季節の変化

活動の状況

満蒙開拓団は阿智村に注目

2012-06-17 00:06:17 | Weblog
満蒙開拓団」(まんもうかいたくだん)とは、なんであるか?
「満蒙開拓団」は「阿智村」に注目した。

満州には、
軍人」(広東軍)、
満州鉄道ほか「仕事の人」、
満蒙開拓団」(農業移民、武装農業移民)、
など、155万人が渡った。

敗戦で、満州からの「引揚者」は、
悲惨な体験をされている。
「軍人」では、穂苅甲子男さんを取り上げ、
「仕事の人」では、新田次郎さんの家族を取り上げて、
「『幸せ』を感じるとき」
を、探ってきた。

さて、つぎは「満蒙開拓団」である。
「満蒙開拓団」とは、なんであるか?
「満蒙開拓団」は「阿智村」に注目した。

阿智(あち)村は、長野県の南、
伊那谷にあり、飯田市の南である。


「満蒙開拓平和記念館事業準備会」のリーフレットから。
中央道の飯田山本ICを利用する。松本から1時間ちょっとである。

「満蒙開拓団」は「阿智村」に注目したのには、わけがある。
1) 長野県は、「満蒙開拓団」を、
全国一、多く送り出している。
2) 阿智村を含む伊那谷が、長野県の中で、
「満蒙開拓団」を一番多く、送り出している。
3) 阿智村の旧清内路(せいないじ)村では、
村の人口の2割近くが、満州に渡っている。
4) 阿智村の「長岳寺」の住職、山本慈昭(じしょう)さんは、
残留孤児」を捜し、帰国のために奔走した。
5) 阿智村に、「満蒙開拓平和記念館」が建設される。
6) 阿智村で、「戦争ポスター」135枚が、見つかった。

「満蒙開拓団」は阿智村に注目した、1)~6)について、
ちょっと長くなるが、お付き合いください。

1) 長野県は、「満蒙開拓団」を、
全国一、多く送り出している。

「満蒙開拓団等送出数上位県」。

「満蒙開拓平和記念館事業準備会」のリーフレットから。

「満蒙開拓団等送出数上位県」、
を見れば、もうおわかりでしょう。
長野県は、最大規模の37,859人を送り出している。
2位、山形県17,177人の2.2倍である。

「満蒙開拓団」は、全国から27万人
その内、14%を長野県が占めた。

「満蒙開拓団」の内訳は、
農業移民の「開拓団」と、
武装農業移民の「満蒙開拓青少年義勇軍」に大別される。
ともに、長野県が1位である。

「満蒙開拓青少年義勇軍」は、1938年から始まった。
「満蒙開拓青少年義勇軍」を、
募集するポスターがある。

往け若人! 北満の沃野へ!!」。

阿智村が所蔵する「阿智村ポスター」。

青年は、北満に国旗を掲揚し、
後ろでは、ヤマトタケル? が右手に弓、左手に剣を持っている。

「往け若人!」
北満の沃野(よくの)へ!!」
「満蒙開拓青少年義勇軍募集」
「詳細は市町村役場へ」
「長野県」
とあるこのポスターは、
「満蒙開拓青少年義勇軍」を、よく語っている。

15歳~18歳の青少年を募集し、
茨城県の内原訓練所で、3ヶ月訓練してから、
北満」、つまり、ソ連国境の奥地へ送り込まれた。
北満では、「満蒙開拓青少年義勇隊」と呼ばれて、
ふだんは農業実習と軍事訓練をし、
イザというときには戦う。

「満蒙開拓青少年義勇軍」の募集は、
各県、村、学校ごとに割り当てられた。
候補とされた少年は、校長室に呼ばれて、
入隊を決意するまで3日、立たされたという。
半ば強制的な募集で、割り当てをこなす。
信濃教育会は、
長野県に割り当てられた、
「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出に、
大きく関わった。

各村の学校長は、
「満蒙開拓青少年義勇軍」を送り出す任務をすすめ、
結果は、郡別の「番付表」で示された。

「中国残留邦人」-置き去られた60余年。
井出孫六 著、岩波新書から。

東の横綱を見ると、下伊那郡である。
阿智村のあるところ。

「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
全国から8万6千人、そのうち、
長野県は6,595人、およそ8%を占めた。

「満蒙開拓青少年義勇隊」の写真がある。
「シベリア俘虜記」。穂苅甲子男 著、光人NF文庫から。

15歳~18歳とは、義務教育を終える少年である!

「阿智村ポスター」の、
「往け若人! 北満の沃野へ!!」と、
写真を比べてしまった。
ポスターは、希望で、はつらつとしている。
写真では、希望はない、無念さがただよう。
それに、汚れた服だ! 何日も洗ってない。

「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
満州では、広大な沃野で豊かに暮らしている、と教えられ、
村長、校長、在校生、村人から盛大に送り出されたが、
夢は崩れ去った。現実の満州は、まったく違っていた。
だだっ広い原っぱに、粗末な建物、貧しい暮らし、
9月には冬が訪れ、マイナス30度になった。

「満蒙開拓青少年義勇隊」は、
ソ連の満州侵攻で、地獄の逃避行をし、
シベリアに抑留され、死亡したり、行方不明になった。

一方の「開拓団」は、農業専従の移民のはずだった。
しかし、戦況が悪化すると、17歳~45歳の男性は、
緊急補充兵として召集され、戦場に送られた。
そして、ソ連との戦いで死亡するか、
捕虜となって、シベリアへ抑留された。

取り残されたのは「満蒙開拓団」の、
女性、子ども、老人、それに、病気の男性である。
1945年8月9日のソ連の満州侵攻で、か弱い一団は、
とるものもとりあえず、地獄の逃避行を始めた。

「満蒙開拓団」27万人のうち、
日本に帰還できた「引揚者」は、
半分ほどであった。

残りの半分は、つぎの人である。
引き揚げるときの飢えと寒さ、発疹チフス、襲撃、
それに、青酸カリを飲む集団自決で「死亡」した人、
シベリアへ「抑留」されて、死亡した人、
引き揚げるときに、親子バラバラになったり、
シベリアへ抑留されて、「行方不明」になった人、
満州に残され、「残留孤児」になった人、
それに、「残留婦人」である。

残留孤児とは、13歳未満、
残留婦人とは、13歳以上の女性である。
なぜ13歳なのか?
13歳以上は、自分の意思で決めることができる年齢であり、
それに、満州に渡るときに出資金を出した、
というのが政府の考えという。
しかし、現実は生きるか、死ぬかの「地獄の逃避行」で、
「命のあるうちは、生きよう」と、必死であり、
だれも、好き好んで「残留婦人」に、
なったのではなかった。

満州からの引き揚げは、
乳飲み子や幼い子どもを連れた、
若い母親にとっては、あまりに過酷で、
「なんとか、子どもの命だけは助けたい」と、
中国人に預けた。残留孤児である。

若い母親は、地獄の逃避行で死亡したり、
死と引き換えに、中国男性と結婚した。
残留婦人である。
それに、「大陸の花嫁」100万人計画で、
満蒙開拓団の結婚相手に送り込まれた、
満蒙開拓女子義勇軍」は、
集団見合いで結婚した夫を緊急補充兵でとられる。
そして、地獄の逃避行を続けたが、死と引き換えに、
中国人と再婚して、残留婦人となった。

2) 阿智村を含む伊那谷が、長野県の中で、
一番多く「満蒙開拓団」を、送り出している。
伊那谷は、長野県のおよそ3分の1を占めている。

長野県では、
農家の40%が「養蚕」(ようさん)にかかわっていたが、
1929年の世界恐慌で、生糸の値段が大暴落した。
養蚕が収入源だった農家は、大打撃を受けた。
そして、村の財政が立ち行かなくなった。

「満蒙開拓団」は、重要な国策で、
食糧の確保、ソ連国境の防衛のために、
20年間で100万戸、500万人を満州に、
移住させるという「満州移民計画」ができ(1936年)、
村に移民割り当てがきた。

「満州へ行けば20町歩(ha)の地主になれる」
というプロパガンダは、
養蚕の収入がなくなり、
農地の割り当てが期待できない、
次男、3男には夢のように思えた。

村を分けて満州に分村を作るという、
分村移民」には、村には多くの交付金が出た。

3) 阿智村の旧清内路(せいないじ)村では、
村の人口の2割近くの18.9%が、満州に渡っている。

「満蒙開拓団」の開拓とは名ばかりで、
満州人や朝鮮人の土地を強制的に、
安く収用したところへ、入植するものだった。
開墾するための斧も、ノコギリも要らなかった。

日本とはちがって、耕地面積が広い。
家と土地を奪われた満州人や朝鮮人を、
小作人、苦力(クーリー)として使った。

このときから、「満蒙開拓団」は、
家と土地を奪った「侵略者」になった。
ソ連が侵攻し、守るべき関東軍は、
いち早く撤退したから、「満蒙開拓団」は、
満州人や朝鮮人の恨みで、復讐、襲撃されて、
青酸カリの集団自決に、追い込まれたところがあった。

4) 阿智村の「長岳寺」の住職、山本慈昭(じしょう)さんは、
残留孤児」を捜し、日本への帰国のために奔走した。

日中友好手をつなぐ会」を結成し、
「残留孤児」の肉親探しに奔走して、
残留孤児の父」と呼ばれた。

日中友好不再戦の碑」。長岳寺、阿智村。

右端は「殉難者供養塔」。
「日中友好不再戦の碑」には、つぎのように書かれている。
「日本と中国は 平和と友好で永劫に 手を握りましょう 1966年初夏」

裏にはつぎのように書かれている。
「旧西部8ヶ村から終戦前に、
王道楽土建設の名のもとに、
誤った軍国主義政治のため、
かりたてられて、
中国に渡ったこの地方の開拓民は、
およそ900名に及び、
600名の犠牲者を出した。
この不幸な体験から
『戦争はまっぴらだ、
2度とあんな目にあいたくない
中国と仲よくしよう』
と私達は心から誓って、
関係者1万余名の浄財カンパにより、
この碑を建立した」

「王道楽土」(おうどうらくど)とは、
力による満州の支配ではなく、
徳(王道)で治める満州(楽土)である。
「五族協和」(大和民族、満州民族、朝鮮民族、
蒙古民族、支那民族の共存共栄)とともに、
満州建国のスローガンとなっていた。

開拓団の教員として満州に渡った、
「長岳寺」の山本慈昭さんは、
シベリアに抑留され、帰還した。
そして、満州で別れた妻と、
2人の子ども(4歳と生まれたばかり)の死を知る。

戦後、満州を訪れたが、
生き残った教え子を含めて、
多くの残留孤児、残留婦人が、
生存していることがわかった。

1972年に日中国交回復すると、
日中友好手をつなぐ会」は、
残留孤児の肉親探しが本格化する。

ついに、国を動かし、1981年に、
第1回「集団訪日調査」が実現して、
残留孤児47人が来日した。
肉親捜しは、民間組織から国家事業になった。
阿智村は、「残留孤児、残留婦人」の支援、
「日中友好活動」の先駆けとなった。

山本慈昭さんの、4歳だった長女だけは、
生きていることがわかった。
36年ぶりの再会ができ、
親子は手を握りしめて泣いた。
40歳の長女には、
「残留孤児」の苦難の跡として、
深いしわが、刻まれていた。

5) 阿智村に、「満蒙開拓平和記念館」が建設される。

「満蒙開拓平和記念館事業準備会」のリーフレットから。

今、伝えなければならない
満洲移民の歴史-平和への願い

「満蒙開拓平和記念館」建設の趣旨
かって全国各地から27万人もが渡満し、
日中双方を含め多くの犠牲者をだした。
「満蒙開拓」に特化した全国唯一の記念館。

寄付と資料の提供を呼びかけている。
軍国主義の圧力のもとで、
「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出に、
大きく関係した信濃教育会は、
「平和の尊さを次世代に語り継ぐ」
という趣旨に賛同し、200万円を寄付した。

建設場所は、「長岳寺」の近くで、
2013年5月の開館を目指して、
整地しているところだった(2012年6月)。
できるのが楽しみだ!

6) 阿智村で、「戦争ポスター」135枚が、見つかった。
阿智村ポスター」である。
阿智村役場を訪れた。
課長が応対してくれた。
ありがとうございました。

「阿智村の原 弘平 元村長が、
保存していた戦争のポスターで、
国や県から、村に張るように配られた。
ポスターは、終戦直後に破棄を命じられたが、
『尊い教材になると考え、命がけで蔵に保管した』
紙質が悪くて、痛んでいるものもあるが、保存状態はいい」
と、説明された。

「今の子どもは、戦時中の状況を語る祖父母が、
いなくなってしまった世代だが、ポスターは、
当時の状況を示す貴重な資料である。
一枚一枚が、どのような状況で作成されたのか?
考える教材として、平和学習に提供していきたい」
「希望により、複製品の貸し出しをします」
と話された。

「阿智村ポスター」の印象。
☆多色刷りである。グラデーションもある。
 物不足にもかかわらず、金がかかっている。
☆デザインがいい。
 人目を引く。内容がすぐにわかる。
☆大きい。
 およそ、縦91センチ、横61センチある。
☆紙質は良い。
 物資がないときにもかかわらず良質。それに分厚い。

戦争のプロパガンダとして、
ポスターには、力を入れていたことがわかる。

貯蓄達成運動」、1940年。

「貯蓄達成運動」
「120億円」
「大蔵省 道府県」

労務動員」。
~工場で働いて繊維をつくろう~

「労務動員」
「集れ 輸出繊維工業へ」
「厚生省 財団法人職業協会」

国債を買って、戦線へ弾丸を送りましょう」、1941年。

「国債を買って 戦線へ弾丸を送りましょう」
「支那事変国債 郵便局売り出し」
「10月24日⇒11月4日」
「大蔵省 逓信省」

まゆ生産 1100万貫 確保」、1939年。
~まゆを増産して外貨を稼ごう~

「まゆ生産 1100万貫 確保」
「長野県」
「長野県蚕糸業同盟会」

国民精神総動員強調週間」。

「国民精神総動員強調週間」
「特輯放送番組」
「2月11日から2月17日まで」
「日本放送協会(NHK)」

当時は、これらのポスターで、
戦争遂行へ、大いに駆り立てられた。
政府主導の「国民精神総動員」で、
戦争遂行の思想教育を徹底した。
少年は、航空兵士になりたい、
少女も、お国のために尽くしたい、
と、軍国少年、軍国少女を育てた。

しかし、今では、こんな内容のポスターが、
市役所にあれば、ギョッとする。

「阿智村ポスター」は、
「満蒙開拓平和記念館」ができれば、
複製品が展示されるという。
オリジナルは、傷みやすいから。

「阿智村ポスター」は、
「満蒙開拓平和記念館」に先立って、
長野県立歴史館」で展示される。

戦争と宣伝
- 阿智村ポスターが語る -

長野県立歴史館(千曲市)のリーフレットから。

「阿智村ポスター」は、オリジナルが、
展示されるというから、見ものである。
平成24年7月28日(土)~9月2日(日)

「阿智村ポスター」は、
阿智村の貴重な財産である。
平和学習の教材である。

満蒙開拓団」について知るならば、
まずは、「阿智村」へ行くといい。
平和学習の教材が、阿智村にある。
阿智村役場は、親切に応対してくれる。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 満州からの引揚者の幸せは? | トップ | 満蒙開拓団の幸せは? »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事