季節の変化

活動の状況

満州からの引揚者の幸せは?

2012-06-10 00:00:20 | Weblog
満州からの引揚者の「幸せ」は?
敗戦で、満州からの引揚者は、
悲惨な体験をされている。

満州には、
軍人」(広東軍)、
満州鉄道ほか「仕事の人」、
満蒙開拓団」(農業移民)、
など、155万人が渡った。

そして、1945年8月9日のソ連の満州侵攻で、
命からがら、日本に逃げもどった「引揚者」である。
満州からの引揚者のほかに、つぎの人がいる。
引き揚げるときの飢えと寒さ、発疹チフス、
襲撃、それに、集団自決で「死亡」した人、
シベリアへ「抑留」されて、死亡した人、
引き揚げるときに、親子バラバラになったり、
シベリアへ抑留されて、「行方不明」になった人、
満州に残され、「残留孤児」になった人、
それに、「残留婦人」である。

残留孤児は13歳未満、
残留婦人とは、13歳以上の女性である。
満州からの引き揚げは、
乳飲み子や幼い子どもを連れた若い母親にとっては、
あまりに過酷で、生死と引き換えに、中国男性と結婚した女性や、
「大陸の花嫁」として、満蒙開拓団の結婚相手に送り込まれ、
引き揚げをすることができずに、中国男性と結婚して、
満州にとどまることになった女性である。

満州からの引揚者に、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、聞いてみたい。
極限状態を体験した人が、
感じる「幸せ」は、本物である。
抽象や評論ではない。

軍人」では、
シベリアへ抑留され、収容所では、
飢えと極寒の中、重労働を強いられて、
栄養失調、発疹チフス、それに、
事故で大量の死者がでるなかを、
命からがら、日本にもどることができた、
穂苅甲子男(ほかり かしお)さんが、松本にいる。

「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、穂苅甲子男さんに聞いた。
生きていることに、感謝している
と、言われた。

仕事関係」では、観象台(気象庁)の家族がいる。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、聞いてみたい。
機会をねらっていた。

観象台の家族が、
満州から引き揚げる状況は、
流れる星は生きている」を読んだ。
藤原てい 著。中公文庫。

観象台の母子4人は、
ソ連の満州侵攻によって、
これまでの生活を放棄して、
とるものもとりあえず、満州を引き揚げる。

満州国観象台(新京)の課長として赴任した、
夫の藤原寛人(ふじわら ひろと)さんは、
残務と機密情報の処理のために、
満州にとどまった。

このため、奥さんの藤原ていさんは、
3人の子どもを引き連れて、
満州から引き揚げることになった。

最低限の荷物をつめたリュックサックを背負い、
リュックサックの上に生後1ヶ月の咲子さんを乗せ、
両手に正広さん(6歳)と正彦さん(3歳)を引く。
夫の藤原寛人さんは、別れ際に、
ロンジンの懐中時計を授けた。

母子4人には、飢えと寒さ、病気、
そして、死ととなり合わせの、
壮絶な脱出行が待っていた。

夫の藤原寛人さんは、新田次郎で、
次男は、藤原正彦さんである。
名前で、おわかりでしょうか。

新田次郎は、「八甲田山死の彷徨」ほか、
山岳小説のジャンルを拓かれた作家。
藤原寛人さんは、気象庁で、
巨大台風から日本を守るために、
富士山頂に気象レーダーを設置した総責任者。
NHKの「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」の第1回、
「富士山頂・男たちは命をかけた」で取り上げられた。
藤原正彦さんは、ベストセラー「国家の品格」の著者。

親子2人の講演を聴いたことがある。
新田次郎と藤原正彦さんの講演である。

新田次郎の講演は、出身地の諏訪市だった。
昭和30年代だったか? 演題は忘れた。が、
作家になったきっかけを話された。

奥さんの藤原ていさんの手記、
「流れる星は生きている」がベストセラーになり、
「編集者や新聞記者が自宅を訪問する。
すると、お茶を出すのは、自然に私の仕事になった」

「自分では、そのつもりはなかったが、
お茶をそっけなく、ポイッと出したようです。
おもしろくないように見えたのでしょう」
「すると、編集者が、
あなたも、書いてみませんか? といわれた。
これが、きっかけでした」

新田次郎は、満州で、ソ連の捕虜になり、
中国共産党軍に抑留されてから、
ていさんのあとで引き揚げた。
この講演のときには、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
とは、聞かなかった。
新田次郎の満州からの引き揚げと、
作家になったいきさつに興味があった。

藤原正彦さんの講演は2回聴くことができた。
「日本のこれから、日本人のこれから」、2008年10月19日、岡谷市。


わが父、新田次郎を語る」、2012年6月3日、諏訪市。


「わが父、新田次郎を語る」で、藤原正彦さんは、
新田次郎が作家になったきっかけを、
つぎのように話された。

「母は、満州からの引き揚げの苦労がたたって、
心臓内膜炎になった。治療にはペニシリンが必要で、
費用を稼ぐために、父はエッセイを書いては、応募していた」
「昭和31年に『強力伝』で直木賞を受賞した」


藤原ていさんの、
「流れる星は生きている」を読むと、
母子4人が、満州から引き揚げるには、
」を捨てなければならない、それに、
哀れみ」を示して、同情を得なければならない。
「恥」をかなぐり捨て、「哀(あわ)れみ」を示さなければ、
生き延びることができなかった。一家全滅になる。

早朝の市場へ行って、落ちている葉っぱや、
大根のカスを拾って、粥(かゆ)に入れて食べる。
食糧を買う金を稼ぐために、石鹸を売り歩きながら、
哀れみを示して、容器を差し出し、味噌や残り飯を、
恵んでもらう「物乞い」をしなければ生きていけない。

そうまでしても、子どもは栄養失調になった。
それに、母乳も出なくなる。代わりに粥をすすらせた。

長男の正弘さんは、ジフテリアになった。
血清を打たなければ死ぬが、1,000円かかる。
だが、手持ちは100円しかない。
相場が250円のロンジンの懐中時計を、
朝鮮人医師は、血清代として受け取って、救ってくれた。

山越えがあり、川越えがある。
靴はなくなり、はだしで歩き続ける。
母と正彦さんの足の裏には、
石が埋まり、化膿(かのう)した。
診療所で手術して、石を掘り返してもらう。

痛くて歩けないから、母子は、
診療所まで100メートルを、這って通う。
いざりの乞食女と、さげすまされたこともあった。
あとで、母は、捨ててあった牛のわらじを右足に、
鼻緒(はなお)のないぞうりを左足にくくりつけて、歩いた。

満州引き揚げは、
気が狂った人、
老人を亡くした人、
子どもを亡くした人、
夫を亡くした人までがいる脱出行である。

ついに、故郷の上諏訪駅にたどりついて、
「引揚者名簿」に、名前と住所を記入した。

そして、鏡に映し出された姿に、立ちすくんだ。
墓場から抜け出してきた「幽霊」だった。
半ズボンに色のあせきったシャツ、
灰色のぼうぼうとした髪、
土色に煙った顔に頬骨が飛び出し、
眼はひっこんで、あやしい光を帯びていた。

博多に上陸したときに、
支給された下駄をはいて、
背中には、死んだような子を背負い、
両脇には、がくりと前に倒れそうな、
栄養失調で、やせ衰えた子どもの手を引いていた。

改めて、「流れる星は生きている」を、
読んでみたが、涙がでてきた。

満州から引き揚げた藤原正彦さんに、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、聞くことはなかった。
講演、「わが父、新田次郎を語る」で、
藤原正彦さんは「幸せ」に触れた。

「満州から引き揚げて、親子5人は、
竹橋にあった気象庁の官舎に住んだ」
「官舎といっても、木造で狭くて粗末だった。
父の給与は安かった。しかし、
人間の『幸せ』は貧富とは関係ない。
5人がそろって生活できることが『幸せ』だった」
「ときには、笑いもあって生活した」

満州からの引揚者が、
幸せ」を感じるときは、
「家族がそろって生活できること」

この言葉には、重みがある。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と聞かれて、答えたのではなく、
満州からの引揚者が「幸せ」について、
自問していて、自然にでてきた言葉だから。

「新田次郎生誕百周年記念」の植樹。
諏訪市図書館で、2012年6月3日。信濃毎日新聞から。

新田次郎が好んだ「コブシ」を植樹。
右から2番目が藤原正彦さん。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 幸せを感じるときは? | トップ | 満蒙開拓団は阿智村に注目 »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事