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大日向村は満蒙開拓団のモデルケース

2012-07-29 00:07:29 | Weblog
大日向村」は「分村移民」を初めて進めた村である。
「大日向村」は「満蒙開拓団」のモデルケースとなった。

「満蒙開拓団」の出発風景。大日向村。

長野県立歴史館の企画展、
「長野県の満洲移民」-三つの大日向をたどる-
のリーフレットから。

日の丸、鼓笛隊が先導し、移民団が続く。
それに、見送る村人も。

長野県立歴史館の企画展「長野県の満洲移民」で、
展示されていたこの写真を見に来た人が、
「ここに写っているのは、親父だ。親父が17歳のときだった」
と言っているのが聞こえてきた。
生きて帰国できたから、見に来た人が生まれたのだろう。

そして、声をかけた。
「この風景は残っていますか?」
「写真と変っているけれど、ありますよ。
橋は建て替えられているし、
火の見櫓の形も違っているけれども」

それを聞いて、大日向村へ行って見たくなった。
目指すは橋と火の見櫓だ。


「満蒙開拓団」の出発風景の写真を、住民に見てもらって聞いた。
「写真の場所はここですか?」
「この場所です。先頭の旗は、なんの旗かわからないが」
と、ご夫婦はこたえてくれた。

確かに橋があり、火の見櫓がある。川は抜井川。
火の見櫓の左の建物は「佐久穂町大日向四区公民館」。

「この場所」はどこか?
長野県南佐久郡佐久穂町大日向本郷。

印。
国道299号を西から入った。東は「十石峠」になる。
前田橋の直前を左折して旧道に入る。

大日向。国道299号から。

ここが故郷「第一の大日向村」である。
第二の大日向村」は満州である。

入植地一覧図」。

「長野県の満洲移民」のリーフレットから作成。
は「大日向村」の入植地「大日向村」。「第二の大日向村」である。
は「泰阜村」の入植地「泰阜村」。
は「上久堅村」の入植地「上久堅村」。
は「阿智村」の入植地「阿智郡」。
は「富士見村」の入植地「富士見村」。
の「豊丘村」は、東と西の2か所にあって、
東は「神稲(くましろ)村」」の入植地「南五道崗」(みなみごどうこう)、
西は「河野(かわの)村」の入植地「河野村」。
は集団自決をした主な12か所。

市町村の渡満者比率」。

「大日向村」は2,133人のうち、「分村移民」で、
664人が満州の「第二の大日向村」に渡った。

「大日向村」の渡満者比率は31.1%と高い。
「分村移民」のモデルケースとなった村である。

「大日方村」の昭和11年の負債総額は36万2千円にのぼった。
これは、村の予算の12年分になる。村の財政再建のために、
「分村移民」を決断した。
満州に「第二の大日方村」を造ろう、としたものである。

「分村移民」には、国から「特別助成金」が出る。
昭和12年、13年の2年間で得た特別助成金(4万7千円)は、
昭和12年の村の年間予算(3万3千円)を大きく超えた。
(「長野県の満洲移民」、長野県立歴史館発行から)

市町村の帰国者比率」。


「満蒙開拓団」は、敗戦で「地獄の逃避行」になる。
「第二の大日向村」は664人のうち、死亡者ほかは337人である。
死亡者332人、
残留者3人、
不明者2人、
総数337人。

特に、女性と子どもが犠牲になった。
襲撃、飢え、極寒、発疹チフスで亡くなり、
それに残留婦人、残留孤児を生んだ。
男性は緊急補充兵として「根こそぎ動員」されて、
戦死したり、シベリアに抑留されて、飢え、極寒、
発疹チフス、重労働で多くの人が命を落した。

半数の人が生きて帰ったが、
故郷の「第一の大日向村」には、
土地も家もない。処分して満州に渡ったから。

それで、軽井沢町の浅間山の麓、
払い下げの国有地で、165人が開拓をはじめた(1947年)。
「ここが最後の地。ここで生きるしかない」
第三の大日向」の開拓である。

軽井沢 観光マップ」。中軽井沢駅の観光案内所で。

中軽井沢駅の左(西)に、大日向がある。

「満州では開拓をしていない。ここに来て初めて開拓をした」
と開拓民が言うのは、満州では、ノコギリも斧も要らなかった。
中国人や朝鮮人がすでに開墾した土地を取りあげて入植したから。
「第三の大日向」が本格的な開拓になった。

カラマツを切り倒し、畑を作った。
火山灰と溶岩、それに寒さで稲作はできない。
ソバやジャガイモ、小麦を栽培し、やがて酪農、
キャベツ、レタスの高原野菜の栽培へと変わってきた。

砂利道を浅間山に向かって(北)に進むとキャベツ畑になった。

このキャベツ畑が「第三の大日向」であることは、
となりにある昭和天皇の「御巡幸記念碑」でわかった。

「浅間おろし つよき麓に かえりきて
いそしむ田人 とうとくもあるか」

そして、「御巡幸記念碑」から南へ1kmほど、
開拓之礎」が「大日向公民館」の横にある。
これも見たかった「満蒙開拓団」の「痕跡」である。

開拓遺歴
南佐久郡大日向村は経済更生計画を樹立し
昭和12年 村長浅川武麿 組合長堀川清躬をして
分村計画をたて満州国吉林省舒蘭県四家房の地へ
団長堀川清躬先達となり 日本最初の分村をなす
入植者 216戸 674名 水田1千町歩
畑1千500町歩 山林1千500町歩を保有す
同16年 開拓は発展なすも 大東亜戦争は愈々烈列となり
同20年8月15日終戦の宣勅は下る
世相は一変し敗戦の民となる
匪襲により活路なく 難民極寒悪病と闘い
新京にて団長堀川清躬 組合長小須田兵庫
校長中沢勇三以下 374名の犠牲者を出す
堀川源雄指揮者となり難民生活の指導なす
同21年9月ロコ島より母村に帰る
昭和22年2月11日 堀川源雄団長となり
現在地に65戸 168名の入植をなす
国有地の開発は進み 同22年10月7日
天皇陛下の御巡幸を賜り
 浅間おろし つよき麓に かえりきて
 いそしむ田人 とうとくもあるか
の御製を賜る
入植18年の歳月は流れ
同38年 横井今朝一組合長となり開拓は完成す
同39年9月1日 皇太子殿下御一家のご来啓を賜る
団員総意により 入植以来15名の霊を合せて
茲に謹んで慰霊碑の建立をなす
  昭和39年11月3日

佐久穂町の「第一の大日向村」から、
軽井沢町の「第三の大日向」までは、
北へ直線で24 kmである。
「満蒙開拓団」の出発風景の場所から、
「大日向公民館」の「開拓之礎」までを測って。


渡満者比率が31.1%と高い、そして、
「分村移民」のモデルケースとなった、
「大日向村」を実際に訪れることができた。

それにしても、国家は壮大な実験をするものだ。
「満蒙開拓団」によって、大もうけする人がいる。
国家は大もうけする人のためにあり、
大もうけする人は国家を援助する例をみる思いだ。

「満蒙開拓団の予算など日本海に捨てるに等しい」
と、「満蒙開拓団」に反対した高橋是清蔵相は、
軍部のクーデターによって暗殺された。
1936年の2.26事件である。

恐怖で、軍部の思い通りとなった。
1936年、廣田内閣は、国策として満州に、
「20年で100万戸、500万人の移民計画」を決める。

「第一の大日向村」~「第三の大日向」で、
「満蒙開拓団」を決断するいきさつ、募集、渡満、
地獄の逃避行、そして、引き揚げてからの再開拓と、
家族の半数を失い、全財産を失いながらも、
生き延びる開拓民のたくましさを見た。
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