満蒙開拓団」の女性を、もっと知りたい。
女性の手記があった。
「後世に伝う血涙の記録 満州泰阜分村」、信濃文化経済社発行。
昭和54年2月11日発行。
女性は、昭和15年に満州に渡った。
引き揚げたのは、昭和21年だから、
帰国して34年後に発行された本である。
「泰阜(やすおか)村」とは、どこにあるか?
「満洲移民の市町村別比率」。
「長野県の満洲移民」、長野県立歴史館発行から作成。
「泰阜村」は長野県南部にある、赤い地域。
赤い地域は、渡満者比率が6.0%以上である。
「市町村の渡満者比率」。
「泰阜村」は、人口5,844の内、826人が満州に渡った。
渡満者比率は、14.1%である。
「大日向村」の渡満者比率は、31.1%と、断然1位である。
「富士見村」の渡満者比率が20.9%で続き、
「上久堅村」が19.4%、
「清内路村」が19.0%、
「市川村」が10.3%である。
なお、「上久堅(かみひさかた)村」は現在飯田市で、
「泰阜村」の北隣になる。
「清内路(せいないじ)村」は、現在「阿智村」である。
「市川村」は、長野県の北部である。
「満蒙開拓団」の女性の手記である、
「後世に伝う血涙の記録 満州泰阜分村」と、
女性が登場する映像情報「満蒙開拓団の真実」、
-国策移民の実像と悲劇-、
それに、女性のことがでてくる、
「終わりなき旅」 「中国残留孤児」の歴史と現在
井出孫六 著、岩波書店発行、
を参照して、「生き地獄」の逃避行をみる。
「17歳から45歳までの男が根こそぎ動員された」
「残った者は老人と婦女子だけになってしまった」
「最後の引き揚げ列車に乗るときになって、
汽車に乗る人と、団へもどる人が激しく対立して、
結局、汽車に乗らなかった」
「ここで、汽車に乗らなかったことが、
運命をきめてしまった」
「市町村の帰国者比率」を作った。
泰阜村から826人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は327人である。
帰国者比率は39.6%である。
市川村、上久堅村の帰国者比率も低い。
市川村は、195人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は51人で、
帰国者比率は26.3%である。
上久堅村は、708人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は296人で、
帰国者比率は41.8%である。
泰阜村の帰国者比率39.6%は低い。
泰阜村の死亡者ほかを見ると、
死亡者は432人、
残留者は31人、
不明者は36人で、
合せて499人になる。
この泰阜村の死亡者ほか499人は、
上久堅村の死亡者ほか412人、
大日向村の死亡者ほか337人、
と比べて、多いことがわかる。
女性が指摘する、
「ここで、汽車に乗らなかったことが、
運命をきめてしまった」
をみるようだ。
さて、「満蒙開拓団」の女性の逃避行を続けるが、
「生き地獄」を見るようだ。
「隊列は戦いながら、前進していった」
「河にさしかかるが、深い河で馬が渡れない。
ここで馬車や、持っている荷物を捨て、
病人は置き去りにすることになった」
「の門外に出ると、急に左右の高粱(こうりゃん)畑から、
銃弾がピューと、流れるようにうなってくる」
「弾の中をくぐりぬけて、1日中逃げて日が暮れた。
翌日の朝、目が覚めてみると、
湿地の中に子どもが死んで浮いている。
周囲には知らない人が、道路に死んだように眠っている。
昨夜のことが悪夢のように思い出された」
「蜜林に入ることになったが、けわしい山で道がない。
仕方なく、足手まといになる子どもから、
捨てなければならなかった。
1人、2人と、河に捨てる人が多くなっていった。
私も7人まで捨てているのを見ていたけれど、
止めることも、助けることもできなかった」
「『おかあちゃん、いやだ』と泣く我が子を、
無我夢中で河に突き落とす。
濁流にのまれて行く子を、
親は放心状態で見ていた」
「毎日雨が降り、ぬかるみは膝までつかるほどで、
足が痛くなり、もう歩けなくなってきた。
1人、2人と山の中に残される人が増えてきた」
「11月初めごろから発疹チフスが流行した。
収容所の死体置き場が、山のように高くなっていた」
「満人たちはこのころから、お米やお金を持って、
子どもや娘や主婦を買いに来た」
「収容所にこのままいて死ぬか、
満人の家に行くか、2つに1つしか道はない。
生きていれば、日本に帰れるかもしれないと考えた人は、
満人の家へ子どもや娘を犠牲にしてやる人もいた。
また自分が主婦になった人もあり、さまざまであった」
女性は、死をくぐりぬけて、日本に逃げ帰ってきた(1946年)。
父と弟は、あとから引き揚げてきた。
母と妹は中国で生きていた。
4人の妹を失った。
「満蒙開拓団」で満州に渡った人は27万人。
その内、日本に帰ってくることができた人は、約半数。
残りの半数は、つぎの人である。
引き揚げるときの飢えと寒さ、発疹チフス、襲撃、
それに、青酸カリを飲む集団自決で「死亡」した人、
シベリアへ「抑留」されて、死亡した人、
引き揚げるときに、親子バラバラになったり、
シベリアへ抑留されて、「行方不明」になった人、
満州に残され、「残留孤児」になった人、
それに、「残留婦人」である。
「満蒙開拓団」の女性は、
「生き地獄」を見た。
日本にもどった今でも、
「怖い夢を見る」
「追われていくときの夢」と言う。
食糧の確保、ソ連国境の防衛のため、
という重要な国策で満州に渡った「満蒙開拓団」は、
「生き地獄」を味わい、癒すことができない、
戦争の傷跡を刻みこまれた。
「満蒙開拓団」は、
生活に「希望」が持てない「不幸」、
「生命」が脅(おびや)かされる「平和」ではない、
を味わった。
「満蒙開拓団」は、
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF MILITARISM”
「軍国主義の犠牲者たちを記念して」
ということになる。
満州からの「引揚者」の「幸せ」はつぎになる。
「軍人」は、
「生きていることに、感謝している」。
「仕事関係」の人は、
「家族がそろって生活できることが『幸せ』」。
「満蒙開拓団」の男性は、
「『幸せ』とは、日常の生活が、当たり前にできること」。
そして、「生き地獄」を見た「満蒙開拓団」の女性は、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない」。
企画展「長野県の満洲移民」が開催された長野県立歴史館。千曲市。
長野県立歴史館では、
「後世に伝う血涙の記録 満州泰阜分村」と、
映像情報「満蒙開拓団の真実」、それに、
「終わりなき旅」を見ることができる。
家族といっしょに満州に渡った、
15歳の女性は、地獄の逃避行をした。
農業専従の移民のはずだったが、
戦局が悪化すると、父と弟は、
緊急補充兵として「根こそぎ動員」された。
開拓団には女性、子ども、老人が残された。
ソ連の満州侵攻によって(1945年8月9日)、
女性、子ども、老人の地獄の逃避行が始まった。
20歳になっていた女性は、母を助け、
5人の妹をひきつれて逃げた。
4人の妹は、飢えと病気で死に、
家族がバラバラになった。
女性は、髪をザンギリにし、顔に炭を塗って逃げた。
死をくぐりぬけて、たった1人で日本に引き揚げた(1946年)。
やがて、父と弟が引き揚げてきた。
母と一人の妹は満州で生きていた。
母と妹が帰還できたのは1953年だった。
長野県の伊那谷で開催されたセミナーで、
その「満蒙開拓団」の女性が、
ゲストで出席されていた。
合間を見て、近寄って聞いてみた。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
その「満蒙開拓団」の女性は、
カッ! と目を剥(む)いて、答えられた。
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない」
さらに、念を押された。
「これまで生きていて、『幸せ』だ、と思ったことはない」
女性の態度に唖然(あぜん)とした。
つぎの言葉が出なかった。
「今でも、中国には残留婦人、残留孤児がいる」
「満蒙開拓団の犠牲があって、
今の、あなたの『幸せ』がある」
「調子に乗るな!」
と、ガツンと殴られた思いだ。
「満蒙開拓団」の女性に幸せはない。
「幸せ」を感じたことがない人が、いるのだ。
衝撃だった!
チェコ人から、悲惨なことを言われたことがある。
「世界のだれも、助けてくれなかった!」
「どうしようもない、つらい時期だった」
「この悲惨な状況は21年続いた」
チェコの民主化運動「プラハの春」は、
ソ連が、戦車でプラハの繁華街ヴァーツラフ広場に、
侵攻し、占拠した。そして、民主化運動を、もとに戻させた。
チェコ事件1968年である。
ソ連に抗議して、2人の学生が、
ヴァーツラフ広場で焼身自殺をした。
世界50か国を訪問して、チェコ人の、
「世界のだれも、助けてくれなかった」が、
世界で一番、悲惨な言葉だと思っていた。
この悲惨な言葉を写真で表したい。
ヴァーツラフ広場には、慰霊碑がある。
犠牲となった2人の学生の下には、
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF COMMUNISM”
「共産主義の犠牲者たちを記念して」とある。
1968年のチェコ事件から始まった「つらい時期」は、
1989年に無血革命(ビロード革命)で、
共産党政権を倒すまで、21年間も続いた。
希望が持てない生活、生命が脅かされる生活が、
21年も続くとは、絶望になる。
生活に「希望」が持てないとは、「不幸」であり、
「生命」が脅(おびや)かされるとは、「平和」ではない。
チェコについては、次を参照してください。
「チェコもヨーロッパへの回帰」、2008年6月13日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/7331297ad5e2ad05171944b59b71e0b1
「チェコの二つのプラハの春」、2008年6月17日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/6d334ca4f44161d434c06296e57d20ab
「プラハの春からビロード革命まで、21年の悲惨」、2009年4月15日。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/8b07996a29d81579bde2e8e789e4dd56
「これまで生きていて、『幸せ』だと思ったことはない」
と、言われた「満蒙開拓団」の女性を、もっと知りたい。
女性の手記があった。
「後世に伝う血涙の記録 満州泰阜分村」、信濃文化経済社発行。
昭和54年2月11日発行。
女性は、昭和15年に満州に渡った。
引き揚げたのは、昭和21年だから、
帰国して34年後に発行された本である。
「泰阜(やすおか)村」とは、どこにあるか?
「満洲移民の市町村別比率」。
「長野県の満洲移民」、長野県立歴史館発行から作成。
「泰阜村」は長野県南部にある、赤い地域。
赤い地域は、渡満者比率が6.0%以上である。
「市町村の渡満者比率」。
「泰阜村」は、人口5,844の内、826人が満州に渡った。
渡満者比率は、14.1%である。
「大日向村」の渡満者比率は、31.1%と、断然1位である。
「富士見村」の渡満者比率が20.9%で続き、
「上久堅村」が19.4%、
「清内路村」が19.0%、
「市川村」が10.3%である。
なお、「上久堅(かみひさかた)村」は現在飯田市で、
「泰阜村」の北隣になる。
「清内路(せいないじ)村」は、現在「阿智村」である。
「市川村」は、長野県の北部である。
「満蒙開拓団」の女性の手記である、
「後世に伝う血涙の記録 満州泰阜分村」と、
女性が登場する映像情報「満蒙開拓団の真実」、
-国策移民の実像と悲劇-、
それに、女性のことがでてくる、
「終わりなき旅」 「中国残留孤児」の歴史と現在
井出孫六 著、岩波書店発行、
を参照して、「生き地獄」の逃避行をみる。
「17歳から45歳までの男が根こそぎ動員された」
「残った者は老人と婦女子だけになってしまった」
「最後の引き揚げ列車に乗るときになって、
汽車に乗る人と、団へもどる人が激しく対立して、
結局、汽車に乗らなかった」
「ここで、汽車に乗らなかったことが、
運命をきめてしまった」
「市町村の帰国者比率」を作った。
泰阜村から826人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は327人である。
帰国者比率は39.6%である。
市川村、上久堅村の帰国者比率も低い。
市川村は、195人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は51人で、
帰国者比率は26.3%である。
上久堅村は、708人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は296人で、
帰国者比率は41.8%である。
泰阜村の帰国者比率39.6%は低い。
泰阜村の死亡者ほかを見ると、
死亡者は432人、
残留者は31人、
不明者は36人で、
合せて499人になる。
この泰阜村の死亡者ほか499人は、
上久堅村の死亡者ほか412人、
大日向村の死亡者ほか337人、
と比べて、多いことがわかる。
女性が指摘する、
「ここで、汽車に乗らなかったことが、
運命をきめてしまった」
をみるようだ。
さて、「満蒙開拓団」の女性の逃避行を続けるが、
「生き地獄」を見るようだ。
「隊列は戦いながら、前進していった」
「河にさしかかるが、深い河で馬が渡れない。
ここで馬車や、持っている荷物を捨て、
病人は置き去りにすることになった」
「の門外に出ると、急に左右の高粱(こうりゃん)畑から、
銃弾がピューと、流れるようにうなってくる」
「弾の中をくぐりぬけて、1日中逃げて日が暮れた。
翌日の朝、目が覚めてみると、
湿地の中に子どもが死んで浮いている。
周囲には知らない人が、道路に死んだように眠っている。
昨夜のことが悪夢のように思い出された」
「蜜林に入ることになったが、けわしい山で道がない。
仕方なく、足手まといになる子どもから、
捨てなければならなかった。
1人、2人と、河に捨てる人が多くなっていった。
私も7人まで捨てているのを見ていたけれど、
止めることも、助けることもできなかった」
「『おかあちゃん、いやだ』と泣く我が子を、
無我夢中で河に突き落とす。
濁流にのまれて行く子を、
親は放心状態で見ていた」
「毎日雨が降り、ぬかるみは膝までつかるほどで、
足が痛くなり、もう歩けなくなってきた。
1人、2人と山の中に残される人が増えてきた」
「11月初めごろから発疹チフスが流行した。
収容所の死体置き場が、山のように高くなっていた」
「満人たちはこのころから、お米やお金を持って、
子どもや娘や主婦を買いに来た」
「収容所にこのままいて死ぬか、
満人の家に行くか、2つに1つしか道はない。
生きていれば、日本に帰れるかもしれないと考えた人は、
満人の家へ子どもや娘を犠牲にしてやる人もいた。
また自分が主婦になった人もあり、さまざまであった」
女性は、死をくぐりぬけて、日本に逃げ帰ってきた(1946年)。
父と弟は、あとから引き揚げてきた。
母と妹は中国で生きていた。
4人の妹を失った。
「満蒙開拓団」で満州に渡った人は27万人。
その内、日本に帰ってくることができた人は、約半数。
残りの半数は、つぎの人である。
引き揚げるときの飢えと寒さ、発疹チフス、襲撃、
それに、青酸カリを飲む集団自決で「死亡」した人、
シベリアへ「抑留」されて、死亡した人、
引き揚げるときに、親子バラバラになったり、
シベリアへ抑留されて、「行方不明」になった人、
満州に残され、「残留孤児」になった人、
それに、「残留婦人」である。
「満蒙開拓団」の女性は、
「生き地獄」を見た。
日本にもどった今でも、
「怖い夢を見る」
「追われていくときの夢」と言う。
食糧の確保、ソ連国境の防衛のため、
という重要な国策で満州に渡った「満蒙開拓団」は、
「生き地獄」を味わい、癒すことができない、
戦争の傷跡を刻みこまれた。
「満蒙開拓団」は、
生活に「希望」が持てない「不幸」、
「生命」が脅(おびや)かされる「平和」ではない、
を味わった。
「満蒙開拓団」は、
“IN MEMORY OF THE VICTIMS OF MILITARISM”
「軍国主義の犠牲者たちを記念して」
ということになる。
満州からの「引揚者」の「幸せ」はつぎになる。
「軍人」は、
「生きていることに、感謝している」。
「仕事関係」の人は、
「家族がそろって生活できることが『幸せ』」。
「満蒙開拓団」の男性は、
「『幸せ』とは、日常の生活が、当たり前にできること」。
そして、「生き地獄」を見た「満蒙開拓団」の女性は、
「『幸せ』だ、と感じたことは、一度もない」。
企画展「長野県の満洲移民」が開催された長野県立歴史館。千曲市。
長野県立歴史館では、
「後世に伝う血涙の記録 満州泰阜分村」と、
映像情報「満蒙開拓団の真実」、それに、
「終わりなき旅」を見ることができる。