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国が消滅する直前の東ドイツを訪問

2010-05-23 00:05:23 | Weblog
タクシー・ドライバーは、の代表者。
旅が楽しくなったり、とんでもないことがおきる。
街の印象が良くなったり、悪くなったりする。

41) 国が消滅する直前の東ドイツを訪問
まだ東ドイツがあった1989年3月のこと。
ハレという街で、毎年開催される国際見本市へ行った。

ハレから北東150キロメートルにベルリンがあるが、
そのベルリンは、ベルリンの壁で東西に分断されていた。

ベルリンの壁(1988年)。
高くて、厚くて、硬くて、どこまでも続くベルリンの壁は、

まさか、来年の1989年に崩壊するとは、夢にも思わなかった。

民族が同じでも、イデオロギーがちがうと、人はケンカする。
そして、人類史上もっとも非創造的な建造物、ベルリンの壁を造った。

東西ドイツの統一は、夢であり、理想であって、
このベルリンの壁が、崩壊するとは、
当面、あり得ないだろう。
少なくとも、20世紀中にはむりだ。
それに、流血の惨事がともなうだろう。
世界の人も、そう思っていた。

ところが、1989年11月9日、
ベルリンの壁は、突如崩壊した。
劇的な変化(パラダイム・シフト)である。
世界の人がそう思っていたのが崩れる、歴史の劇的な変化だ。

東ドイツ市民の旅行の規制が緩和されたのが、きっかけである。
ベルリンの壁が崩壊してから、東西ドイツの歴史は急展開した。

このベルリンの壁は、世界遺産にならなかった。
いまわしいものとして、すぐに撤去された。
他民族からの侵入を防ぐ万里の長城は、世界遺産になったが。

ドイツの歴史をみると、
1945年に、第2次世界大戦が終わって、
 ドイツは、東西に分割された。
 東ドイツの中にあった陸の孤島、ベルリンは、
 東西に分割され、東ベルリンはソ連によって統治され、
 西ベルリンは、アメリカ、イギリス、フランスによって、
 3分割統治された。これは、1990年9月まで、半世紀も続いた。
1961年8月に、ベルリンの壁が築かれ、
1989年11月に、ベルリンの壁が崩壊した。
1990年9月に、西ベルリンの分割統治が終わり、
1990年10月に、東西ドイツは統一した。
1991年12月には、ソ連が崩壊した。

第2次世界大戦で敗戦した日本は、1952年4月まで、
連合国(アメリカ)によって、6年9か月占領統治された。

警告板で、西ベルリンの3分割統治をみる。
シュプレー川にある警告板(1988年)。

警告板には、
「イギリス管理区の境界。ここを越えるな」とある。
シュプレー川の対岸は、東ベルリンで、
フェンス、ベルリンの壁(白)、照明が見える。
監視塔を入れて、東西ベルリンを遮断する、お決まりの一式になる。

フェンスとベルリンの壁の間は、国境警備隊が巡回する。
歩いたり、車であったり、シェパード犬を連れたりと。
ここシュプレー川では、さらに、“警備艇”が見える。

イギリス管理区とは、西ベルリンはアメリカ、イギリス、
フランスによって、3分割されて統治されていたのである。
この分割統治は、ドイツが第2次世界大戦で敗戦した1945年から、
1990年9月まで、半世紀も続いた。

1989年3月に東ドイツの街ハレを訪問したが、
1989年11月に、ベルリンの壁が崩壊し、
1990年10月に、東ドイツが消滅するから、
国が消滅する直前に東ドイツを訪問したことになる。

犠牲者の十字架がならぶ。シュプレー川沿い(1988年)。

ベルリンの壁を越え、シュプレー川に飛び込んで、
泳いだり、ボートに乗ったり、シュノーケルで潜ったり……と、
考えられる方法で東ベルリン脱出を試みた。
が、東の国境警備隊に見つかって、射殺された。
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