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駒ヶ岳は「聖職の碑」の現場

2012-10-14 00:10:14 | Weblog
駒ヶ岳は「聖職の碑」の現場。
「聖職の碑」(せいしょくのいしぶみ)は、
中箕輪(なかみのわ)尋常高等小学校が「駒ヶ岳」に登り、
遭難した修学旅行登山に基づく新田次郎の小説である。講談社発行。


およそ100年前の1913年8月26日、
中箕輪尋常高等小学校(現在、箕輪中学校)は、
1泊2日の修学旅行登山で「駒ヶ岳」2956mを目指した。

一行37名は、
赤羽長重(ちょうじゅう)校長をリーダーに引率の先生2名、
高等科2年生(今の中学2年生)の男子25名と、
援助する同窓会員9名だった。

しかし、急に動き出した台風に襲われ、
赤羽長重校長と14歳~16歳の生徒10名が遭難した(1913年8月27日)。

中箕輪尋常高等小学校のあった場所は、
現在、「箕輪中部小学校」が建っていて、
そこに「駒ヶ岳遭難の碑」がある。

13回忌の1925年の8月27日に、遭難した同級生が建てた。
奇しくも、この年に唐沢圭吾さんの遺体が見つかった。

「箕輪中部小学校」では毎年、事故があった8月27日に、
生徒は花を手向けて遭難者を悼むとともに、学校行事の安全を祈る。

これまでに3回登っている「駒ケ岳」が遭難現場である。
どうして、11名も遭難したのだろうか?
「駒ヶ岳」学校登山に興味を持った。

山に囲まれた長野県の学校では、
学校登山」は当たり前の行事で、
学年ごとに登る山が決まっていた。
小学校では2000m級で、七島八島や霧ヶ峰。ゴシタカッタナ!
中学校では3000m級で、蓼科山(八ヶ岳)を覚えている。
蓼科山は、ふもとから登ったためか、頂上は遠かった。
登山とは別にキャンプ(霧ヶ峰)があって、
テントの設営や飯盒(はんごう)炊さんは楽しかった。

毎年の登山とは別に最終学年に「修学旅行」があった。
毎月積み立てて、小学校は江ノ島・鎌倉、
中学校は奈良・京都だった。

長野県人に機会があると、中学校時代の「学校登山」について聞いてみた。
北アルプスの「乗鞍岳」(のりくらだけ、3026m)だった、
北アルプスの「燕岳」(つばくろだけ、2763m)だった、
八ヶ岳の「天狗岳」(てんぐだけ、2646m)だった、
菅平高原の「根子岳」(ねこだけ、2027m)だった、
「仙丈ケ岳」(せんじょうがたけ、3033m)だった、
「御嶽山」(おんたけさん、3067m)だった。

そして、「駒ヶ岳」(2956m)だった、
という人がいた。
「中学校はどこですか?」
と思わず聞いた。
箕輪中学校です」

下校時、生徒は元気よくあいさつする。

まさに、「聖職の碑」の「中箕輪尋常高等小学校」ではないか!
しかも、小学校は「箕輪中部小学校」の卒業生で、そこには、
「駒ヶ岳遭難の碑」があることを教えてくれたのである。

さっそく「箕輪中部小学校」と「箕輪中学校」へ行った。
2校は高台で、隣同士にあった。2校の卒業生は、
「箕輪中部小学校」の正門で待っていてくれた。
「私の家はあそこです」
と、指し示した先を見ると、なるほど、両校に近い。

2校では、ありがたいことに教頭先生が応対してくれた。
それに、「駒ヶ岳遭難の碑」の裏に書いてあった文、
「箕輪町郷土博物館」の話、
「箕輪中学校」の卒業生の話、
新田次郎の「聖職の碑」を基にして、
学校登山の「駒ヶ岳」でどうして、
11名も遭難したのだろうか?
どんなルートだったのだろうか?
「駒ヶ岳遭難」を探った。

「駒ヶ岳」の登山ルート

「聖職の碑」、新田次郎著から作成。

目指すは左の「駒ヶ岳」①(2956m)。
右の「胸突き八丁」③を登り、
初日は左の「伊那小屋」⑨泊り、
翌日、「中岳」⑩から「駒ヶ岳」①に登る。

前年まで同行したガイドは、予算の関係から雇うことができなかった。
地元のガイドがいなかったことは、遭難事故を暗示させる。
しかし、遭難したのは、天候の急変と、
泊まるはずの「伊那小屋」⑨が、登山者の失火により、
影も形もなかったことだった。

登山の前に、飯田測候所に何度か電話をかけているが、
直前の電話でも変わりはなく、
「北東の風、曇り、にわか雨」
この季節の長野県の山ではもっとも一般的なものである。

ところが、八丈島付近に停滞していた低気圧、
(当時は低気圧の扱いだったが、実際は台風)は、
韋駄天(いだてん) 「台風」となって北上し、
8月26日の夜は暴風雨になって駒ケ岳を襲った。

「駒ヶ岳」登山の初日は、
「駒ヶ岳」①の手前にある「伊那小屋」⑨に泊まる。
しかし、「伊那小屋」⑨にたどり着く前から、
霧になり、雨と強風によって生徒の身体は冷え切った。
そして、たどり着いた「伊那小屋」⑨は影も形もなかった。
急きょ、仮小屋をつくって、一晩明かしたが、
暴風雨で仮小屋が倒壊する危険から山を降り、
生徒10名と校長の11名が遭難した。

さて、「駒ヶ岳」登山の登山口は、
「胸突き八丁」③の手前 「桂小場」②(かつらこば) である。

「桂小場」②には1本の大きな桂の木があった。
左は「聖職の碑」コース案内図。
登山口と登山者用の駐車場はこの左にある。

学校から「桂小場」②まで、
車のメータで19キロあったが、生徒は歩いている。
100年前の生徒の脚力と精神力は、大したものだ。
今とは違う。食べ物も粗末だったのに。

装備も今から比べると粗末である。
袷(あわせ)の着物に股引(ももひき)だった。
脚絆(きゃはん)に草鞋(わらじ)履き、麦わら帽子、
防寒用に冬シャツと雨に備えてゴザの合羽を用意した。

「桂小場」②からいよいよ登りになる。
着物に草鞋で、「桂小場」②まで19キロを歩く元気は、
私にはない。「桂小場」②まで車で来て、そこから登りたい。

朝の5時40分に学校を出発して ⇒「桂小場」②に、
10時40分に着いたから、5時間かかった。お昼まで休憩して
⇒「胸突き八丁」③ ⇒「行者岩の最低鞍部」(2600m)④に、
着いたのは午後3時。

学校から9時間20分の行軍である・・・疲れたと思う!
それに、この先「伊那小屋」⑨までは3時間かかる。
森林地帯を抜けたこのころから霧が出始める。
それに、尾根道は強風をまともに受ける。

「将棊頭山」(しょうぎかしらやま)⑤の近く ⇒
あとで建つ「遭難記念碑」⑥を通り ⇒
「濃ヶ池」(のうがいけ)⑦に着いたのは午後4時。

濃ヶ池」。2012年8月20日。

「駒ヶ岳」から、左奥の「将棊頭山」(しょうぎかしらやま)2730m方向へ、
馬の背を降りる途中で撮影した「濃ヶ池」。夏なのに雪渓が残っている。
生徒は「濃ヶ池」を通って、右に見える山すそ(中岳)の右側に上がってくる。

「濃ヶ池」⑦ ⇒ 「駒飼ノ池」(こまかいのいけ)⑧の近くになると、
天気が急に変わり、雨が降り、冷たい谷風が襲ってきて、
大急ぎで登る ⇒ あるはずの「伊那小屋」⑨に、
着いたのは午後6時だった。
出発してから12時間20分である。

赤い屋根の山小屋は「天狗荘」。
「伊那小屋」⑨は、この辺にあった。

生徒は右下にある「駒飼ノ池」⑧、「濃ヶ池」⑦から、急な坂を、
「中岳」⑩の手前にあるはずの「伊那小屋」⑨まで、
雨が降り出した濃霧の中を這い上がってきた。
「駒ケ岳」①は、「中岳」⑩の奥に見える。

しかし、泊まる予定の「伊那小屋」⑨は、焼失して、影も形もなかった。
「伊那小屋」⑨に着いたら、火を焚き、温かいお湯を飲み、
休むことができる、という望みはなくなった。

暴風雨はそこまで来ていた。
残された高さ1メートルの石垣に、
急いで、焼け残った角材を渡して、
ハイ松やゴザの合羽をかぶせて屋根をつくり、
最後に石を乗せ、40分くらいで仮小屋を造った。

仮小屋ができたころから、暴風雨になった。
八丈島付近に停滞していた低気圧は、
韋駄天(いだてん)台風となって北上し、
8月26日の夜は暴風雨になって駒ケ岳を襲った。
仮小屋の雨は漏り、火は焚けず、真っ暗の中、寒さと睡魔に闘った。

容赦ない暴風雨は仮小屋の屋根を剥(は)ぎにかかった。
危険を感じて「木曽小屋」(頂上木曽小屋)⑪に逃げ込むことを考えた。
駒ヶ岳の頂上から木曽側(西側)に50メートルほど降りたところにある。

駒ヶ岳の頂上から見た「頂上木曽小屋」、赤い屋根。
奥は「御嶽山」3067m。2004年10月18日。

2012年8月21日に「駒ヶ岳」の山頂に登ってご来光を待ったが、
気温は10℃以下、それに風が強いから、ふるえがくる。
中箕輪尋常高等小学校の、「駒ヶ岳」登山のように、
もし「暴風雨」が一晩中、荒れ狂ったら、
体温は奪われ、遭難するだろうな、と思わせる。

「木曽小屋」(頂上木曽小屋)⑪と、
「駒ヶ岳」①、「中岳」⑩を含む全体の位置は、
「宝剣岳」⑫の先から見ることができた。2012年8月21日。

「木曽小屋」(頂上木曽小屋)⑪は、「駒ヶ岳」①の左下にある。
「伊那小屋」⑨からは、「中岳」⑩を越え、
「駒ヶ岳」①の頂上から、左側(木曽側)に降りる。約1キロ。
「駒ヶ岳」①に登らずに、巻き道もあるが危険。
左奥は「乗鞍岳」(のりくらだけ)3026m。

「木曽小屋」⑪を探しに赤羽校長と引率の先生が仮小屋⑨を出た。
しかし、暴風雨に小石が舞い、進むことができずに、
仮小屋⑨にもどった。1913年8月27日、午前7時。

仮小屋⑨で生徒の古屋時松さんが亡くなった。疲労凍死である。
「死が、こともなげに訪れたのを見て、すべての者は動顚(どうてん)した」
なんとかして、この場を逃げ出さないと、古屋時松さんと同じ目にあう。

「おれは山を降りるぞ、こんなところにいたら、みんな死んでしまう」
と、青年が立ち上がったのを機に、いっせいに仮小屋を出た。
暴風雨の中を、「濃ヶ池」の方向に降りた。

「駒飼ノ池」⑧で1名(唐沢圭吾さんの遺体は12年後に見つかった)、
「濃ヶ池」⑦で1名、
「将棊頭山」⑤付近で赤羽校長を含む8名が亡くなった。

「駒ヶ岳ロープウェイ」ができた今では、
「千畳敷」⑬まで登ってから、
「中岳」(2925m)⑩から「駒ヶ岳」①に登るルートが多く使われる。
「宝剣岳」(2931m)⑫や「濃ヶ池」(2655m)⑦めぐりにも近い。

中箕輪尋常高等小学校は、遭難事故から12年後に、
「駒ヶ岳」登山を再開している。そして、
100年たった今でも、箕輪中学校は、
「駒ヶ岳」登山を続けている。

しかし、「駒ヶ岳遭難」を教訓として、いくつかの違いがある。
登山の準備として、雨が降っても、毎日2キロのランニングを100回続ける、
経ヶ岳(きょうがたけ、2296m)に日帰りの予備登山をして、適正調査をする、
健康診断をする、引率する先生は下見登山をする、マムシの血清を準備する、
遭難記録を読み、駒ヶ岳の勉強をする。

ほかに、登山口やルート、人数、泊まる山小屋が違っている。
登山口。
100年前の登山口は、学校から19キロ先の、
「桂小場」(かつらこば)②、伊那市だった。そして、
翌日は「駒ヶ岳」①に登り、「将棊頭山」⑤から、
「権現づるね」を降りる予定だった。
「桂小場」(かつらこば)②より南になる。

今は、「駒ヶ岳ロープウェイ」の下の、
北御所」(きたごしょ)⑭、駒ヶ根市までバスで行って、登り、
翌日「駒ヶ岳」①に登ったあと、「将棊頭山」⑤近くの、
「遭難記念碑」⑥に花を手向けて祈り、「桂小場」②へ降りてくる。

ルートと人数。
100年前の37名から、中学2年生の260名~270名に。
37名は学校 ⇒ 桂小場② ⇒ 将棋頭山⑤近く ⇒ 伊那小屋⑨泊まり
⇒ 中岳⑩ ⇒ 駒ヶ岳① ⇒ 「権現づるね」 ⇒ 学校だったが、
260名~270名はバスで北御所⑭ ⇒ 伊那前岳の前の稜線
⇒ 乗越浄土 ⇒ 宝剣山荘と天狗荘に分かれて泊まり
⇒ 中岳⑨ ⇒ 駒ヶ岳① ⇒ 遭難記念碑⑥ ⇒ 桂小場②となっている。

「中岳」から見た「天狗荘」、手前の赤い屋根と、
奥の「宝剣山荘」。その先は「宝剣岳」。

右奥は「空木岳」。左奥は南アルプス。

長野県は山国である。校歌には山がでてくる。
長野県から山を取ったらなんにも残らない。
周到な準備のもとに行われる登山は、
自然を観察し、身体を鍛え、
強い意志を養うとともに、
目的達成の場になる。

新田次郎の小説の題名「聖職の碑」は
「教師は単なるサラリーマンではなくして、聖職である」
ことから名づけられた。
「教師は、こどもたちを愛し、導くためには、
身を犠牲にするのも惜しくはない」
赤羽長重校長がまさに、『聖職の人』だった。

「中岳」の頂上から見た「駒ヶ岳」。

「頂上木曽小屋」⑪。左奥は「御嶽山」3067m。
手前の青い屋根は「駒ヶ岳頂上山荘」で100年前はなかった。

「箕輪中学校」のとなりにある「箕輪町郷土博物館」では、
「中箕輪尋常高等小学校の駒ヶ岳遭難」の特別展を、

2012年10月27日~11月18日まで開催する。
入館料100円は無料になる。

来年の2013年は「駒ヶ岳遭難」から「100周年」になる。
遭難した子孫が100周年登山を計画されている。

駒ヶ岳遭難」は語り継がれ、
教訓になって、生かされてきている。
そして、つぎの100年に生かされていく。
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