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満蒙開拓団のトップは長野県

2013-05-26 00:03:00 | Weblog
長野県の阿智村に「満蒙開拓平和記念館」が開館した。

2013年4月25日のオープニングの日に行ってみると、
待ちわびたように、多くのお客さんが詰めかけていた。
外で記念撮影をしている。報道関係者がいる。
入口(左)には、花輪が並んでいる。

どうして、阿智村に「開拓平和記念館」ができたのか?
以前に書いたブログ、
満蒙開拓団は阿智村に注目」、2012年6月17日、
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/02ca44747cd22e2cabad80c3b680f36d
を参照してください。
1) 長野県は、「満蒙開拓団」を、
全国一、多く送り出している。
2) 阿智村を含む伊那谷が、長野県の中で、
「満蒙開拓団」を一番多く、送り出している。
3) 阿智村の旧清内路(せいないじ)村では、
村の人口の2割近くが、満州に渡っている。
4) 阿智村の「長岳寺」の住職、山本慈昭(じしょう)さんは、
「残留孤児」を捜し、帰国のために奔走した。
5) 阿智村に、「満蒙開拓平和記念館」が建設される。
6) 阿智村で、「戦争ポスター」135枚が、見つかった。
と、書いてある。

「チケット」を買った。


「満蒙開拓平和記念館」の中では、
「満州開拓団」で、生きて引き揚げることができた人でしょう?
満州に渡った経路、逃げ延びた経路を、満州の地図で指さしている。

ここから満州に入って、ここに入植した。
そして、敗戦で「地獄の逃避行」になって、
最後は収容所に入れられたが、何とか生き延びて、
舞鶴にもどってきた。だが、半数の人が亡くなった、
襲撃、飢え、発疹チフス、子どもを河に投げ捨てる、
それに、青酸カリを飲む集団自決・・・、
「生き地獄だった」
というのが聞こえてくるようだ。

この生きて日本に引き揚げてきた人たちの中に、
私は入っていけない。あまりに悲惨な人生だ。
話しかけかける「言葉」がみつからない。
きっかけになる話題がない。

どうして「満州開拓団」として満州に渡ったのだろうか?
これが私の関心。
移民募集」のポスターがあった。

拓け満蒙!
行け満洲へ!
資格 33歳以下(徴兵検査未了者を除く)にして身体強壮の者
政府の補助 1戸に付1,000円、その他諸種の便宜あり

それに、「満蒙開拓平和記念館」には、
日中戦争下における満州開拓の展開と満蒙開拓青少年義勇軍の創設
という資料があった。
県別の満州開拓団員数と満蒙開拓青少年義勇軍がわかる。
「満州開拓団」と、「満蒙開拓青少年義勇軍」の
出身県別のトップ10を作成した。つぎになる。


「満州開拓団」として満州に渡った人は22万人である。
そして、出身県別のトップは長野県で3万1千人が渡っている。
全体の14%で、ダントツである。
2位山形県、3位宮城県、4位熊本県、5位福島県が続く。

つぎに、「満蒙開拓青少年義勇軍」。
満蒙開拓青少年義勇軍募集」のポスター。

往け若人! 北満の沃野へ!!」、
「詳細は市町村役場へ」。
長野県」が作成したポスターである。

青年は、北満に国旗を掲揚し、
後ろでは、ヤマトタケル? が右手に弓、左手に剣を持っている。

「満蒙開拓青少年義勇軍」とは、
15歳~19歳の青少年を募集し、
茨城県の内原訓練所で、3ヶ月訓練してから、
「北満」、つまり、ソ連国境の奥地へ送り込み、国境警備にあてた。


「満蒙開拓青少年義勇軍」として満州に渡った人は10万人である。
出身県別のトップは長野県で6千600人が渡っている。
全体の6.5%で、ダントツである。
2位広島県、3位山形県、4位新潟県、5位福島県が続く。

「満蒙開拓団」は、農業移民の「満州開拓団」と、
武装農業移民の「満蒙開拓青少年義勇軍」になる。
「満州開拓団」と、「満蒙開拓青少年義勇軍」の合計は、つぎになる。


「満州開拓団」と「満蒙開拓青少年義勇軍」の合計は32万人である。
出身県別のトップは長野県で3万8千人が渡っている。
全体の11.8%で、ダントツである。
2位山形県、3位熊本県、4位福島県、5位新潟県が続く。

当時の長野県、富士見村の経済状態の資料があった(1937年)。
農家の平均年収は479円だった。
「移民募集」のポスターを見ると、政府の補助は、
1戸に付1,000円だから、収入の2年分に相当する。
しかし、農家の負債(借金)が、1戸当たり734円あった。
満洲へ行くと、借金が返済できて、266円が手元に残り、
そのうえ、満州では20町歩がもらえる、ということになる。

農林省の「経済更生指定村」になった富士見村は(1937年)、
分村移民」を決議した(1938年)。そして、
860戸のうち2割にあたる173戸が、満州に渡った(1939年)。

さて関心である、どうして「満州開拓団」として満州に渡ったのか?
養蚕で生計を立てていたが、繭(まゆ)の価格が3割ほどになって、
生活がたちゆかなくなった。多額の借金が残った。
しかも、次男・三男に引き継ぐ田畑はない。
生きていくためには、どうしようもない、
満州への「国策」(1936年)、
20年で100万戸、500万人の移民計画」、
「満州は日本の生命線」、
20町歩の地主になれる
満州に分村移民するしかない。
「満州開拓団」である。

そして、敗戦
どのくらいの人が帰国できたのだろうか?
長野県満蒙開拓団・旧郡市別一覧表」があった。
この表から、長野県の「満蒙開拓団の帰国者比率」の表を作成した。

32.992人が満洲に渡ったことになっているが、
前に掲げた表の37.859人とは違っている。
転載したところが違っているためである。

帰国者は16,949人で、51.4%が帰国することができたが、
未帰国者は16,043人で、48.6%が帰国できなかった。
半分の人が帰ってくることができなかったことになるが、
この未帰国者16,043人の内訳は、
死亡が14,940人で、93%を占めている。
残りは、残留者890人、6%と、
不明者213人、1%である。

「満蒙開拓平和記念館」に詰めかけた人たちは、
母を失ったかもしれない、
父を失ったかもしれない、
兄弟を失ったかもしれない、
家族の半数を失って、生きて、
引き揚げることがてきた人たちである。
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